猫と僕の話

七草葵

猫と僕の話

 先日、浮気をした彼女と別れた。

 大学2年生の時に出会ってから、お互い穏やかに惹かれ合って付き合うようになって、僕の就職と同時に同棲を始めた。ひとつ年下の彼女はまだ一年大学生活が残っている。そんな彼女と会う時間が減るのが嫌だった。彼女の両親に挨拶して、同棲の許可をもらって、どちらかといえば僕の会社より大学の方に近いアパートを借りた。それが去年。他人との生活は初めてで戸惑うことばかりだったけれど、お互い進学と同時に実家を出て一人暮らしをしていた同士だからある程度家事も助け合えた。初めての社会人生活に疲れ切って彼女に頼りきりの部分もあったけれど、彼女が卒論で目を回している時は僕がサポートしたりもした。

 そして今年。社会人デビューして3か月で、彼女が浮気した。

 相手は彼女のメンターで、30代半ばの既婚者らしい。要するに不倫だ。社会人デビューしたてで右も左も分からない女の子を食い物にしているあくどい大人。そんなくだらない奴に彼女はすっかり夢中になってしまったらしい。

「私たちの愛は、真実の愛なの。ロミオとジュリエットだって結ばれなかったでしょ? 本当に心が通じ合っていても、社会がそれを認めないことはよくあることなの。結ばれないからこそ、私たちの愛は永遠なんだよ」

 彼女は、悪い大人の受け売りなのが明らかな詭弁を並べ立てた。真実の愛だけど不倫だから、友達にも話せないらしい。蜜月期間でのろけたくてしょうがなかった彼女は、よりにもよって僕にその話を思う存分披露し始めた。信じられない。不倫をすると人間は知能指数が下がるのか? 僕は怒りを抑えつつ、5年付き合った僕より不倫するような男を選ぶのか、と問いかけた。

「もちろん」と彼女は笑顔で答えた。「最近一緒にいてもドキドキしなかったじゃない? お互い、そろそろ次のステップに行くべきかなって」

 次のステップが結婚じゃなくて浮気と別離だなんて想像だにしなかった。彼女の目に、僕は単純でバカな男に見えているんだろう。彼女との楽しかった思い出や、幸せだった記憶や、惹かれた仕草などが脳裡を駆け巡った。けれどそのすべてが、彼女の「ロミオとジュリエットのような恋愛」に酔っている顔に上塗りされた。要するに僕は、不倫に酔っている彼女にすっかり幻滅してしまったのだ。そのおかげで、別れることにはあっさりと同意できた。

 僕は荷物をある程度まとめて、一週間のうちに同棲していた家から出た。彼女の相手には家庭があるから、彼女の方が引っ越すことには期待できなかったし、今まで僕と折半していた分の家賃は、不倫相手が援助してくれるらしい。僕はといえば、そろそろ付き合い始めて5年目の記念日だから、ちょっとした旅行でもしようと思っていた。プロポーズも考えていた。だから、貯金はある程度あった。旅行もプロポーズも無しになったのだから、引っ越し資金どころか向こう何か月かの家賃にだって余裕があった。まあ、安いところを探せばの話だけれど。


「にゃー」

 眠れない夜。天井を見上げながら彼女のことを考えていると、猫が布団に潜り込んできた。

 言い忘れていたけれど、彼女と僕は猫を飼っていた。もともとは彼女の猫だ。暖かで穏やかな実家でぬくぬくと暮らしていた彼女は、進学と同時にひとり暮らしを始めたとたん寂しくてしょうがなくなったらしい。そこで親に資金を援助してもらって、猫を飼い始めた。緑色の目をしたロシアンブルー。ペットショップで一目ぼれしたらしい。名前はロミオ。今思えば皮肉な名前だ。

 ロミオも彼女に捨てられた男の一人……一匹、だ。僕が彼女の実家に「彼女が浮気相手に心変わりしたので同棲を解消してほしいと言われた」と報告したところ、僕らの結婚を期待していたご両親がたいそう残念がって、仕送りをやめると言い出したのだ。それによって、彼女は猫を飼う余裕がなくなってしまった。だから僕がロミオを引き取ることにしたのだ。それに、もともと彼女の猫だったとはいえ1年ほど一緒に暮らしてきて、僕もロミオには情が移っていた。最初は彼女が用意したエサしか食べようとしなかったロミオが、僕にエサをねだってくるようになった時は感動した。彼女が友達と卒業旅行に行っていた期間は、僕がロミオの遊び相手で、ロミオが僕の遊び相手だった。ロミオは賢い猫で、一度教えた遊びはすぐに覚えた。不覚にも僕が出しっぱなしにしていた猫用おやつを見ると、ロミオはつまみ食いもせずに「出しっぱなしだぞ」と教えに来てくれたりした。そんな賢いロミオが、今後不倫相手を彼女が家に連れ込むたびにないがしろにされたり、彼女が不倫相手とホテルで密会するたびにお腹を減らして弱っていくのかと思うと不憫でならなかった。というか、彼女が卒論を終えて卒業旅行や女子会やパーティーへと遊び歩いている間、ロミオはすっかり無視されていた。新社会人になると、彼女の帰りが遅くなったり泊りがけの出張が増えたりして家に帰ってこなかったりしたから、その時もロミオは寂しい思いをしていた。ここ数か月、ロミオの飼い主は僕だったと言っていい。ロミオと僕は、彼女が不在の間の寂しさをお互いに慰め合っていた。そんな戦友ともいうべき気高い猫を、不倫相手との愛の巣なんかに置き去りにはできない。ロミオを引き取る決意をするのはたやすかった。

 ロミオは基本的に甘えたりしない猫だけれど、たまにこうして側に寄ってくることがあった。決まって僕が、彼女のことを思い出して眠れない夜だ。別に未練があるわけじゃないけれど、ただただ胸が苦しくなって眠れない夜。もしかしたらロミオも、同じ周期で彼女の事を思い出して眠れなくなるのかもしれない。あるいはただ、新しい住まいの居心地が悪くて、彼女の残り香でも嗅ぎに僕の側に寄ってきているだけかもしれない。


「ただいまぁ……」

 終電間際まで残業した後、やっとの思いで家へとたどり着く。今朝ロミオのエサを少なめに盛ってしまったことが気がかりでしょうがなかったから、お詫びの意味を込めて四百円の猫缶も買ってきた。いつもの猫缶の約三倍の値段。世の中には千円する猫缶だってあるけれど、これでも結構奮発した方だ。

「……あれ?」

 いつもならエサを求めて寄ってくるはずのロミオなのに、影も形もなかった。狭いアパートだ、隠れる場所なんてたかが知れてる。猫ベッドで寝てるのか、とか俺のベッドにもぐりこんでいるのか、とか。いつも隠れている場所を重点的に探したものの、どこにもいない。だんだん不安になってくる。

「……あ!?」

 ふと見ると、トイレの窓が開いていた。子供が通れるかどうかというくらい小さな窓だけど、猫なら余裕の大きさだ。格子もないし。もしかしたら、ここから外に出たのかもしれない。

「ロミオ……!」

 僕は慌てて家を飛び出した。


 ロミオが行きそうなところなんて全く分からなかった。彼は完全な家猫で、ベランダにも出ていこうとしなかった。エアコンが大好きで、人工的な空調のもとでないと生きられないとでも言うような、貴族的な生活を好んでいた。だから油断した。ロミオが外に出るなんて思わなかったから。

 言い訳じみた思考に逸れていくのを必死で軌道修正しながら、アパートの周りをうろうろと探し回る。狭い隙間や暗い場所を見つけては頭を突っ込んでみる。幸い深夜だから人通りはほとんどなかったけれど、その分住宅街は真っ暗でホラーじみていた。ひとりでいると、暗くて怖くて心細い。ロミオも同じ気持ちでいるかもしれない。心配でたまらなかった。

 歩き回っているうちに、なぜかふと嗅いだことのある香りに気付いた。自然と足がそちらへ向く。匂いをたどっているうちに気付いた。コンビニのおでんの香りだ。この近所にあるコンビニチェーンでは、珍しいことに通年おでんを売っている。彼女と同棲していた家の近所にも、同じチェーンのコンビニがあった。お互いを駅前まで迎えに行った帰りや、休日夕方までゴロゴロしたあとのちょっとした散歩の最中に、よくふたりで立ち寄った。彼女はおでんが大好きで、季節関係なくしょっちゅうおでんを買っていた。

「このコンビニが近所だから、今の物件に決めたようなものなんだよ」と誇らしげな彼女に「大学が近いからだろ」と僕がツッコむのはおきまりのやりとりだった。恋人同士のくだらないお約束。なぜかふいに、他愛のない日常の記憶がよみがえった。このおでんの香りのせいだ。

 憎らしくなりながらもコンビニ前に着いた。彼女のことを思い出したくなくて、近所にも関わらず一度も来たことがないコンビニ。その駐車場の片隅に、ロミオがいた。

「ロミオ……探したんだぞ」

 僕が近づくと、ロミオは「にゃーにゃー!」と大きな声で鳴き始めた。普段鳴くことなんてほとんどないロミオだ。ちょっと掠れて裏返った、痛々しい叫び声のように聞こえた。

「どうしたんだよ? 帰ろうぜ」

 抱き上げようとすると、なぜか後ずさりして距離を取る。コンビニと僕の顔を交互に見ては、痛々しい声で鳴く。

 やっとロミオの意図が分かった。このコンビニのおでんの香りは、ロミオにとって彼女の記憶そのものなのだ。家で留守番しているロミオにとって、このおでんの匂いをかぐことは、彼女の帰宅と同義だったのだ。

「彼女にはもう会えないんだぞ、ロミオ」

 もう一度抱き上げようとする。けれどまた、距離を取られてしまう。ロミオが寂しがる気持ちはわかる。だってもともとの飼い主は彼女だ。だけど僕だって、今や彼の飼い主なのだ。諦めてほしい。今は認められなくても。

「ほら、帰ろう」

 胃が痛む。動悸がしてくる。ロミオの鳴き声が耳にキンキン響く。痛い。どうしてこんなに痛々しい声で鳴くんだ。そんなに彼女の方がいいのか? あんな、不倫男に騙されて舞い上がるような奴なのに。彼女の姿が脳裡に浮かんで、いっそう胸が痛んだ。

「……バカだな」

 ロミオの大きな瞳を見つめ返す。賢い猫だ。もう分かっているはずなのに。

「バカだなロミオ。僕たちは捨てられたんだぞ」

 改めて口にすると、急に目から涙があふれた。次から次に出てきて止まらなくなる。人に見られるのが恥ずかしくて、僕は思わず膝に額を付けてうつむいた。そんな体勢になると、嗚咽まで漏れてくる。

 そうだ、僕たちは捨てられたんだ。5年の幸せが、出会って3か月の不倫男に壊されたんだ。僕が積み重ねてきた愛情は、不倫男の軽薄な愛情に負けたんだ。

 認めたくなかった。彼女がバカになってしまったんだと思い込むことで、小さなプライドを守ろうとしていた。でも、ただ事実から目を逸らしていただけなんだ。僕は捨てられた。5年間の愛情には敗北のレッテルがつけられて、無様な粗大ごみになってしまった。

「にゃー」

 脚を抱えている手に、湿った感触がした。顔をあげると、涙で滲む視界にロミオがいた。ざらついた舌で、ぺろぺろと僕の手を舐めている。

「何? ……撫でてほしいのか?」

「にゃぁ」

 ロミオは目を細めて鳴くと、賢い犬のようにお座りをした。あまりにも綺麗な所作にびっくりして、僕は思わずロミオの頭を撫でてしまう。

「にゃー」

 間延びした声でロミオが鳴く。手のひらに収まりそうな、小さな頭。その中で、ロミオはどんなことを考えているんだろう。彼女に会いに来たのかと思っていたけれど、涙でぐちゃぐちゃになっている僕に頭を撫でられてロミオはずいぶん満足げだった。

「……僕を元気づけようとしてくれてたのか?」

「にゃぁ」

「僕が未練タラタラな事、気付いてたのか」

「にゃぁー」

 彼女に未練があったのは、僕だけだったのか? そう聞きたかったけれど、やめておいた。ロミオは賢い猫だから、きっと僕を傷つけないような返事をするに違いない。

 僕は服の袖で乱暴に顔をぬぐった。目元や頬が擦り切れそうなほど強く、ごしごしと。顔全体が摩擦で真っ赤だったら、泣いていたことが誤魔化せるかもしれない。僕の小さなプライドを笑うように、ロミオがじっと見つめてくる。

「何かうまいものでも食べようぜ。おごるよ」

 普段買わない千円くらいする猫缶を買ってもいい。その代わり、僕はちょっと高い酒でも買おう。つまみだって、向こう側が透けるくらいペラペラの生ハムじゃなくて、ちょっといいやつを買ったりしよう。

 僕ら二人でちょっとした贅沢を楽しんで、ちょっとした幸せを分かち合おう。

「にゃぁ」

 ロミオはどこか楽しげに、目を細めて鳴いた。


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猫と僕の話 七草葵 @reflectear

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