2-4 剣闘士養成所(スコラ)にて②

 剣闘士養成所にはさまざまな訓練場がありますが、なかでも最大のものが円形訓練場です。


 それはいわば円形闘技場のミニチュアといったところ。戦いの舞台となる闘技場だけが実寸大で、観客席や壁は簡略化されています。


 それでも十分に大きく、外周はジョギングコースにちょうどいい広さでした。


 十分な睡眠に、味はともかく栄養のある食事。生きているって素晴らしい! 冬の冷たい風も心地よく、私は調子にのってさらに速度を上げます。


「ご覧になりまして!? 1周遅れの烙印を押されたご同輩たちのあの顔!」


 ただひとり私についてきていたミュナさんがボソッと言います。


「……悪辣」


  筋トレのときは世界の終わりみたいな顔をしていたミュナさんですが、走るのは得意な様子。いまはけろりと無表情です。


「お嬢さまは高慢と決まっていますのよ!」


  学生気分でジョギングを楽しむ私たちですが、ご同輩たちはそうもいかないようで……。


「貴様はサンドバッグにでもなりたいのか? そのノロさ、むしろ敵に感謝されるぞ。『この無能に感謝』と墓石に刻まれたいなら、どうぞそのままペースを落とせ!」


 足を止めていたご同輩にネメラ教官の鞭が唸ります。


「――あぐっ!!」


 血のにじんだ赤いわだちを背中に刻まれた女は、よろよろとしながらも必死に前に進むしかありません。


 ……昨日、ミュナさんはこの基礎訓練のことを「泣いたり笑ったりできなくなる」と称していましたが、あながち嘘ではなさそうです。泣いても笑っても容赦なく鞭が飛んでくるのですから。


「なるほど、鞭で叩けばお前は走れるわけだ。私は学習したぞ!」


 ネメラ教官は本当に容赦なく女を追い詰めます。女は私より少し年上の17、18歳といったところ。その細い体格からして剣闘士の適正があるとは思えません。


「あの方は捕虜ではなさそうですわね。彼女はアエテリス人でしょう。どうして剣闘士に……」


 ミュナさんは女をじっと見ます。


「罪人だから」


「あんな気弱そうな方が犯罪……?」


「腕。入れ墨がある」


 確かに彼女の二の腕には、大きく『GE』の文字がありました。意味を考えていると、ミュナさんが短く答えてくれました。


贖罪剣闘士Gladiator Expiationis


「それなら間違いありませんわね。でも罪人は訓練もなしに闘技場に立たされると聞きましてよ。どうして訓練に参加しているのかしら……?」


 それはミュナさんもわからないようで、ふたりして首を傾げたときでした。後ろからものすごい勢いで誰かが走ってきたと思ったら、まさかの――というか、やはりネメラ教官です。


「おーい! 全員聞け! アツキみたいに私語してるやつは他にいるか? おしゃべりが好きな奴は今のうちに名乗り出ろ! 鞭でかわいがってやるぞ!」


 これまた婉曲的ですわね!? 飽きなくて結構ですわと思ったとたん、ぴしっと鞭が鳴ります。体をすくませましたが、なぜか鞭が飛んできません。


「おいアツキ。あのドンガメを背負って走れ。できないとは言わせんぞ、この馬鹿力が」


 ネメラ教官の視線の先には、先ほどの罪人さんがいます。もうすぐ3周遅れになろうかというくらいにペースが落ちていて、このままでは鞭がいくらあっても足りません。


「わ、わかりましたわ……」


 鞭が空を切る音に顔が引きつります。


「『はい教官』だ! バカタレ!」


「――は、はひ教官!!」


 へろへろと走る女を、私は掬い上げるように担ぎます。肩の上にお腹を乗せて、体を折り、足と腕をしっかり持てば――あの有名なファイヤーマンズキャリーです。


「な、なにするんですかぁ!?」


 必死にもがく彼女ですが、力が弱すぎて抵抗になりません。


「私だってこんなことしたくありませんわ! いいからじっとしなさいまし!」


 ネメラ教官がそばにいないことを確認してから罪人さんに尋ねます。


「ずいぶんとスリムな体ですこと……。ちゃんと食事は摂っていますの?」


「は、はい。でも、ぜんぜん体力がつかなくて……。アツキさんは、どうしてそんなに動けるんですか?」


「ふん。幼いころから鍛錬していれば、誰でもできますわ」


「そ、そうですか……?」


 罪人さんは信じていないようですが、それはまぎれもない事実です。私は艮御崎家の嫡子。文武両道は当たり前、あらゆる点において誰よりも優れた者であれと、厳しい教育を受けてきました。


 ――私にとって、すべてができて当然のことですのよ。


「そうですわ。――私はさっさと10勝して、木剣拝受者ルーディウスになりますのよ。訓練ごときでつまづいている場合ではありませんの」


 私の断言に驚いたのか、彼女は服をつかむ手にぎゅっと力を入れました。


「アツキさんは本当にすごい……。私もそんな風に自信をもてたら……」


 ふふん! と鼻を鳴らします。褒められて悪い気分はしませんわね。


「見ていなさいまし。私は人の血を見て喜ぶ野蛮人どもを楽しませたりしませんわ。闘技会でも、一撃で倒して見せましてよ!」


 そう居丈高に豪語したときでした。


「一撃か。それはぜひ見てみたいね」


 声が漏れそうになりました。気づけば枯れ木のような姿が隣に並んでいます。


「マ、マルカス教官……!?」


 私が顔を引きつらせていると、マルカス教官は腰の後ろを叩きながら肩をすくめます。


「たまにはこうして走るのもいい……。腰痛への特効薬はやはり筋肉だよ」


 とらえどころのない話に戸惑っていると、マルカス教官は落ちる木の葉のような足取りでぴたりと並走しながら尋ねてきます。


「観客たちを楽しませたくないと言っていたね。それはなぜだい?」


「野蛮だからに決まっていますわ! 殺し合いですのよ。それを見て楽しむだなんて」


「ふむ……。私は釣りが大好きなんだ。この帝都にもね、いくつか川が流れていて……いまの季節は小さいけれど、淡白でさわやかな味わいの魚が釣れる。君は釣りをしたことがあるかな?」


 どうにも調子が乱れます。さっきまで我関せずだったのに、魚と聞いて急に耳をそばだてているミュナさんに呆れつつ、私は答えます。


「1度くらいはありましてよ。小さな魚でしたから、逃がしましたけれど」


 マルカス教官は満足そうにうなずきます。


「それは何よりだ。自分の狙い通りに魚がかかって、釣り上げたときの気持ちはどうだった? 興奮しただろう?」


「……まぁ、否定はしませんわ」


 もしかしてお年寄りの雑談に付き合わされているのだろうかと思い始めたとき、マルカス教官はにこりと笑って奇妙なことを言いました。


「目の前においしそうなごちそうがあった。君は思わずそれに飛びついた――瞬間、口に錨のような針を刺され、そのまま釣り上げられた。ああ、苦しい。息ができない。そう思ったとき、君をひどい目に合わせた人間は、『可哀そうに』と言って君を解放した……。なんて身勝手なんだろうね」


「な、なにを……」


「命をもてあそぶのは楽しいだろう? 魚は文句をいえないから、そのことに気がつくことは少ないけれども」


 マルカス教官の言わんとすることを察したとたん、一気に頭に血が上ります。


「――私が野蛮だとおっしゃっているのかしら……?」


「ひっ」と肩から罪人さんの声。どうして私を怖がるのでしょう。私は苛立ちつつマルカス教官を見つめました。老人の澄んだ緑の瞳は、それをまっすぐに受け止めます。


「人はみな野蛮なところがある。君も私もね。……その野蛮な部分を認めたうえで、克服しようというのならわかるよ。けれど君は、その胸の中に秘めたサガを否定してばかりだ……。それはどうしてだ?」


 そんなの決まっています。なんどもお母さまが私にいいましたもの。温姫は『お嬢さま』なのですからと。


「お嬢さまは野蛮なものには近づきませんの。人を楽しませるために殺し合いをするなんて、あってはならないことですのよ」


 マルカス教官の瞳が私の深いところを探るように動いています。


「――私は『君』のことを聞いているんだよ。『お嬢さま』のことじゃない」


 わ、私は――私ですわ。お嬢さまでいなさいと、あれほどお母さまに言われたんですもの。お嬢さまとはつまり私のこと。


 いったい彼は何を言っているのでしょう。酷く嫌な感じがして、思わず目を反らしたときでした。


 急にマルカス教官が立ち止まります。


「とにかく、君はここでは剣闘士なんだ。観客を楽しませないといけない。君が生き残るためにもね」


 マルカス教官はぱんぱんと手を叩いて、訓練終了をみんなに伝えました。つぎつぎと倒れ込む剣闘士たちをみて、満足そうにほほえみます。


「――よし。次は反射神経を向上させるための訓練だが、いつも同じ内容だと飽きてしまうな」


 マルカス教官は私に顔を向けながら剣闘士たちに言います。


「君たちには休憩をかねて、模擬戦の観客をしてもらおう」


 剣闘士たちが大きくどよめきます。降って湧いた休憩を心から喜んでいるようで、罪人さんに至っては私から降りて笑顔になるほどです。


「やれやれですわ。それで、いったい誰の模擬戦を見学しますの?」


 私のその質問はみなさんの疑問を代弁したものだったようでした。視線が集まるなかで、マルカス教官は首をかしげます。


「決まっているじゃないか。もちろん私と――アツキだ」


 視線が急に角度を変えて、私へと殺到します。驚きの中に少しばかり意地悪い眼差しが混じっているのは、私がこてんぱんにやられるのを期待してのことでしょうか。


 不埒なご同輩たちを一瞥してから、マルカス教官を見据えます。


「訓練初日からご指導いただけるとは恐れ入りますわ」


 マルカス教官は肩をすくめて私の言葉を軽くいなすと、思いがけないことを言いました。


「君は個室が欲しいそうだね。私に勝てたら便宜をはかってあげよう」


「――ほ、本当ですの?」


「もちろん、嘘はつかないよ。でも私が勝ったら――君には『観客を喜ばせる剣闘士』になってもらう。どうだい?」


 私の返事を待っているのはマルカス教官だけではありません。剣闘士たちが好き勝手にささやきます。


「マルカス教官相手だぞ? さすがのアツキも無理だろう」「アツキ! 応援してるぞ! お前が無様に負けるところをみせてくれ」


 みなさんずいぶんと好き勝手に言ってくれますわね。ふん、お里がしれましてよ。


 けれど、私を気遣ってくれる者たちもいます。


「大丈夫……?」


 そう言葉少なく見守るのはミュナさんで、


「アツキさんなら……!」


 と拳を握るのは罪人さんです。


 私の答えはすでに決まっていました。私は木剣拝受者ルーディウスになる剣闘士。歴戦の剣闘士たちを倒さねばならないというのに、老いた教官ごときに負けていてはお話になりません。


 私は落ちていた小枝をひろって、その先をマルカス教官に向けます。


「――その腰痛、叩き治して差し上げましてよ!」

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