2-2 アリーナ区にて②

 アルビウスさまのたくましい背中を追いかけること少々。急に視界が開けたかと思えば、ずどんと円形闘技場が現れました。


「すごい……!」


 あまりの迫力に語彙を失いつつも、私はその威容を見上げました。私の世界にあるものより一回り大きいようで、その規模は首都にあるドームと同じかそれ以上。日差しを照り返してまばゆく白く輝くそのさまは、まるで神々が降臨するための祭壇のようですらありました。


「アエテリスが誇る、世界最大の円形闘技場コロッセウムです。見ているだけで昂ぶるものがあるでしょう?」


 不本意ながらも、私の胸中はアルビウスさまの言葉の通りでした。いったい何人の勝者がここで生まれたのでしょう。そしてその陰で、何人の敗者が散ったことか。


 ……などと詩的に表現してしまいましたが、しょせんは殺人ショーの会場。これから剣闘士になる私にとっては処刑台も同じ。ふん、ほんと野蛮ですわ。


 などと毒づいていると、いつのまにかアルビウスさまが円形闘技場の裏手へと進もうとしています。


「いずれあなたも闘技場の上に立つことになるでしょう。しかし、今日のところはこちらです」


 慌てて追いかけると、アルビウスさまは学舎のような施設の入口で足を止めました。


「ここが帝国立剣闘士養成所スコラです。新しい暮らしの拠点となる場所ですので、よく覚えておくように」


 門に飾られた紋章には『勝利のために戦えPugna ad Victoriam』の文字。敷地に入ると、硬い木がぶつかり合う小気味よい音が私を出迎えます。そこに植木と砂の匂いが混じり合うと、私は通っていた道場を思い起こしました。


 お稽古のたびに聞いたなじみ深い音にノスタルジィを感じてつぶやきます。


「木剣の音……」


 アルビウスさまは敷地の奥を見ながらうなずきました。


「訓練場で剣闘士たちが模擬戦をしているのです。あなたも訓練を受けてもらうことになりますが、今日のところはお部屋に行きましょう」


 厳しい顔つきの守衛さんに会釈しつつ円形の中央棟に入り、外周の廊下を左回りに進みます。訓練を終えた汗だくの剣闘士さんたちとすれ違いながら渡り廊下を行けば、そこが目的の東棟でした。


「東棟は女性、西棟は男性用の宿舎になっています。あなたの部屋は3階にあります」


 階段を昇り、明り取りが並んだ廊下を通って角部屋に。アルビウスさまが扉を見ながら言いました。


「本来は4人部屋なのですが、いまはひとりしか使っていません。彼女もここに来たばかりなので、あなたも気安くすごせるでことでしょう」


 やっぱり相部屋ですかと憂鬱な気分です。なんせ相手は剣闘士。髪に櫛を入れたこともないような、女山賊のようなばっちい人物に違いありません。


「……私、相部屋なんて嫌ですわ。個室はありませんの?」


 奇妙な間。な、なんでしょうか。まるで私が変なことを口走ったような空気です。


「剣闘士の身分でそんなことを言うとは驚きました。なかなかの怖れ知らず……いえ、蛮勇ですね」


 アルビウスさまは苦笑いを漏らしながら続けました。


「なにかを望むなら結果を出すことです。優秀な者には個室を与えることもありますし、資金があれば、アリーナ区の中で家を借りることもできます」


「『ねだるな勝ち取れ』ということですのね。ふふん、そういうのは嫌いじゃありませんわ」


 頭の中のやることリストに『個室を手に入れる』と記していると、アルビウスさまが扉のノッカーを鳴らします。


「アルビウスです。新人を連れてきましたので、よろしくお願いします」


「……はい。ただいま」


 控えめな声とともに扉を開けたのは、すらりとした女でした。三毛猫のようなまだらの髪も物珍しいのですが、特筆すべきは元気に飛び出した三角形の耳。


 ドワーフに、ドラゴンときたら、やはり次は獣人……!


 そうなのです。自己主張が激しい三角の耳に、嫌でも目につくふわりとした長い尻尾。彼女はまごうことなき猫の獣人なのでした。


「私はこれで。あとのことは彼女に聞いてください」


 彼女になにかを手渡し、早足に去ってしまうアルビウスさま。残された私たちは、ばったりと出くわしたカエルとヘビのように見つめ合います。


「あの……」


 先手を打ったのは猫さんでした。なぜか眉間にシワを寄せて怪訝そうな顔です。


「名前は……?」


「艮御崎温姫ですわ。アツキとお呼びくださいまし」


「私はミュナ。よろしく……」


 ミュナさんは私より5歳ほど年上のようですが、人見知りする子供のような態度です。目も合わせてくれないどころか、顔すら背ける始末。


 できれば仲良くしたいのですけれど、調子が狂いますわね……。


「お邪魔しますわよ」


 戸惑いつつも、とりあえず部屋に入ろうとしたときでした。


「まって! 入らないで……!」


 両手を18禁マークのようにしたミュナさんが入室を拒みます。


「ど、どうしてですの……!? 今日から私もこのお部屋を使わせていただきますのよ!?」


 ミュナさんは私の顔を見ては目を反らすという挙動不審を繰り返すと、言葉を選ぶように慎重に言いました。


「アツキは……髪とか、梳いたことある?」


 どこに出しても恥ずかしくないお嬢さまの私に、言うに事欠いてそれとは。カチンと来てもしかたありません。


「――あるに決まっていますわ! 私のことを身なりも気にしない山賊のような女だとおっしゃりますの!?」


 思わず大きな声が出てしまいました。他の部屋の方々が、なんだなんだと顔を出します。そして不思議なことに、そろって顔をしかめて、汚物を見るような視線を向けてきます。


「な、なんですの……!? なにか文句がありまして!?」


 これはもしや、期待の新人に対する『洗礼』というものでは。そっちがその気ならこっちもこうですわ! 高飛車に腕を組んで、ふんと顔を反らすという高慢ちきムーブで受けて立ったときでした。


 怪しげなシミや血液やらがついた私のロングTシャツトゥニカを見ながら、ミュナさんがぽつりといいます。


「臭い。部屋に入らないで」


 的確すぎる一言に、私は「しゅぼっ!」と顔を赤らめました。すっかり慣れてしまって、失念しておりました……!


 ――なんてこと、いまの私はどこに出しても恥ずかしい悪臭ただよう汚嬢さまなのです!


「わ、私ったら……!!」


 もう生きていけまません。きらりと光るものをこぼしながら立ち去ろうとする私に、観客たちは無情にも言葉のつぶてを投げつけます。


「浮浪児かな」「お腹すいてる? パンあるよ?」「臭いのに可愛いってどういうこと!?」


 嘲笑に打たれながら健気に前に進もうとしたときでした。ミュナさんが私の後ろ襟をむんずと掴みます。


「お風呂に入る」





 異臭騒ぎから30分後。ミュナさんに連れられた汚嬢さまは、共同大浴場テルマエを阿呆のように見上げていました。


 大理石の太い柱がどどんっと並んだ姿は神々しく、浴場というよりもはや神殿。


 けれどしょせんは血肉を見てキャッキャと悦ぶ野蛮人たちのお風呂です。どんなに外面を繕ったところで、ふたを開ければ肥溜めに等しいものが出てくるはず。


 ――そう思ったのですが。


 ボロボロのサンダルを脱いで中に入ったとたん、私は飛び上がりそうになりました。


「こ、これはまさか床暖房ですの……!?」


 足踏みをして確かめていると、カウンターで支払いを済ませたミュナさんがこくりとうなずきます。


「……こっち」


 先ほどまでの侮蔑はどこへやら、私はいたく感心しつつ、誘われるままに更衣室へと入ります。


「服はそこのフック」


 ミュナさんに言われるままに服を脱ぐと、はやる気持ちのままに奥をにらみます。湯気が立ち昇る大きな浴槽は、なんとも心地よさそうです。


「で、ではさっそく……!」


 いざまいらん、1カ月ぶりのお風呂です!

 

「汚い。先に洗う」


 容赦なく洗い場に連行されたと思ったら、オリーブオイルと灰を混ぜた洗剤でごしごしと洗われてしまいます。


「――大変だった?」


 背中の痣が気になるのでしょう。ふいの問いかけに、私は壁のフレスコ画を見ながら答えます。


「ええ、かなり。でも、こうして生きていますのよ」


 返事はなく、ただお湯の音だけが響きます。ミュナさんの指が私の髪を梳いて、溜まりに溜まった汚れが流れ落ちていきました。


「終わり」


「――ああ、さっぱり。人間に戻れた気がしますわ!」


 そう冗談めかして言ったものの返事がありません。どうしたのかと振り向くと、遠い昔を思い出すような表情が浮かんでいました。


「ミュナさんも……大変でしたのね」


 彼女は何も語らず、目を伏せたまま静かに答えるだけです。


「そう……ここに来るまでにいろいろあった」


 重たい沈黙が立ちこめる前に、私はふひひと笑ってミュナさんの背後を取ります。


「な、なに……?」


「お返しですわ。私におまかせくださいまし!」


私はミュナさんの背中を洗いつつ、少しだけドキドキしながらその体を観察しました。


 肘や膝から先には体毛が密に生え、尻尾はふさふさと長く見事です。左耳には金のピアスが並んで豪華な雰囲気ですが、どうしたことか右耳は根元から切り取られてしまっていました。


 よし、検分終了――ミュナさんはまごうことなき猫獣人ですわ!


 ざばっとお湯をかけておしまいにすると、ミュナさんは失われた耳をそっと触りながらぽつりと尋ねます。


「気にならない……?」


 ネズミにでもかじられたのでしょう。問いただすのは無粋というもの。


「何がですの?」


 ミュナさんは少しだけほほ笑むと「そう」とだけ返事をして、足音なく浴槽のほうへと歩いていってしまいました。


「あ、待ってくださいまし! 私もご一緒に!」


 機嫌よくぴんと立った尻尾を追いかけて、私は1カ月ぶりのお湯へと飛び込みます。派手に散ったしぶきに何か言いたげなミュナさんを無視して、私はぷかりと浮かびました。


「生き返るぅ……」


 などとのたまっていると、ドーム状の天井にち密に描かれたモザイク画が目に留まります。


 それは、とある貴族の息子が政敵の策略によって奴隷に堕ちるも、艱難辛苦の先に剣闘士として栄光をつかむ物語でした。私は否応なく、その英雄と自分を重ねてしまいます。


 ――認めたくはありませんが、いまの私は堕ちるところまで堕ちています。けれど、それならば這い上がるだけ……!


 決意を胸に勢いよく立ち上がると、私はミュナさんの前で仁王立ちになります。


「やってやりますわ……! ミュナさん、もちろんあなたも一緒に生きてここを出ますのよ!」


「す、少しは隠して……!!」


 女同士だというのに顔を背けるミュナさん。クーパー靱帯が弾けるような私のは、猫型の洗濯板には刺激が強すぎたようですわね。


 私は仕方なくミュナさんのとなり座って、のんびりとお湯につかりつつ尋ねました。


「そういえば、明日から訓練があるとアルビウスさまはおっしゃっていましたけれど……どんな内容ですの?」


「私も来たばかりだから、基礎訓練しかしてないけど……」


 言いにくそうに言い淀むミュナさんの様子に、不穏なものを感じます。


「けど……?」


「――泣いたり笑ったりできなくなりそう」


「ど、どういうことですの……?」


 ミュナさんは目を伏せます。


「すぐわかる。嫌でも」


 そこまで追い詰められる訓練とはいったい。一抹の不安を覚えましたが、だからといって訓練がなくなるわけではありません。お嬢さまの心得その2。『お嬢さまたるもの、根拠なく楽観的であれ』。――まあ何とかなりますわ!


 ……そう結論づけたのですが、まさか訓練初日にしてあんなことになるとは、つゆほどにも思っていませんでした。

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