2-2 アリーナ区にて②

 アルビウスさまの逆三角形の背中を追いかけること20分と少々。目の前にずどんと現れた巨大建造物の迫力に、思わず感嘆の声が漏れました。


「なんて荘厳さ……!」


 私の知っているものより一回り大きいようで、東京ドームと同じかそれ以上の規模を誇っています。色合いも日差しを照り返してまばゆいばかりの白で、まるで神々が降臨するための祭壇のようですらありました。


「アエテリスが誇る、世界最大の円形闘技場コロッセウムです。見ているだけで昂ぶるものがあるでしょう?」


 不本意ながらも、私の胸中はアルビウスさまの言葉の通りでした。いったい何人の栄光ある勝者がここで生まれたのでしょう。そしてその陰で、何人の敗者が散ったことか。


 つい詩的に表現してしまいましたが、よく考えてみれば殺人ショーの会場でしたわね。これから剣闘士になる私にとっては処刑台も同じ。ふん、ほんと野蛮ですわ。


 いつのまにか先に進んでいたアルビウスさまが私に声をかけます。


「いずれあなたも闘技場の上に立つことになるでしょう。しかし今日のところはこちらです」


 慌てて追いかけると、アルビウスさまは高い塀に囲まれた学舎のような施設の入口で足を止めました。


「ここが帝国立剣闘士養成所スコラです。新しい暮らしの拠点となる場所ですので、よく覚えておくように」


 門を飾る紋章には『勝利のために戦えPugna ad Victoriam』の文字。それを眺めながら敷地に入ると、硬い木がぶつかり合う小気味よい音が私を出迎えました。お稽古のたびに聞いたなじみ深い音にノスタルジィを感じて、ついつぶやきます。


「木剣の音……」


 アルビウスさまは敷地の奥を見ながらうなずきました。


「訓練場で剣闘士たちが模擬戦をしているのです。明日からあなたも訓練を受けてもらうことになりますが、今日のところはお部屋に行きましょう」


 剣闘士養成所は3つの建物からなっているようでした。厳しい顔つきの守衛さんに会釈しつつ円形の中央棟に入り、外周の廊下を左回りに進みます。


 訓練を終えた汗だくの剣闘士さんたちとすれ違いながら渡り廊下を通るとそこは東棟です。


「東棟は女性が過ごす宿舎で、西棟は男性の宿舎になっています。あなたの部屋は3階になります」


 階段を昇り、明り取りが並んだ長い廊下を歩きます。一番奥の角部屋まで進むと、アルビウスさまが扉を見ながら言いました。


「本来は4人部屋なのですが、いまはひとりだけしか使っていません。ここに来たばかりの剣闘士なので、あなたも気安くすごせるでしょう」


 やっぱり相部屋ですのね……。憂鬱な気分になるのも仕方なし。なんせ相手は剣闘士です。髪に櫛を入れたこともないような、きったない女山賊のような人物に違いありません。


「個室はありませんの? 私、相部屋なんて嫌ですわ」


「剣闘士の身分でそんなことを言うとは驚きました。なかなかの怖知らず……いえ、蛮勇ですね」


 アルビウスさまは苦笑いを漏らします。


「なにかを望むなら結果を出すことです。この宿舎には優秀者のための個室もありますし、資金があればアリーナ区の中で家を借りることもできます」


「『ねだるな勝ち取れ』ということですのね。ふふん、そういうのは嫌いじゃありませんわ」


 頭の中のやることリストに『個室を手に入れる』と記していると、アルビウスさまが扉のノッカーを鳴らします。


「アルビウスです。新人を連れてきましたので、よろしくお願いします」


「……はい。ただいま」


 控えめな声とともに扉を開けたのは、すらりとした女です。三毛猫のようなまだらの髪も物珍しいのですが、特筆すべきは元気に飛び出した三角形の耳でしょう。


 ファンタジィな世界だとは思っていましたが、まさか獣人……!


 そうなのです。自己主張が激しい三角の耳に、嫌でも目につくふわりとした長い尻尾。彼女はまごうことなき猫の獣人なのでした。


「私はこれで。あとのことは彼女に聞いてください」


 彼女になにかを手渡すと早足に去ってしまうアルビウスさま。残された私たちは、ばったりと出くわしたカエルとヘビのように見つめ合います。


「あの……」


 先手を打ったのは猫さんでした。なぜか眉間にシワを寄せて怪訝そうな顔です。


「名前は……?」


「艮御崎温姫ですわ。アツキとお呼びくださいまし」


「私はミュナ。よろしく……」


 ミュナさんは私より10歳くらいは年上にお見受けしますが、人見知りする子供のような態度です。かたくなに視線を合わせてくれません。


 できれば仲良くしたいのですけれど、調子が狂いますわね……。


「お邪魔しますわよ」


 戸惑いつつも、とりあえず部屋に入ろうとしたときでした。


「まって! 入らないで……!」


 両手をR18マークのようにしたミュナさんが入室を拒みます。


「ど、どうしてですの……!? 今日からは私もこのお部屋を使わせていただきますのよ!?」


 ミュナさんは私の顔を見ては目を反らすという挙動不審を繰り返すと、言葉を選ぶように慎重に言いました。


「アツキは……髪とか、梳いたことある?」


 どこに出しても恥ずかしくないお嬢さまの私に、言うに事欠いてそれですか。カチンと来てもしかたありません。


「――あるに決まっていますわ! 私のことを身なりも気にしない山賊のような女だとおっしゃりますの!?」


 思わず大きな声が出てしまいました。他の部屋の方々が、なんだなんだと顔を出します。そして不思議なことに、そろって顔をしかめて、汚物を見るような視線を私に向けてきます。


「な、なんですの……!? なにか文句がありまして!?」


 こ、これはもしや期待の新人に対する『洗礼』というやつでは!? 高飛車に腕を組んで、ふんと顔を反らすという高慢ちきムーブで受けて立ったときでした。


 怪しげなシミやら血液やらがついた私のロングTシャツトゥニカを見ながら、ミュナさんがぽつりといいます。


「臭い。部屋に入らないで」


 的確すぎる一言に、私は「しゅぼっ!」と顔を赤らめました。すっかり慣れてしまって忘れていましたのよ……!


 ――いまの私は、どこに出しても恥ずかしい悪臭ただよう汚嬢さまなのですわ……!


「わ、私ったら……!!」


 きらりと光るものをこぼしながら立ち去ろうとする私に、観客たちは無情にも言葉のつぶてを投げつけます。


「浮浪児?」「パン食べる?」「可愛いじゃん。臭いけど」


 嘲笑にもめげず健気に前に進もうとしたときでした。ミュナさんが私の後ろ襟をむんずと掴みます。


「お風呂に入る」





 異臭騒ぎから30分後。ミュナさんに連れられた汚嬢さまは、アリーナ区にある共同大浴場テルマエを阿呆のように見上げていました。


 大理石の太い柱がどどんっと並んだ姿は神々しく、浴場というよりもはや神殿のようです。


 けれどしょせんは血肉を見てキャッキャと悦ぶ野蛮人たちのお風呂です。どんなに外面を繕ったところで、ふたをあければ悪臭が鼻を突くことでしょう。


 ――そう思ったのですが。


 ボロボロのサンダルを脱いで中に入ったとたん、私は飛び上がりそうになりました。


「こ、これはまさか床暖房ですの……!?」


 確かめるように足踏みをしていると、カウンターで支払いを済ませたミュナさんがこくりとうなずきます。


「……こっち」


 先ほどまでの侮蔑はどこへやら、私はいたく感心しつつ、誘われるままに更衣室へと入ります。


「服はそこのフック。見張りがいるから大丈夫」


 ミュナさんに言われるままに服を脱いでフックにかけると、私ははやる気持ちのままに奥をにらみます。湯気が立ち昇る大きな浴槽は、なんとも心地よさそうです。


「で、ではさっそく……!」


 すっぽんぽんで駆けだした瞬間、ミュナさんが私の首輪をがしっと掴みます。きゅっと首が締まって、まだ初日だというのに一瞬だけお花畑が見えました。


「げほっ……! な、なにをなさりますの!?」


 むせ込みながら振り返ると、鋭い爪が浴場のすみっこを指します。


「汚い。先に洗う」


 ほとんど無理やり椅子に座らされ、適当にお湯をぶっかけられます。オリーブオイルと灰を混ぜた洗剤でごしごしと背中を洗われてこそばゆく思っていると、ミュナさんがふいにつぶやきました。


「――大変だった?」


 痣だらけの背中を見て思うところがあったのでしょう。言葉足らずなところはありますが、お優しい方なのかもしれません。


 私は壁面の見事なフレスコ画を見つめながら答えます。


「かなり。けれど生きてますのよ」


「そう……。終わり」


 ざっと洗ってもらうと、私はふひひと笑ってミュナさんの背後を取ります。


「な、なに……?」


「お返しですわ。私におまかせくださいまし」


 緊張でぴんと伸びていた背筋も私の妙技にはかないません。すぐに猫背です。


 グルーミング成功ですわっ。――で、では失礼して……!


 私は手を動かしつつ、少しだけドキドキしながらミュナさんの体を観察しました。


 肘や膝から先には体毛が密に生え、尻尾はふさふさと長く見事です。そして、左耳には金のピアスが並んで、右耳には切り取られた痕……。よし、検分終了――まごうことなき猫獣人ですわっ!


 ざばっとお湯をかけておしまいにすると、ミュナさんは失われた耳をそっと触りながらぽつりと尋ねてきました。


「気にならない……?」


「何がですの?」


 きょとんとすると、ミュナさんは「そう」とだけ返事をして、足音なく浴槽のほうへと歩いていってしまいました。


「あ、待ってくださいまし! 私もご一緒しますわ」


 機嫌よくぴんと立った尻尾を追いかけて、私は1カ月ぶりのお湯へと飛び込みます。派手に散ったしぶきに何か言いたげなミュナさんを無視して、私はぷかりと浮かびました。


「生き返るぅ……」


 などとのたまっていると、ドーム状の天井にち密に描かれたモザイク画が目に留まります。


 それは、とある貴族の息子が政敵の策略によって奴隷に堕ちるも、艱難辛苦の先に剣闘士として栄光をつかむ物語でした。私は否応なく、その英雄と自分を重ねてしまいます。


 ――認めたくはありませんが、いまの私は堕ちるところまで堕ちてしまいましたのよ……。けれど、それならあとは這い上がるだけ……!!


 私は決意を胸に勢いよく立ち上がると、ミュナさんの前で仁王立ちになります。


「少しは隠して……!!」


 クーパー靱帯が弾けとぶような私のは、猫型の洗濯板には刺激が強すぎたようです。私は見せつけるように胸を反らしつつ言います。


「そうと決まれば、三大欲求を満たさねば! 睡眠欲、入浴、つぎは食欲ですわ!」


 私の意気込みなど知らないミュナさんは、げんなりとした顔で答えます。


「宿舎に帰ったら食事が出るから……」


 私はふふんと鼻を鳴らしました。


「アルビウスさまから頂いたお金の残りで、おいしいものが買えるかもしれませんわよ?」


 ぴくっと耳が動きます。


「……全部ここの入浴料に使った」


 私の目は節穴ではございません。


「2人で銀貨1枚なんてずいぶんとお高い入浴料ですのねっ!」


 私のクソでかい声に視線が集まると、ミュナさんは隠れるようにお湯に体を沈めて言います。


「わかったから……おとなしくして……」


「もちろん大盛りで! 飲み物もつけますのよ!」


 泥棒猫にお灸を据えると、私はミュナさんのとなりに座りながら気になっていたことを尋ねます。


「そういえば、明日から訓練があるとアルビウスさまはおっしゃっていましたけれど……どんな内容ですの?」


「私も来たばかりだから、基礎訓練しかしてないけど……」


 言いにくそうに言い淀むミュナさんの様子に、私は不穏なものを感じます。


「けど……?」


「――泣いたり笑ったりできなくなるかも」


「ど、どういうことですの……?」


 ミュナさんは目を伏せます。


「すぐわかる」


 一抹の不安を覚えましたが、私の頭の中はすでに食事でいっぱいです。


 ――まぁ何とかなりますわ!


 そう楽観的に結論づけたのですが――まさか訓練初日にしてあんなことになるとは、思ってもいませんでした。

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