2.お嬢さま、剣闘士になる。
2-1 アリーナ区にて①
冬の晴れた空の下、石畳の街道を行く一台の馬車。牧歌的でたいへんよろしいのですが、――その
老若男女、子供であっても容赦なし。異国からかき集められた奴隷さんたちは、今日も仲良くうつむき加減の日光浴です。
――何を他人事のように、ですわね。
彼らと同じように、私の手首も手枷がついています。とても高価なミスリル製とのことですが、まさに無用の長物。
馬車の中はただ苦痛で、ただただ暇です。ひどい乗り心地に割れてしまったお尻を捩っていると、私の意識は否応なしに3週間前へと遡るのでした。
――鉱山都市ダカウロンでの敗北後。捕らえられた私の扱いは、羊たちも沈黙するほどに厳重なものでした。
やっと外に出れたと思ったら、今度は3週間の大移動です。もはや私の尊厳はボロボロ、特に度し難いのが――
私はちらっと左右を見ます。お隣さんとの間には不自然な空間。手足が伸ばせて結構なのですが、非難の眼差しが何とも窮屈です。
――私だけ水浴びもさせて貰っていませんもの。やっぱり臭いますわよね……。
ほんとうに嫌ですわ……。女の子はいつだってお砂糖とお花、それから少々のスパイスが効いた香りでなければならないのに。
――そんな冷遇をうける理由、でして? ふふん、鎧に歯形を刻む反骨精神と、『お誘い』してきた兵士さんへの股間キックのせいですわね! ふふ、あのときの兵士さんの顔は見ものでしたわ……!
ほくそ笑んでいるとふいに馬車が止まって、なぜか私だけが乗り換えさせられました。
蹴りをくれてやった兵士さんともこれでお別れ。去り際に舌を出していると、新顔の兵士さんに咳払いでたしなめられてしまいました。
兵士さんたちに質問したところで返ってくるのは裏拳ばかりでしたが、彼なら答えてくれるかもしれません。
「どこに連れていかれますの?」
薄い小麦色の肌にさっぱりとした短髪。典型的なアエテリス人の兵士さんは、穏やかな口調で答えてくれました。
「帝都プロスペルの『アリーナ区』だ。あと3時間もあれば着くだろう。今のうちに休んでおけ」
そう言って手枷と荷台をつなぐ鎖を緩めてくれます。私があんまりにも哀れだったからでしょうか。
ですがありがたいことです。私は広々とした荷台の上で、ごろりと転がるのでした。
◆
馬車から降りた私の前には鉄格子の門。ダカウロンの城壁の半分ほどの高さですが、きらびやかなまでに装飾的で、白い石像がいくつも配置されています。
とくに目を惹くのは門の上の、猛々しい獅子の像。彼は門の内側を睨んで、まるで中の者たちを見張っているかのようです。
「前に進め」
兵士さんに背中を押されて進むと、門の前には容姿の整ったおじさまがいます。40を過ぎたところといった彼は、市民たちとは一線を画する姿でした。
ものものしい深紅のチュニックに、肩に掛けた濃紺のマント。短く整えられた髪は兵士のようですが、髭はきれいに剃り上げられて隙がありません。その雰囲気をたとえるなら高級将校でしょうか。
私を見ると、彼は意外にも相好を崩します。
「セプティミウス・アルビウス・クァルキウスです。異邦人のあなたは知らないとは思いますが、この国では真ん中の名前で呼ぶのが通例。私のことはアルビウスと呼んでください」
その長ったらしい名前に、ドルポルさんの言葉がよみがえります。
――苗字があるのは貴族か王族。
だとすれば、捕虜を相手になんて丁寧な物腰なのでしょう。知的で冷静、驕り高ぶったところがありません。
「お会いできて光栄ですわ、アルビウスさま。私は艮御崎温姫と申します。アツキとお呼びください」
「ではアツキと呼びましょう。それにしても……ふむ、なかなかの恰好ですね……」
痣や汚れに顔をしかめるアルビウスさまに、私はミスリルの手錠を見せます。
「このような状態でしたので、仕方ありませんわ」
初めてアルビウスさまの顔に動揺が浮かびました。
「ずっと後ろ手で拘束されていたのですか……?」
「ええ、食事のときですら外してくれませんのよ。おかげで皿に顔をうずめて食べるしかありませんでしたわ。……まるで畜生ですわね。――わんわん!」
冗談めかして言ったものの、到底許されることではありません。――いずれあの兵士さんたちには、この無礼を償っていただきましょう。
憎悪の炎をひそかに燃やしていると、アルビウスさまは凛々しい眉を潜めながら兵士さんに尋ねます。
「アツキは驚くほどの高待遇だったようですが……」
兵士さんは気まずそうに答えます。
「隙あらば逃亡を図るため、やむ得ずの処置と聞いておりますが……」
「なるほど……。やりすぎにも思えますが、彼女ほどの剛力ならそれも仕方ありませんね……」
アルビウスさまは確かめるように私の周りをくるりとすると、自分の顎に指先を添えました。
「アツキ、あなたは23人もの兵を屠ったそうですね。いくらオーガとの交じりとはいえ、その細腕でそれができるとは思えません。――いったいどうやったのですか?」
アエテリス人には珍しいヘーゼルの瞳が、興味深そうな光をたたえています。ですが、その期待に添う答えはありません。お稽古で培った剣術をいまの膂力で振るったら、ただ無双だったというだけで。
悩んだ末に、私は家訓から言葉を持ち出します。
「――心にひとつ信念あれば」
どう解釈したのでしょうか、相好を崩すアルビウスさま。丁寧さの裏に隠れていた冷徹さがやわらいで、世話焼きの兄のようなほほ笑みが浮かびます。
「悪くない答えです。――私はこの門の向こうの『アリーナ区』で、
ケントウシ? 言葉が変換されるまで時間がかかってしまいました。遣唐使といえば空海……ってそれは違いますわ。
「野蛮人たちの娯楽のために、無理やり殺し合いをさせられる哀れな奴隷さんたちのことですわね。その指導官さまが私に何用ですの?」
「異邦人のあなたにはそう見えるのかもしれませんね。ですが――」
アルビウスさまの目つきがぐっと厳しくなりました。意志の強さを秘めた眼差しが私を咎めます。
「ただの見世物だと思っているのなら見当違いです。――貴族も市民も、そして皇帝陛下も、一体となって喝采を送る。その統合力こそが、この国の繁栄を支えているのです」
たいへんアットホームなお国柄ですわね。けれど、私はその実態を奴隷さんたちから聞いて知っています。
「ふん。奴隷がいなければ成り立たない集まりだなんて、まるでイナゴですわね。他人様の畑を食い散らかさないでくださいまし!」
私の皮肉にも激することなく、アルビウスさまは答えます。
「必要なものがあれば、あるところから持ってくるだけです。この国の判断は質実剛健。覇道を征くにふさわしい」
その言葉に文化の違いを痛いほどに感じました。この世界は弱肉強食。基本的人権だなんて生ぬるいことは言っていられないようです。
――ですが、私にはすでにこの国の限界が見えていました。あるところから持ってくるのなら、すべてを奪ったあとはどうなるのでしょう……?
「必要なものがあるなら自分で作ってくださいまし。増えすぎたイナゴは死滅と決まっていますのよ」
ぴくりと眉が動きます。
「政策そのものが間違いだと……?」
「皇帝だか王様だか知りませんけれど、首を挿げ替えたところで本質は変わりませんわ。群れを作っているのは一匹一匹のイナゴたちですもの」
何気ない私の一言が琴線に触れたようです。アルビウスさまは確かめるように何度かうなずくと、私を正面から見据えました。
「気にいりましたよ、アツキ。……あなたをここまで呼んで良かった。こんなにも話したいと思ったのは久しぶりです」
「酔狂な貴族さまですこと。遠路はるばる連れてきたのは、政治の話をするためでしたの?」
アルビウスさまは愉快そうに微笑みます。
「ダカウロンを治めている
あの紫のマントの魔法使いさんのことですわね。ふん、あの人さえいなければ……と恨みごとの一つも浮かびますが、それはまたの機会にしましょう。
「――私に剣闘士になれとおっしゃるのかしら?」
アルビウスさまは力強くうなずきます。
「その通りです。……23人もの兵を難なく倒したあなたです。剣闘士となれば、大いに市民たちを沸せることでしょう。そしてそれは、この国の繁栄にもつながる」
有能ならば怨敵でも活用したいというのはなかなかに大胆。そうやってこの国は大きくなったのでしょう。ですが、私は剣闘士なんてまっぴらごめんですわ。
お断りしようとしたとき、アルビウスさまが先回りするように言いました。
「しかし、強制ではありません。ダカウロンでのことは聞いています。あくどいやり方で賄賂を要求されたそうですね。こちら側にも非があるのは認めます」
まさか無罪放免かと勇みましたが、そんなうまい話があるはずもなく。アルビウスさまはその整った顔とはアンバランスな無骨な指を2本立てました。
「あなたには二つの道を用意します。ひとつ目は、私のもとで剣闘士になる道。そしてもう一つは、奴隷商の『商品』となる道です」
――奴隷となった者たちがどんな扱いを受けるのかは、馬車の中で嫌というほど耳にしました。
この帝政アエテリスにおいて、奴隷というものは主人の『財産』扱いだとか。理由なく殺すことは禁止されているようですが、『物』に拒否権はありません。
名家のお手伝いさんとして恵まれた暮らしができることもあるそうですが、それはほんの上澄み。だいたいがハズレの農奴で、娼館行きの大ハズレもそこそこ混じっているとのこと。
――娼館? そんなところに堕ちるだなんて、考えただけで恐ろしい……。
艮御崎家の末裔としてそれだけは許されません。けれど、剣闘士などというやくざな世界に足を踏み入れるのもいかがなものか。殺し殺されだなんて……。
「……なぜ笑っているのですか?」
あれ? 笑っていたのですか。いけませんわ。お嬢さまがそんな血なまぐさい話で浮つくだなんて。
私はおどけて言葉を紡ぎました。
「だってアルビウスさま。奴隷に堕ちることなんて私にはできませんもの。たとえ見世物であっても、剣闘士として剣に生きるほうがまだ矜持が保てますわ」
――人を斬れる理由を見つけて喜んでいるのかしら?
そう誰かがつぶやきましたが、私は耳をふさいで自分に言い聞かせます。
殺さなければ殺されるのが剣闘士ですもの。これは仕方のないことですのよ。ベストではないけれど、ベターな選択をしただけ。ふふっ。
アルビウスさまは真意を確かめるように私を見ていましたが、やがて「そうですか」と相槌を打つと、門番さんに声をかけました。
鉄格子の門がゆっくりと昇って、その向こうに広がるアリーナ区へと私を誘います。入っていいものかとためらっていると、先に門をくぐったアルビウスさまが私へと振り返りました。
「ようこそ、アリーナ区へ。――帝都プロスペルが誇る、剣闘士の町です」
――丁寧に敷き詰められた固い石畳を踏みしめて進んだとたん、道行く人々の雑踏と、あちこちからあふれる匂いが混然となったものが私を圧倒しました。
おのぼりさんのように5階建ての
むっとして目で追いかけると、女は神殿のような建物へと入っていきます。入れ違いに現れたのは、湯上りの男たち。その筋肉隆々の姿に、女たちのささやきが漏れます。
「見ました!? ウルシフラグスさまの腕……!」
「筋肉だるまより、やっぱり顔よ、ウェナトルさまみたいな!」
むさい男たちにしか見えませんが、まるで英雄かアイドルのようです。首をかしげていると、女たちの口から思いもよらないことが飛び出します。
「あら。いくら顔が良くたって、あの細腕ではウルシフラグスさまには勝てませんよ」
あの男たちが剣闘士……? 歓楽街へと消えていく剣闘士たちの足取りの堂々たるや、まるでこのアリーナ区の主のよう。
目を白黒させていると、アルビウスさまが手枷に鍵を差し込みました。
「アツキ。アリーナ区は、その義務を果たす限り誰にも等しく自由を与えます。――自由となった今の気持ちを忘れないように」
3週間ぶりに自分の手首を見ます。手枷の痕が濃く刻まれていましたが、それもやがて消えることでしょう。
固まりかけていた肩をぎこちなく回して、両手を天高く上げました。冷えていた手にひらに太陽の熱が宿ります。
ああ! お母さま。私はまだ生きていますのよ!
――そう喜ぶ私の首元に、アルビウスさまが何かをかちりと留めました。奇妙なほどに肌になじむ、柔らかな革のベルトです。
「こ、これは?」
「『制約の首輪』です。このアリーナ区から出ようとしたりはずそうとすると締まる仕組みになっています。たとえば、あのように――」
アルビウスさまは淡々と説明すると、私の視線を門上の獅子へと導きました。その牙に引っ掛けられたロープをたどれば――
「ひ、人……!?」
逆さに吊られた首無し死体が、風でかすかに揺れていました。その真下には、どろりとした目で自分の体を見上げる頭。私は思わず言葉を詰まらせました。
「く、首を切ったうえに吊るすなんて……!」
アルビウスさまは心外そうに肩を持ち上げます。
「斬首などしていません。首輪が絞めたのです」
はっとなりました。てっきり孫悟空の輪のように、苦痛を与えて反抗心を削ぐためのものと思っていましたが――そんな生易しいものではないようです。
――不自然に千切れたその断面は、首輪の仕業です。
私は震える指先で、おそるおそる自分の首元を触ります。じっとりとした嫌な汗で湿ったソレは、まさに矛盾の塊でした。
生きるための服従。自由のための死。まるで選択肢があるように見せかけてはいますが、そこには理不尽しかありません。
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