1.お嬢さま、異世界で奮戦す。
1-1 異世界の森にて
――拝啓お母さま。いったいなんでこんなことになってしまったのでしょうか。
異世界に迷い込んですでに3日目。吐く息は白く、指先はじんと冷たく。遠くから届く鳥の鳴き声は、聞き覚えのない奇妙なもの。
募った不安に潰されて、胸がきゅっと痛みました。
いまごろ艮御崎家のお屋敷は大騒動になっていることでしょう。お母さまはもちろん、お手伝いさんや出入りしている業者の方々に至るまで、みなが心を痛めているはず。早く帰らなければ……。
――けれどその前に……差し迫った危機をどうするか、ですわね。なにやらさきほどから、何者かが私を虎視眈々と狙っているようなのです。
うら寂しい冬枯れのあいだを進みながら、ちらりと背後を伺います。木々の影が交わるところをよく見れば、そこには黒い獣が溶け込んでいました。
私が小枝をぽきりと踏むと、細かく耳を動かして、影から影へと渡りながらぴたりと後をついてきます。
お腹が空いているのは、
そう八つ当たりするのも仕方ありません。なんせ3日間も飲まず食わずなのです。
はしたなくもお腹がぐぅと鳴ったとき、いささか猟奇的な考えが浮かんできました。こっそりと忍び寄る不埒な猫さんも――突き詰めれば『お肉』では?
幼いころより鍛錬を積んだ身です。ゴロニャンの一匹ごときに遅れをとるはずありません。とはいえ、徒手空拳は心細い。
そう思った瞬間――大きな気配が、甲高い鳴き声とともに頭上を通り過ぎました。
身をすくませていると、光るものがひらりと落ちてきます。
――羽? まるで金属のようですが……。
こんな羽を持った鳥がいるだなんて考えただけで恐ろしいですが、強度も大きさも十分。 薄く鋭く、得物として不足はありません。
これも生きるため。失礼しますわ。
さっと隠れて気配を断つと、落ち葉を踏む乾いた音。私の思惑どおり、のそりと動き始めたようです。
大木に背に息を殺すことしばし。そっと伺ってみれば、それはクロヒョウのような生き物でした。
禍々しいかぎ爪と、水晶のような鱗がならぶ口吻。目元の真紅の隈取りは触れるな危険と声高らかです。攻撃的な姿に圧倒されますが、目を見張るのはその大きさ。自動車ほどもあるのではないでしょうか……。
さすが異世界、スケールが違いますわと強がったところで後の祭り。もう逃げ場はありません。
……あんな大物、ほんとうに仕留められますの?
そんな弱気を嗅ぎつけたのか、猫さんは鼻をすんすんと鳴らします。その眼差しが狙うは、陰からはみ出たコートの裾。
ぐっと体を縮めて、おどりかかる!
けれど――それはもぬけの殻。
戸惑った隙を私は見逃しません。すかさず枝から飛び降りて、首に刃を突き立てます。狙うは頸椎、一撃必殺!
「んぁあああっ!!」
骨の隙間にねじ込み、断ち切るっ……!
くったりと猫さんが伏せると、私は大きく息を吐きだしました。つつがなく終わったはずなのに、むなしさだけが残っています。やはりだまし打ちは無粋ですわね。なんの面白みもありませんもの……。
けれどもお腹いっぱいにはなるでしょう。そこまで考えたところで、「ああっ!?」と間抜けな声が漏れました。
わ、私はこんな野生のド畜生を、どうやって食べる気でしたの!?
き、木をすり合わせて火を起こす……? お肉のためならネアンデルタールも上等と、枝を拾おうとしたときでした。
ごう、と風が吹き荒れ、しなる木々が悲鳴をあげます。
――森のなかで突風?
そう訝しんだその瞬間、あの鳴き声が森を震わせました。きらめく刃の翼で梢を散らす姿は、銀の流星のごとく! あっと思ったときには、お肉はすでに空の彼方です。
ひとり残された私は、怪鳥が残した冷徹な瞳の残光にぶるりと震えました。
ああ、お母さま……! 私はなんてところに来てしまったのでしょう!
けれど、禍福は糾える縄の如し。怪鳥が切り開いた道の先に、開けた場所が見えました。あれはもしや? 高鳴る胸に急かされは走れば、私の足は石畳を踏みしめていました。
――苔むしてはいますが、なめらかな石がきっちりと敷き詰められた街道です。刻まれた轍をたどれば、必ず町があるはず。
どちらに進むかですが……。
希望を胸に見渡すと、小高い丘の先に何かが見えました。こちらに向かって来ているようですが……。
あれは牛? それにしては大きいような。
例えるならば、寒冷地のバッファローです。長い毛足のあいだから、立派な巻き角をのぞかせて、四輪の荷車をえんやこら。
まさか馬車!?
「止まってくださいまし!」
手を振る私の足元に、ごすんと矢。息をのむ間もなく、大柄な男たちが馬車から飛び降りてきます。大きな掌が固く握るのは、なんとも無骨な武器。表情も険しく、じりりと迫り来るさまはまさに蛮族です。
張り詰めた空気のなか、斧を持った男と目が合いました。美しく澄んだ青い瞳に、大きな走動揺が走ります。
「金色の目……? まさか、オーガか!?」
『おーが』とやらはわかりませんが、言葉が通じるのなら何とかなります。私は慌てて叫びました。
「ま、待ってくださいまし! 私に敵意はありませんわ!」
私の叫びに応えるように、馬車から飛び降りてきたのは身なりの良い男。
「よせ! 子供じゃないか!」
蛮族さんたちを制して、人懐っこい笑みを浮かべます。私がほっと胸をなでおろすと、男は大きな声で名乗りました。
「俺はドルポル。怖がらなくてもいい、ただの商人だ!」
仲間たちを見回しながら穏やかに続けます。
「こいつらは俺が雇った傭兵だ。見た目も素行もアレだが、まぁ悪いやつらじゃない」
ひどい言い草に、傭兵さんたちは心外そうな顔。けれどドルポルさんが肩をすくめると、やれやれと馬車に戻っていきます。
……ドルポルさんは30歳手前くらいでしょうか。毛皮のコートの下には仕立ての良い服と、まさに商店の若旦那といった風体。信用に足る人物かはまだわかりませんが、荒事に慣れた者に特有の眼光の鋭さはありません。
私は可憐にぺこりとお辞儀します。
「私は
首をかしげるドルポルさん。
「な、長ったらしい名前だな。略称はないのか?」
そう来るとは思いませんでした。苦笑しながら答えます。
「艮御崎は苗字ですの。アツキとお呼びくださいまし」
「へぇ。高貴な生まれのようだな」
「まぁ! よくお分かりでして!」
やんごとない身の上を、さらりと見抜く目利きです。きっと名高い豪商なのですわ。
「そりゃわかるだろう。俺のような平民には苗字なんてないんだからな」
とんだ節穴でしたわね。呆れていると、しみったれた商人が首をかしげます。
「で、そのお嬢さまがどうしてこんなところに。まだ15、16歳くらいだろう?」
想定していた質問ですが、どうしたものか。別の世界から来たと言っても、頭を打っておかしくなったと思われるだけ。
ん……!? それはいいアイディアですわ!
「それが頭を打ったようで。気がつけば森のなかにいましたのよ」
真偽をうかがう茶色の瞳が、銀の羽に留まります。
「それは鋼鳥の羽か……。やつに馬車ごとさらわれた商人の話を聞いたことがある。きみも襲われたのかもしれないな」
あのおっそろしい鳥は鋼鳥というのですか。いまだに私の脳裏には、あの鳴き声と無感動な瞳が焼き付いていました。
「とりあえず乗ってくれ! 最寄りの町まで送ろう」
なにやら勝手に納得してくれたようです。ドルポルさんは馬車に乗ると、私に手を差し伸べました。
断る理由はありません。えいやと馬車に転がり込むと、馬車とは思えない広さ。
……幌からぶら下がった水晶のようなものはもしや照明? 足元の敷物も、樹脂とも革ともつかぬ質感です。
ここが異世界であることを改めて痛感していると、矢筒を背負った女が手綱を引きました。
「よかったね、お嬢ちゃん。じゃあ行くよ!」
もこもこさんの足さばきは軽快。みるみる駆け足になって、景色がひゅんひゅん流れていきます。私を閉じ込めるようだった森をあっという間に抜け出ると、背丈の低い草木がしげる穏やかな丘陵がどこまでも広がっています。
太陽に照らされて鮮やかに浮かび上がった雄大な景色に、思わず声が漏れます。
「すごい……!」
あれほど私を苛んだ風も、いまばかりは旅情の一部。耳に心地よい小川のせせらぎを聞きつつ小さな橋をごとんと超えると、私は強風オールバックもそこそこにドルポルさんに尋ねます。
「ドルポルさんはどちらのお生まれで?」
ここはどこと聞くのは不自然か。そう思ってたずねましたが、やはり返事は予想通り。
「ダルヴァリアの片田舎だ」
ともしびが異国の名前に揺らぎます。やはりここは異世界なのです。もとの世界に返る方法なんて、皆目見当がつきません。
鎌首をもたげる不安を押し込み、私は明るい口調で聞き返しました。
「私ったら、頭をひどく打ったみたいでさっぱりですわ。ダルヴァリアというのは、どんな国ですの?」
そんな私が健気に見えたのでしょうか。ドルポルさんは気の毒そうに、けれども優しく教えてくれました。
「なんてことのない小国だ。まぁ、俺みたいな商人が多いことで有名ではあるな」
馬車の中を見回しても、積み荷は特に見当たりません。
「買い付けに行く途中ですのね。どんなものを取り扱っていらして?」
「俺の家は代々続く貴金属商でな。金や銀を扱っている」
たしかに高価な商材ですので、警備が厳重なのはわかりますが……。いきなり弓を射ってきた女をちらっと見てから尋ねます。
「もしかして、野盗が出たりしますの……?」
ドルポルさんは眉間にシワを寄せると、唸るように言いました。
「野党というか……もっとタチの悪いやつらだ。最近、隣の国がやたらと喧嘩っ早くてな。しかも兵士たちのガラが悪くて困ってる」
曖昧な返事でしたが、想像はつきます。他国に侵攻した兵士さんたちが略奪行為に走るのは珍しくありません。
物騒なのは動物だけでなく、人間もだなんて……。ただでさえ異世界だというのに、戦争に巻き込まれてはかないません。
「もしかして、その隣の国は、このダルヴァリアを侵略しようと……?」
私の心配を吹き飛ばすように、ドルポルさんは大きく口を開けて笑いました。
「このダルヴァリアには勇猛な戦士と自然の城塞がある。それはありえないな!」
胸をはるドルポルさんですが、その眼差しは油断なく街道の先へとむけられています。意識してみれば、傭兵さんたちも、弓使いの女も――みな、鋭い目つきで外を見張っていました。
ただよう緊張感にぶるっと震えると、ドルポルさんが私の肩に分厚い毛布かけてくれました。
「ひどい顔だ。休んでおけ」
すこし臭いのが難点ですが、その暖かさは冷えた体に染み入るよう。気がつけば、うつらうつらとしてしまっています。
皆さんが見張りをしているのに、私だけ寝るなんて……。
そう意気込むのですが、この世界に来てから私はまんじりともしていません。人に出会えた安心感からか、どうやっても瞼が降りてきてしまいます。
「ありがとう……ございまふ……」
そうお礼を言ったとたん、私の意識はトーストの上のバターのように、じゅわっと溶けていくのでした……。
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