ごきげんよう、剣闘士。~お嬢さまは異世界でだいたい殺す~

十文子

1.お嬢さま、異世界で奮戦す。

0.円形闘技場にて

 こころに信念ひとつあらば、悪鬼、羅刹、神仏に至るまで、すべて二つにできると心得よ。


 ――艮御崎うしとらおんざき家の家訓より





 この大陸の覇者たる大国、帝政アエテリス。


 その貪欲はまさに底なし。奴隷や金品のみならず、野蛮極まる享楽すらも欲します。今日も帝都の円形闘技場コロッセウムは、7万人に迫る観衆で埋め尽くされていました。彼らの目的はただひとつ、剣闘士たちの生死をかけた戦いに打ち震えること。


 地下の待合室を出て、階段へと差し掛かるとひゅうと冷たい風。いつのまにかすっかり冬めいているようです。


 この世界に迷い込んで3回目の冬ですわね……。


 さまざまな感情が私の胸に去来しましたが、あと少しで自由の身。奴隷に等しい剣闘士の身分から解き放たれ、故郷への道を探すことも出来るようになります。


 ――1勝や2勝の剣闘士なら負けることもあるでしょう。けれど私はすでに8勝目。唯一の敗北は、あのふざけた『勇者』とやらを相手にしたときだけ。ならば今回も勝つのは必然! この試合は10勝までの通過点にすぎないのです。


 これまでと同じく後ろは振り返りません。前だけを見据えて最後の一段を踏みしめたとき、人々の歓声が轟となって私を包み込みました。


「――悪鬼! 悪鬼! 悪鬼!」


 人々の熱狂に手を上げて応えます。狂喜の声がわあっと増して、ごうごうとうねるように聞こえました。冬だというのに、茹りそうな熱気です。


 私が手を降ろすと、しんと静まり返る観客たち。羨望、興奮、憧れ、恐れ、色欲。あらゆる眼差しを欲しいものにしつつ、対戦相手を見据えます。


 対角線に姿を現したのは剣闘士ウルシフラグス。初陣にて、熊を素手でくびりころしたという逸話を持つ大男です。


 全身鎧に身を包み、左手には大きな盾を、右手には不釣り合いな小さなナイフを。益荒男じみた姿とは裏腹に、守りを固めながら堅実に相手を追い詰めていく『鉄鎧闘士』のクラスです。


「やっちまえ『熊殺し』! 悪鬼だろうといつも通りにすればいいだけだ!」「ウルシフラグスさまー! こちらを向いてくださいましー!」


 観客たちの声援はなかなかのもの。熟練の剣闘士にふさわしい実力と風格を備え合わせた男ですから、その人気にも頷けます。けれど――私ほどではありません。


 手入れの終わった大太刀を受け取ると、円形闘技場はしんと静まりかえります。この国にひとりしかいない『東方剣士』の一挙手一投足を、観客たちは固唾をのんで見守っていました。


 その静寂を破る、主審の声。


「――闘技開始!」


 大太刀を引きずりそうな『下段脇構え』にて、一気に相手に詰め寄ると大きなどよめきが巻き起こりました。


 それもそのはず、私は抜刀すらしていません。まさかの突撃に怯んだウルシフラグス。しかしそれは一瞬だけのことで、すぐに防御の姿勢をとります。


 どっしりと腰を落として身構えるその姿は、難攻不落の要塞のごとし。けれど賢者は語ります。『落ちぬ要塞などない』と。


 剣先が届くにはまだ遠いという距離で、大太刀を引き絞ります。気でも違ったのかと瞠目するウルシフラグス。


 いいえ、私は極めて冷静。かまわず届かぬ剣を振りきます。


 ――艮御崎うしとらおんざき流剣術、四拾七の型『総角あげまき』。


 がぁん! と音。大太刀からしゅるりと滑り出た鞘が、盾を打ち据えていました。奇襲ながらも豪快な一撃に、観客たちが沸いたのは一瞬だけのこと。


 すでに私は大地を縮めるような歩法で擦り寄っていました。斬り捨てるに足る距離ですが、いまだその守りは健在。さすがはウルシフラグス、総角の威力に怯みつつも盾の中心をぴたりと私に向けています。


 いくら私の大太刀でも、その堅牢なる盾を砕くことは至難。――ですが彼は大きな勘違いをしています。艮御崎流剣術には、剣が通らぬ相手を仕留める技もあるのです。


 太刀の背を持ち横一文字で突貫。初撃にて生じた盾のくぼみにぴたりと添えて、地面を踏みしめる!


 ――参拾七の型、『横笛よこぶえ』。巨獣の首をへし折る業です。


「ウルシフラグスが――浮いたっ!?」


 誰かの驚嘆が聞こえたときには、すでに私たちは闘技場の端。鎧が軋んで鉄の香りがつんと立ったときには、ウルシフラグスは壁に叩きつけられていました。


「ぐふっ……!?」


 声を漏らそうと私は攻め続けます。盾ごと圧殺しようと万力のごとく押し付けます。分厚い鎧が不気味な悲鳴をあげると、頭上の観客たちが息を呑ました。


「なんて怪力……! さすがオーガとの交じり……!」


 そんな観客たちの唸り声も、今の彼にはただの雑音。鉄兜の隙間から、恐怖と苦痛に揺れる瞳が見えました。


 その図体でなんて情けない。けれど、その目つきはそそりますわね。……もっと哀れに歪んだところを見せてくださいまし!


 ばつん、ばつんばつん。鎧の鋲がはじけ飛びます。柔らかい中身がぐしゃりとひしゃげそうな気配に、自然と口が三日月になりました。


「や、やめろ――」


 最後の力を振り絞って、ウルシフラグスが壁をタップしました。――降参です。


「――そこまで! 勝者、アツキ!」


 観客たちは立ち上がり、割れんばかりの拍手と賞賛を私に送ります。身体中をびりびりとさせる喝采が、私の深くて暗い部分をしっとりと満たしていきます。


 けれどそれだけでは物足りません。ウルシフラグスの瞳の潤みが、脳裏に焼き付いて離れないのです。


 漏れ出そうになる笑みこらえながら観客たちを見回すと、彼らはそろって親指を下に向けました。


「殺せ!」の大合唱に、かわいそうなくらいに怯えるウルシフラグス。私は兜の下に隠した恐怖を嘗めながら、くふっと嗤いました。


「当然ですわね。まったく魅せるところがなかったのですから……。さ、観念なさい」


 駆け付けた兵士たちに武器や盾を奪われ、ひざまずかされます。兜の下から出てきた顔は、無骨ながらになかなかのもの。


 もう少し生気が残っていれば、男前と言ってもいいでしょう。


 私とおなじ養成所に籍を置く剣闘士ですから、彼の身の上も多少は知っています。名が売れたとたんにお金や色恋にうつつを抜かす剣闘士が多い中で、彼はなかなかの傑物だとか。


 朝も明けきらぬころ、養成所の片隅にある名もなき剣闘士たちの墓に祈りをささげている姿を見たこともありました。


「ア、アツキ……?」


 私の眼差しに混じった哀れみを察したのでしょうか。助命を乞う媚びた声でした。


 しかし忘れてはいけません。彼もまた、いまの私のように、打ち倒した剣闘士たちを手にかけてきたのです。積みあげた屍たちへの手向けの花として、雄々しく散るべきでしょう。


 血の贖いを求める声に導かれて、大太刀を振り上げます。


 その瞬間のウルシフラグスの顔ったら! あはは、なんて醜くて、滑稽で、私を満たしてくれるのでしょう!


 音もなく首が落ちると、闘技場は痛いほどの静寂に包まれました。無念の死を遂げた英雄のひとりに、静かに敬礼するかのようです。けれどもそう感じたのは、私に憐憫の情があったから。次の瞬間には、愚かな観客たちの狂気じみた歓声が渦巻きます。


「――悪鬼! ――悪鬼! ――悪鬼!」

 

 私は恍惚としながらおとがいを持ち上げます。今ばかりはその不名誉な通り名も耳に心地よく、しずかに目を閉じました。


 お母さま。温姫は今日も勝ちました。……あと少し、あと少しで自由の身ですのよ。必ず帰ります。ですので、どうかその時まで……。


 ふと生臭い匂いが鼻を突いて目を開くと、赤黒い水溜りが足元を浸しています。その生々しさに眩んだ刹那、お母さまの声が脳裏をかすめました。


 ――ああ温姫、なんでこんなことを! もなく人を傷つけるなんて……!


 はっとします。――血に染まり切った私を、お母さまは優しく抱きしめてくれるのでしょうか?


 い、いいえ……! 私は変わってなんかいませんわ! 『お嬢さま』の艮御崎温姫ですのよ……!


 拳を強く握りしめ、自分に言い聞かせます。ちゃんとはあります。ここは殺し殺されの世界。自分が生きるために仕方なく……。


 そう。すべては、冷酷で無情なこの世界が悪いのです。


 ――ならば、すべて斬り捨てる。 悪鬼と呼ばれようとも、すべてを二つにするまで!

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