異世界剣闘士〜悪鬼と呼ばれた少女〜
十文子
0.円形闘技場にて
こころに信念ひとつあらば、悪鬼、羅刹、神仏に至るまで、すべて二つにできると心得よ。
――
◆
大陸の覇者たる大国、帝政アエテリス。その奈落のごとき貧欲は、人の生死さえもしゃぶり尽くします。
帝都の
そんな狂気と熱狂の渦のなかへ、また哀れな羊が迷い込もうとしています。
もっとも、それは羊などという可愛らしいものではなく――例えるならば鬼のような女でしたが。
地下の待合室を出て階段へと差し掛かると、ひゅうと冷たい風。いつのまにか季節は巡り、すっかり冬めいていました。
この世界に迷い込んで3回目の冬ですわね……。
後ろは振り向かず、前だけを見据えて最後の一段を踏みしめました。そのとたん、茹りそうな熱気と歓声が私を包み込みます。
「――悪鬼! 悪鬼! 悪鬼!」
羨望、興奮、憧れ、恐れ、色欲。あらゆる眼差しを浴びながら、私は手を上げて人々の熱狂に応えました。歓声がわっと増して、ごうごうと轟くほどになります。
「悪鬼! あと少しで自由の身だ!! ――自由をつかみ取れ!!」
ひときわ大きな声は、すっかりなじみになった観客さん。
「もちろんわかっていますわ! あなたのそのみすぼらしいお顔もあと2回で見納めだと思うと、ほっとしますわね!」
私が軽口をたたくと観客席がどっと沸きます。ファンサービスもそこそこに手を降ろしたとき、対角線に大男が現れます。
私の今日の相手は剣闘士ウルシフラグス。初陣にて、熊を素手でくびりころしたという逸話を持つ大男です。
彼のクラスは『鉄鎧闘士』。全身鎧に身を包み、左手には大きな盾を、右手には不釣り合いな小さなナイフを。益荒男じみた姿とは裏腹に、守りを固めながら堅実に相手を追い詰めていくスタイルです。
「いけ『熊殺し』! 悪鬼を止められるのはお前だけだ!」「ああ! なんてたくましいお姿……!! こちらを向いてくださいませ!」
観客たちの声援はなかなかのもの。実力と風格を備え合わせた熟練の剣闘士ですから、当然の人気でしょう。けれど――私ほどではありません。
手入れの終わった大太刀を受け取ると、円形闘技場はしんと静まりかえりました。
私はこの国にひとりしかいない『東方剣士』。常人には構えることも難しい大太刀はまさに一撃必殺、開幕と同時に勝負が決まることも少なくありません。
一挙手一投足を見逃さないよう、観客たちは固唾をのんで私たちを見守っていました。
その静寂を破る、主審の声。
「――闘技開始!」
大太刀を引きずるような『下段脇構え』で一気に詰め寄ると、大きなどよめきが巻き起こります。
それもそのはず、私は抜刀すらしていません。まさかの奇襲に怯んだウルシフラグス。しかしそれは一瞬だけのことで、すぐに防御の姿勢をとります。
どっしりと腰を落としたその姿は、難攻不落の要塞のごとし。けれど賢者は語ります。「落ちぬ要塞などない」と。
剣先が届くにはまだ遠いという距離で、大太刀を引きしぼります。気でも違ったのかと瞠目するウルシフラグス。
いいえ、私は冷静。届かぬ剣を放ちます。
――
盾を打ち据えたのは、しゅるりと滑り出た鞘。奇襲ながらも豪快な一撃に、観客たちがわっと沸きます。しかしその声は、すぐに息を呑む音に変わりました。
すでに私は大地を縮めるような歩法で迫っています。斬り捨てるに足る距離ですが、守りは健在。さすがはウルシフラグス、怯みつつも盾の中心をぴたりと私に合わせています。
いくら大太刀でも、その堅牢なる盾を砕くことは至難。――ですが彼は大きな勘違いをしています。艮御崎流剣術には、剣が通らぬ相手を仕留める技もあるのです。
大太刀の腹に手を添え盾に突撃。初撃が刻んだくぼみに横一文字を添えて、いざ押し通る!
――参拾七の型、『
「ウルシフラグスが――浮いたっ!?」
誰かの驚嘆が聞こえたときには、すでに闘技場の端。鎧が軋んで鉄の香りがつんと立ったときには、ウルシフラグスは壁に叩きつけられていました。
「ぐふっ……!?」
衝撃に声を漏らそうとも、容赦はしません。盾ごと圧殺すべく万力のように大太刀を押し付けます。分厚い鎧が不気味な悲鳴をあげはじめると、頭上の観客たちが唸りました。
「なんて怪力! さすがオーガとの交じり……!」「男を見せろ! ウルシフラグスっ!」
観客たちのそんな応援も、今の彼には聞こえてなさそうです。鉄兜の隙間から、恐怖と苦痛に揺れる瞳が見えました。
そんな図体をしてなんて情けない。けれど、その目つきはそそりますわね。……もっと哀れに歪んだところを見せてくださいまし!
さらに一歩を踏み込むと「ばつん、ばつばつん」と鎧の鋲がはじけました。柔らかい中身がぐしゃりとひしゃげそうな気配に、自然と口が三日月になってしまいます。
「ま、参った……!」
たまらずウルシフラグスが壁をタップします。私は気づかないふりを決め込こもうとしたのですが、主審に止られてしまいました。
「――そこまで! 勝者、アツキ!」
観客たちの喝采が、私の深くて暗い部分をしっとりと満たしていきます。けれど、なんだか物足りません。ウルシフラグスの瞳に浮かんだ潤みが、脳裏に焼き付いて離れないのです。
もう少し楽しませていただきましょう。私は漏れ出そうになる笑みこらえながら観客たちを見回します。
「さて、生かすも殺すもすべてはみなさま次第……。敗者に審判を!」
私が拳を突き上げると、観客たちはそろって手を上げました。親指を上に向けている者はごく少数のみ。ほとんどの者は、のどを掻っ切れと指を下にしています。
「――殺せ! 殺せ! 殺せ!」
野蛮極まる大合唱に、かわいそうなくらいに怯えるウルシフラグス。私は兜の下に隠した恐怖を嘗めながら、くふっと嗤いました。
「当然ですわね。まったく魅せるところがなかったのですから……。さ、観念なさい」
敗者は兵士たちに武器や盾を奪われ、私の前にひざまずかされます。兜を脱いでみれば、無骨ながらになかなかのルックス。もう少し生気が残っていれば、男前と言っても過言ではありません。
その顔を見ていると、ふと思い出す景色がありました。まだ朝も明けきらぬころ、養成所の片隅にある剣闘士たちの墓に祈りをささげている彼の姿です。
剣闘士とは刹那を生きる者たち。少し名が売れた途端に、欲望のままに富や色恋を求めだす者も少なくありません。けれど彼はそんな俗物たちとは違いました。
「ア、アツキ……?」
私の眼差しに混じった哀れみを察したのでしょうか。
――しかし忘れてはいけません。彼もまた、いまの私のように、打ち倒した剣闘士たちを手にかけてきたのです。積みあげた屍たちへの手向けの花として、雄々しく散るべきでしょう!
血の贖いを求める声に導かれて、大太刀を振り上げます。
その瞬間のウルシフラグスの顔ったら! あはは、なんて醜くて、滑稽で、私を満たしてくれるのでしょう!
音もなく首が落ちると、闘技場は痛いほどの静寂に包まれました。無念の死を遂げた英雄のひとりに、静かに敬礼するかのようです。けれどもそう感じたのは、私に憐憫の情があったからにすぎません。次の瞬間には、愚かな観客たちの狂気じみた歓声であふれんばかりになります。
「――悪鬼! 悪鬼! 悪鬼!」
私は恍惚としながらおとがいを持ち上げます。今ばかりはその不名誉な通り名も耳に心地よく、しずかに目を閉じました。
お母さま。温姫は今日も勝ちました。……あと少し、あと少しで自由の身ですのよ。必ず帰ります。ですので、どうかその時まで……。
ふと生臭い匂いが鼻を突いて目を開くと、赤黒い水溜りが足元を浸しています。その生々しさに眩んだ刹那、お母さまの声が脳裏をかすめました。
――ああ温姫、なんでこんなことを! 理由もなく人を傷つけるなんて……!
はっとします。――血に染まり切った私を、お母さまは優しく抱きしめてくれるのでしょうか?
い、いいえ……! 私は変わってなんかいませんわ! 『お嬢さま』の艮御崎温姫ですのよ……!
拳を強く握りしめ、自分に言い聞かせます。ちゃんと理由はあります。ここは殺し殺されの世界。自分が生きるために仕方なく……。
そうですわ。すべては、冷酷で無情なこの世界が悪いのです。
ならば、すべて斬り捨てる。悪鬼と呼ばれようとも、すべてを二つにするまで!
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