エピソード2 新人

「俺の名前は佐々木。長いことこの街でタクシー運転手をしている。昼も夜も人を乗せ、行き先を聞いて走る。ただ、それだけの仕事だと思っていたけど――たまに、人生の不思議を感じる夜がある。」


夜10時半を少し過ぎたころ、繁華街を抜けたあたりで手を挙げるスーツ姿の若い男を見つけた。


「こんばんは、空いてますか?」

「どうぞ。どちらまで?」

「○○町のアパートまでお願いします。」


乗り込んできた青年は、どこか疲れた表情を浮かべながらも、初々しさが滲み出ている。スーツも靴もまだ新品のようだった。


「新社会人さんか?」と声をかけると、彼は少し驚いた顔をした。

「ええ、なんで分かったんですか?」

「スーツがピカピカだし、顔に書いてあるよ。『新米です』って。」


青年は苦笑しながら、背もたれに身を預けた。


「まあ、確かにまだ何も分かってない新米ですけどね。今日は怒られてばっかりでした。」

「そうか、大変だな。どんなことで怒られたんだ?」

「うーん……今日だけで3回もやらかしちゃって。朝一で資料を印刷したら部数を間違えるし、お昼には取引先に電話するの忘れて、夕方には先輩に頼まれた書類にミスがあって……。」


彼は深いため息をついた。


「まあ、なんだ。初めてなんだから仕方ないさ。どれも大したミスじゃないだろ?」

「そうですかね……でも、先輩に『社会人としての自覚が足りない』って怒鳴られました。」


「そうか……でも、それはお前さんが期待されてる証拠だよ。」

「期待、ですか?」


疑わしそうな目を向ける青年に、俺は笑ってみせた。


「俺だって、新人の頃はよくミスしたさ。お客さんに道を教えてもらっても間違えるし、料金を計算し損ねて文句を言われたこともある。」

「タクシーでもそんなことあるんですね。」


「あるさ。慣れるまでは何だって難しい。でもな、不思議と誰も俺を見捨てなかったんだよ。たぶん、期待されてたんだろうな。お前さんも、そういうことだよ。」


青年は少し考え込むように窓の外を見た後、ふっと笑みをこぼした。


「そうだといいんですけど……この前も、先輩に『もっと主体的に動け』って言われて。それで張り切って、提案書を作ったんです。でも、内容が全然ダメで……先輩が黙り込んでるのを見たとき、地面に消えたくなりました。」


「ああ、それは苦いな。」

「でも、その後に先輩がフォローしてくれたんです。『アイデアは悪くないから、次はもっと練ろう』って。」


「ほら、いい先輩じゃないか。」

「はい。だからこそ、もっと頑張らなきゃって思うんですけど……気持ちばっかり焦っちゃって。」


車内に少し沈黙が流れる。雨音だけが静かに響く中、俺は口を開いた。


「焦らなくていいさ。少しずつでいい。お前さんの仕事をちゃんと見てくれる人がいる。それだけで、今は十分じゃないか?」


「……そうですね。」


青年はしばらく黙っていたが、やがて少しだけ笑った。


「なんだか不思議ですね。佐々木さんみたいな人に話してると、なんでこんなことで悩んでたんだろうって思えてきます。」

「そりゃ俺の方が長生きしてるからな。年寄りの話を聞くのもたまには悪くないだろう。」


目的地のアパートに着き、彼は財布を取り出した。


「ありがとうございました。なんか、佐々木さんと話してたら明日もちょっと頑張れそうです。」

「おう、またどこかで乗せることがあったら、成長した話を聞かせてくれよ。」


青年が車を降りて雨の中を走り去る姿を見送りながら、胸の奥が少しだけ暖かくなるのを感じた。


「さて、次はどんな人生に触れることになるか。」


そう思いながら、俺は夜の街へ車を走らせた。

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