「深夜、タクシーにて」
ダンナ
エピソード1
「俺の名前は佐々木。長いことこの街でタクシー運転手をしている。昼も夜も人を乗せ、行き先を聞いて走る。ただ、それだけの仕事だと思っていたけど――たまに、人生の不思議を感じる夜がある。」
時計の針は午後10時。街のネオンが滲む車窓を見ながら、佐々木は深いため息をつく。
助手席のカップホルダーにはぬるくなった缶コーヒー。無線が静かになると、車内に響くのはエンジン音だけだ。
「よし、次のお客さんを拾ったら一旦休憩だな」
そんな独り言を漏らしながら、タクシーを走らせていると、歩道で手を挙げる若い女性の姿が目に入った。
「すみません!病院まで急いでもらえますか?」
ドアを開けるなり、女性が慌てた様子で声をかけてきた。髪は乱れ、顔には薄っすらと汗が滲んでいる。
「どこの病院ですか?」佐々木はハンドルを握り直しながら尋ねた。
「〇〇総合病院です。お願いします!」
目的地を聞いた瞬間、佐々木の頭には自然と最短ルートが浮かんだ。この時間なら渋滞もないだろう。
「おじいさんが危ないんです。私、もっと早く行くべきだったのに…」
後部座席から漏れる声は震えていた。
佐々木はバックミラー越しに彼女を一瞥し、アクセルを少し踏み込む。
「大丈夫だよ。できるだけ早く着けるから」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。焦る彼女を少しでも安心させたい、そんな気持ちが自然と湧き上がった。
夜道を進む中、女性はぽつりぽつりと話し始めた。
「おじいちゃん、ずっと私のこと可愛がってくれてたんです。親が忙しくて、ほとんど祖父母に育てられたようなものなんですけど…」
声がだんだん涙で震え始める。
「今まで何度も会いに行こうと思ったのに、仕事が忙しいとか、言い訳ばっかりで…」
佐々木は無言で耳を傾けた。娘が幼かった頃の記憶が蘇る。妻が仕事で遅い日、保育園に迎えに行き、公園で時間を潰したこともあった。だが、今では娘とほとんど連絡を取っていない。
「最後に話したのは、いつだったかな…」
心の中で呟きながら、バックミラー越しに彼女を見た。
病院に着くと、彼女はお礼もそこそこに走り去っていった。佐々木は軽くハンドルを叩き、エンジンを切る。
「さて、休憩するか…」
そう呟きながら後部座席を見ると、古びた家族写真が目に入った。祖父母と幼い彼女が写っている。
写真を届けるため病院へ向かうと、彼女が廊下で座り込んでいるのが見えた。目を赤く腫らした彼女は写真を受け取り、涙を流しながら笑顔を浮かべる。
「これ…本当にありがとうございます。おじいちゃんもきっと喜びます」
彼女はそう言い、写真を胸に抱えた。
車に戻る途中、佐々木は夜空を見上げた。
「たまには娘にも電話してみるか」
独り言を漏らしながら車を走らせたその顔には、久しぶりに穏やかな表情が浮かんでいた――。
「深夜、タクシーにて」 ダンナ @Ky19920912
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