第5章 - 託された信頼
私たちのパトロールシフトは終わりに近づいていたが、時間が経つごとに1秒1秒がさらに遅く感じられた。赤信号で停止したパトロールカーの中、私は窓の外をぼんやりと眺めていた。その先にはラヴェンブルック市のビル群の向こうに沈みゆく太陽が見え、街路に長い影を落としていた。窓ガラスに映る自分の姿をちらりと見ると、少し疲れた表情が映っていた。この静かな夕暮れのように、今日も昨日と変わらない。平凡で、単調で…何かが欠けているような空虚さを感じていた。
隣に座るキアランを見ると、彼もまた退屈そうな顔をしていた。
「静かすぎて飽きてきた?」私はその沈黙を破るように問いかけた。
彼はため息をつきながら肩を軽くすくめた。
「完全にね。パトロールってもっと生き生きとしてるものだと思ってたけど、これが警察の仕事の現実ってやつ?」
「もし本当のアクションが欲しいなら、レオン署長やエリス副署長と一緒にハイリスクのミッションに出ないとダメだね。」私は皮肉を込めて笑った。本音を言えば、私も同じ気持ちだった。最前線で危険と向き合うミッション、そんな瞬間こそが私がこの道を選んだ理由を思い出させてくれるのだ。
やっと赤信号が青に変わり、私はエンジンをかけて考え込む自分の思考を振り払いながら車を進めた。しかし、数ブロック進んだところで、何か奇妙な光景が目に入った。
「リア、あそこを見ろ。」キアランが車の窓越しに向かい側の古びたアパートを顎で指し示した。その視線を追うと、道路向かいの建物の前で数人が慌ただしくバンから荷物を運び込んでいるのが見えた。その建物は数カ月間空き家になっていて、ほとんど忘れ去られていた場所だった。しかし今夜、薄暗い街灯の下で繰り広げられるこの活動は、どうにも不自然に感じられた。
3人の男が荷物を運んでいたが、彼らが使っているバンはどう見ても民間車両で、登録済みの引っ越し業者のものではなかった。この街ではすべての引っ越し作業が公認業者を通じて行われるのがルールだ。それは犯罪行為を防ぐための措置だった。キアランと私は目を合わせた。言葉は必要なかった。何かがおかしいと直感的に分かった。
「これは怪しいわね。」私はつぶやいた。「彼ら、引っ越しの規則を守ってないみたい。」
キアランも頷き、その目が鋭さを増した。「ああ、大したことじゃないかもしれないけど、確認しておこう。」
車のサイレンを点けると、グループの動きが一瞬で止まり、私たちの方に顔を向けた。その目には動揺が走り、明らかに誰にも見られるとは思っていなかったようだった。
車を路肩に止めると、私たちは目的を持って車を降りた。赤と青のサイレンの光が、古びた建物の外壁に緊張感を漂わせた。
「そこの3人、手を止めて、その場で動かないで!」キアランの声が響き渡り、冷静ながらも威圧的だった。私たちが近づくと、3人のうちの1人が急に動き出しそうな気配を感じ、警戒を強めた。
彼らが立ち止まるのを確認すると、私はキアランに指示を出した。
「キアラン、バンを調べて。私は彼らと話をする。」
彼は頷いてバンへと向かった。私は3人に目を向け、その中でも一番神経質そうな、痩せた体に乱れた髪の男に目を留めた。
「規則は知ってるわよね?」私は問いかけた。「引っ越しはすべて公認業者を通さなきゃならないのよ。どうして自分たちでやってるのか、説明してくれる?」
その男はぎこちなく笑みを浮かべながら、震えた声で答えた。
「ぼ、僕たちは…ただ引っ越ししてるだけです。」彼の言葉には落ち着きが感じられず、見え透いたごまかしだった。
「引っ越しね。」私はその言葉を繰り返しながら、疑いの色を隠さずに返した。
「公認業者を使わないことは、市の規則違反よ。知らないとは言わせないわ。」
彼は二人の仲間をちらりと見たが、二人とも同じように緊張しているのが明らかだった。私は一歩近づき、彼らの反応を注意深く観察した。ただの無許可の移動というには、何かがおかしかった。その場の雰囲気には、単なる不便さを超えた不安なエネルギーが漂っていた。
背後から、キアランがバンの後部ドアを開け、中を漁る音が聞こえた。私は目の前の男に注意を向けたが、私の視線の下で彼の不快感が増しているのがわかった。
「名前と、ここにいる理由を言いなさい。」私は声にわずかな鋭さを加え、はぐらかされないよう毅然と言った。
彼らはためらい、まるであらかじめ準備された台詞を慌てて思い出しているかのように、一つ一つ言葉を絞り出した。どこから引っ越してきたのか尋ねたとき、答えはばらばらだった。一人は西側のアパートだと言い、もう一人は大学の近くに住んでいたと答えた。
キアランにちらりと目を向けた瞬間、私たちの間に共有された疑念が確信に変わった。ただの引っ越しではない。
「さて、身分証明書を見せてもらおうか。」私はきっぱりと告げた。三人は互いに警戒の目を向け、明らかに気が進まない様子だ。手がわずかに震えているのが見えた。
「今すぐ出しなさい。」私は繰り返した。「さもなければ、署でじっくり話を聞くことになるわ。」
しぶしぶ、彼らは身分証を差し出した。それらを確認すると、レイヴンブルックの住民カードや大学の学生証が並んでいたが、どうにも腑に落ちない。
キアランが戻ってきて、冷静に報告した。「コンピューターが一台、椅子が数脚、机が一つ……まあ、普通といえば普通だが、学生三人にしては一台のセットだけ?」
確かにそうだ。本当に学生なら、なぜたった一台のコンピューターだけをわざわざ運ぶのだろう?しかもこんなにも手間をかけて。
私は視線を身分証から彼らに戻し、さらに問い詰めた。声にわずかに厳しさを加えながら言った。「で?こんな時間に、しかも業者も使わずに、ここで引っ越しなんて、一体どういうこと?」
彼らは居心地悪そうに身じろぎし、互いに目を合わせたが、どう話せばいいかわからないようだった。一人が何かを言おうとした気配を感じたが、沈黙が長引く中、ついに一人がたまらず踵を返して路地を走り出した。
「おい!止まれ!」私は叫んだ。「キアラン、追いかけて!」
キアランは指示を待つまでもなく、即座に駆け出した。その後ろ姿は迅速かつ決然としていた。残った二人は私を振り返り、追い詰められたような表情を浮かべた。そして、やがて観念したのか、二人が私に向かって飛びかかってきた。
愚かすぎる。本当に愚かだ。
一人が拳を振り上げてきたが、簡単にかわした。もう一人は私の腕を掴もうとしたが、私は柔術の技でカウンターを決め、スムーズな動きで一人を抑え込んだ。すぐにもう一人も地面に倒し、二人を拘束して手錠をかけた。
「じっとしていろ。余計なことはするな。」私は彼らを抑え込んだまま冷静に言った。一人は今にも泣き出しそうな顔をしているように見えた――もしくは、ただ恐怖で声も出せないだけかもしれない。しかし、今の私に同情の余地はなかった。
「リア!」廊下の奥からキアランの声が響いた。
「そっちはどう?」私は声を張り上げた。
「問題なし!」キアランは息を切らしながらも得意げに答えた。「テーザーで仕留めた――もう逃げられないさ。」
私はすぐに無線をレイヴンブルック警察の周波数に繋ぎ、この状況を迅速に報告し、三人の確保に応援を要請した。
「了解、すぐに向かいます。」オペレーターの声が返ってきた。私はほっと小さく息を吐き、地面に伏せさせた二人を見下ろした。彼らの恐怖は、狂ったようなパニックから、事態の重さを理解し始めた静かな諦めへと変わりつつあった。
そのうちの一人が震える声で言葉を絞り出した。「お、俺たちはただ…命令に従っていただけで…こんなことになるなんて思わなかった…」
私は息を整えながらその男の隣にしゃがみ込み、慎重に問いかけた。「命令を出したのは誰?」
「顔も身体も完全に隠した奴だ…。声も変声機みたいなので歪められてた。」彼は目を泳がせながら答え、まるで影の中にその男が潜んでいるとでも思っているようだった。
「そいつはお前たちに何をさせた?」
「この荷物を、このアパートに運び込むだけだって…家賃も全部払ってあるって言われた。ただ荷物を運ぶだけでよかったんだ。」
私はじっと考え込んだ後、さらに尋ねた。「その報酬、全額もらったの?」
「い、いいえ、ほんの一部だけ…前金だけだ。」彼の声はほとんど囁きに近かった。
キアランと私は目を合わせた。この些細な詳細が、もっと大きな何か――罠か、あるいはさらに深い陰謀――の入り口であることを直感で悟った。応援が到着するのを待ちながら、私の胸には疑念と好奇心が渦巻いていた。
夕方の空気を切り裂くように、サイレンが響き渡り、2台のパトカーが角を曲がって現れた。赤と青のライトが点滅しながら、警官たちは素早く学生たちを拘束し、私たちに軽くうなずいて感謝の意を示した。しかし、直感が囁いていた――この捜査はまだ終わっていない。むしろ、これが始まりに過ぎないのだと。
学生たちが車に押し込まれ、不安げな視線を肩越しに投げかけるのを見つめながら、私の目はふと外に停められた白いバンへと移った。鑑識班がその車を運搬のために封鎖しているところだった。今日に限っては、レイヴンブルック署がどんな小さな疑問も見逃すつもりはないという強い意志が感じられた。
現場が整っていくのを見守りながら、大きな事件の核心に少しでも迫れたような感覚が私に安心をもたらした。
「ようやく、少しは手応えのある案件だな。」
疲れた笑顔を浮かべながらも、その奥に隠された消耗が見え隠れするキアランがぽつりと呟いた。彼は革手袋を外し、それをダッシュボードに無造作に放り投げる。
「本当にね。これが特8課のもっと大きな作戦に繋がるきっかけになればいいけど。」私はキーを回し、エンジンが低く唸りを上げる音を耳にした。
ちらりとキアランを見ると、彼の目にも私と同じ期待の光が宿っているのが分かった。私たちはどちらも、これを何か大きなものの始まりにしたかった。自分たちの実力を証明し、上官たちから聞くだけだったハイリスクな任務に挑むチャンスを掴むために。その思いが疲労感を吹き飛ばし、新たな希望と野心の炎を胸の中で燃え上がらせた。
キアランは座席に深く身を沈め、張り詰めた現場からの解放感を味わうように大きく伸びをした。一方で、私はハンドルを握る手に新たな決意を込めた。心の中ではすでに署長レオンへの報告の内容を整理し始めており、それが彼の関心を引くに十分であることを願っていた。
「リア、もしこれが本当に大きな作戦に繋がるとしたら…俺たち、準備できてると思うか?」
キアランは暗くなり始めた道を見つめたまま、静かに問いかけた。
「私たちがそう信じなくて、どうするの?信じない限り、いつだって準備不足のままだよ。」
私はアクセルを少し踏み込みながら、軽く笑って答えた。
キアランもくすっと笑みを漏らした。その日の初めての静けさが、私たちの間に訪れた。それは心地よい沈黙であり、わざわざ破る必要のないものだった。
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夕暮れが街を包み込む中、エリスは整備工場を後にして、滑らかな運転で車を進めていた。助手席に座るレオンは黙々と前方を見据え、後部座席ではカイとリスが気楽な雰囲気で冗談を交わしている。
リスはシートに身を預け、目を細めながらカイを見つめた。その表情には、長い間待ち望んでいたものをついに手に入れた満足感が溢れていた。
「早く“新しいおもちゃ”が活躍するところを見たい。やっと全ての改造が完了したんだから。」
その言葉にカイは片眉を上げ、口元に皮肉げな笑みを浮かべた。
「おもちゃ、だって?この年になってまだそう呼ぶのか?」
リスは軽く肩をすくめ、笑みを深めながら答えた。
「人それぞれ、楽しみ方があるでしょ。私にとってあの装甲車は、ただの装備じゃない――相棒なの。」
カイは苦笑しながら、挑発するように目を細めた。「その“相棒”、前のよりちゃんと役に立つといいけどな。」
その和やかな空気を切り裂くように、通信機から微かなノイズが入り、車内の静寂が破られた。エリスが一瞬視線をミラーに送る中、レオンは通信の内容に集中した。通信機から聞こえたのは、安定したトリンの声だった。
「署長、こちらトリンです。クライブと共に、特8課本部とレイヴンブルック警察間の通信記録を全て回収しました。これまでの全データを揃えています。」
レオンは一瞬表情を引き締め、通信機を手に取った。落ち着いたが注意深い声で返答する。
「報告を続けてくれ、トリン。何が分かった?」
トリンの声は揺るぎなく、的確だった。
「全ての通信は安全でした。記録は特8課と警察の仲介チームを経由し、直接署長の手元へ送られています。セキュリティ侵害の兆候は一切ありません。」
レオンはその言葉を聞き、わずかに眉を動かした。「漏洩の可能性はゼロということか?」
「その通りです、署長。主要およびバックアップ両方のチャンネルを二重チェックしましたが、侵入の痕跡は皆無でした。」
車内の空気がわずかに変化し、全員が静かに耳を傾けた。レオンはさらに質問を重ねる。
「レイヴンブルック警察に伝えられている内容は?」
「主要な任務、ギャング摘発、逮捕記録、そして優先度の高い情報のみです。」トリンの報告は正確で簡潔だった。
レオンの眉間にわずかな皺が寄る。「では、通常の巡回や小規模な報告は?」
トリンの返答には、意外性があった。
「署長、その類の任務についての記録は何も共有されていません。」
その答えを聞いた瞬間、車内の空気が引き締まった。主要作戦は安全だったが、日常的な情報が共有されていない事実が新たな疑念を生んだ。
レオンは少し考え込んだ後、トリンとクライブを労うように通信機越しに語りかけた。
「よくやった、トリン、クライブ。少し休むといい。」
短い沈黙の後、クライブの安堵した声が返ってきた。
「了解です、署長。一息つかせてもらいます。」
「ありがとうございます、署長。」トリンの声からも、長時間の労働の疲労感がわずかに滲み出ていた。
その直後、通信機から別の声が割り込んだ。マグナスだった。冷静な彼の口調には、いつもと違う緊張感が含まれていた。
「署長、失礼します。重要な情報があります。」
レオンは即座に反応し、その声の異様さに注意を向けた。「話せ、マグナス。何を見つけた?」
「昨夜の起爆信号を追跡しました。発信源を特定しています。」
車内の全員が言葉なく顔を見合わせた。エリスはレオンに目をやり、後部座席ではカイとリスが互いに視線を交わした。その表情には、確かな期待の光が宿っていた。
レオンの口元には微かな笑みが浮かび、これが突破口になると確信したようだった。「どこだ?」
マグナスは冷静に、だが力強い声で応えた。
「港の近くです。昨夜の急襲地点のすぐ近くにある、地下下水道を通じて港に繋がるエリアです。」
レオンはその情報を頭の中で組み立てながら、次の手を模索する。
「よくやった、マグナス。これが突破口になる可能性が高い。」
レオンは素早く通信機に向き直り、指示を込めた力強い声で命令を下した。
「クライブ、トリン——ただちにマグナスが特定した場所に向かえ。」
通信の向こうから、クライブがかすかに息をつく音が聞こえた。「署長…やっと一段落ついたところです。」
「署長、まだ…休む暇すらありませんよ。」トリンも疲れた声で続けた。
しかし、レオンの冷静で揺るぎない口調には反論の余地がなかった。「休む時間は後で取れる。今は奴らが反撃の準備をする前に動かなければならない。」
疲労の色を隠せないトリンとクライブだったが、命令を受け入れるほかなかった。「了解です、署長。ただちに向かいます。」
エリスは運転中の手を止め、一瞬のためらいを見せながら車を路肩に寄せた。彼女の頭の中で、マグナスからの報告内容がじわじわと浸透してきたのだ。
車窓の外では、沈みゆく夕陽が温かな輝きを放ち、その光が車内の乗員たちの思索に沈む表情を照らしていた。
「港近くの下水道からの信号…戦略的な場所ね。」エリスがぼんやりと外を見つめながら言った。「でも、なぜそこなの?私たちを惑わすつもり?」
レオンは考え込むように頷いた。「無作為とは考えにくい。奴らはそのトンネルを利用して私たちを欺こうとしている可能性が高いが…なぜそこを選んだ?」
「いずれ見つかるとわかっていたのかもな。」カイが推測を口にした。「罠だろう。無謀に突入すれば、奴らの手のひらの上だ。」
「それに薬物…」リスの声は沈んでいた。「あの毒物は痕跡を残さずに人を殺せる。これを仕掛けた連中は、跡を消す手際がプロ並みだ。」
レオンは深く息を吸い、眉間に皺を寄せた。「見えているのは、大きなパズルの一部にすぎない。」彼の視線は夕陽に向けられ、まるで水平線の彼方に答えを求めているかのようだった。
数分間、車内で議論が続いたが、やがて全員に行き詰まり感が漂い始めた。追加の情報がなければ、どの仮説も憶測の域を出ず、時間の浪費にしかならない。焦燥感を覚えたレオンは通信機を手に取り、特8課のメンバーたちに呼びかけた。
「クライブ、トリン、状況はどうだ?」
クライブの疲れた声が通信機越しに響き、続いてトリンが答えた。「署長、マグナスが示した場所に向かっています。今のところ障害はありません。」
「何か見つけ次第、すぐに報告します。」トリンも同じく疲れた口調だった。
「分かった。気を付けろ。」レオンは短く答えると、別のチャンネルを開いた。
「マグナス、フェリックス、リヴィア、進展はあるか?」
最初に答えたのはマグナスだった。「署長、現時点で追加情報は特にありません。ただ、外部信号の隠れた痕跡がないか、引き続きスキャンを続けています。」
リヴィアの声が次に響き、楽観的な調子で言った。「まだどこかに隠れた信号がある可能性があります。署長、私たちは最後の最後まで諦めません。」
レオンは彼らの献身に満足げに頷いた。「いいぞ。引き続き頼む。」
その時、不意にトリンが通信を割った。半ば冗談めかした口調でこう言った。「今回ばかりは…どうかこれ以上現場任務を与えないでください、署長。さすがにもう限界です。」
フェリックスがすかさずその冗談を拾い、茶化すように笑った。「ああ、それってクライブと俺を一緒に行かせたいってことだろ?残念だな〜。現場仕事は君の担当だろう?」
緊迫した空気の中に一瞬の安堵と笑いが生まれた。だがその裏にあるのは、お互いへの深い信頼と支え合いだった。
チャンネルを切り替えたレオンは、静かに指示を送った。呼びかけの相手は、密かにセレーンの動向を見守っているルーサーとロリアンだ。
通信機越しに、まずロリアンの冷静な声が響いた。
「セレーンはまだ資料室にいます。昨夜のギャング襲撃に関連する文書やファイルを調べている最中です。ただ…少し厄介な状況になってきました。レイヴンブルック署の警官たちが、彼女の長時間の滞在を不審に思い始めたようです。」
すかさずルーサーが補足した。
「署長、セレーンはこの会話を聞いていません。我々専用のプライベートチャンネルにだけ接続しています。これまでの情報は全て、我々の安全なリンクを通じて彼女に伝えています。」
レオンは短く頷き、問いかけた。
「セレーンから君たちの位置は確認できるか?」
ロリアンがすぐに応じる。
「はい、署長。私たちはレイヴンブルック署本部から遠くない屋上にいます。セレーンは窓からこちらを確認できる位置にいます。奇妙なのは…署の警官たちは、私たちの存在に全く気付いていないんです。だが、セレーンは一瞬で気付きました。」
その言葉に、ルーサーが笑みを帯びた声で続ける。
「全く、レイヴンブルックの警官たちは訓練不足ですね。」
レオンは微かに笑みを浮かべたものの、すぐに口調を引き締めた。
「油断するな。署内に裏切り者やスパイが潜んでいる可能性がある。彼らが行動を起こすタイミングは予測できない。」
「了解です、署長。」
ルーサーとロリアンは同時に応答し、警戒を強めながら再び持ち場に集中した。
レオンは無線機を握り直し、再び視線をエリス、カイ、リスに移した。
四人は沈黙の中で目を合わせ、それぞれの思考が言葉にならない仮説や可能性と絡み合っていた。隠された情報、緻密に計画された策略、そして常に特8課の先を行く一連の動き――すべてが一つの不吉な可能性を示唆していた。それは、レイヴンブルック署の内部に裏切り者、あるいはスパイがいるかもしれないということだった。
最初に沈黙を破ったのはカイだった。真剣そのものの表情を浮かべ、低く落ち着いた声で言った。
「もし本当にレイヴンブルックに裏切り者かスパイがいるとしたら、俺たちの行動は最初からすべて筒抜けだったってことになる。」
「その通りね。」エリスがすぐに応じた。いつもの柔らかな笑みは消え、代わりに硬い決意がその顔に宿っていた。
「これまでの動きが、まるで相手の手のひらで踊らされているみたいに感じるわ。一歩ずつ罠に誘導されているような気がする。」
レオンは頷きながら窓の外へ視線を移した。最近の出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。断片的な記憶が、未だ繋がらないパズルのピースとして形をなそうとしていた。
「もしその疑いが正しいなら、それを前提に動くしかない。」リスが静かだが力強い声で続けた。
「本当に内部に敵がいるのなら、戦略を根本的に見直さないといけないわ。今私たちが持っている情報は、表面的なものに過ぎない。今回の仕掛け人はただの腕利きじゃない。私たちの行動原理を完全に把握している。」
レオンは一人一人の視線を順に受け止め、落ち着いたが確固たる声で言った。
「ならば決まりだ。我々はレイヴンブルック内部に裏切り者、もしくはスパイが存在する可能性を前提に行動する。どれほど身近な存在であろうとも、決して警戒を緩めるな。」
全員が無言で頷き合った。その決断の重さを全身で受け止めるかのように。それが誰なのか、どの程度深く関与しているのかは誰にも分からなかったが、この新たな前提を受け入れることで、これからの行動方針が大きく変わることは明らかだった。
一瞬の静寂が流れた後、エリスはレオンを見つめた。その瞳には、何か重要なことを彼が見落としているのではないかと思わせる光が宿っていた。
「署長、本当に忘れていることはない?」
その一言で、レオンの中に眠っていた記憶が蘇った。それは、仮説や分析の渦中で埋もれていた明確な断片だった。エリスはそれ以上何も言わなかった。ただその視線だけで、彼に全てを思い出させるのに十分だった。
短い息をついたレオンは、無線機を再び手に取った。今度の声は冷静ながらも鋭さを帯びていた。何か重要な事態に備えようとする決意が、その口調ににじみ出ていた。息を整えた彼は、未だ報告のない最後のチームに向けて呼びかけた――。
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その午後、私たちはパトロール車の擦り切れた座席に沈み込み、無言のまま座っていた。通りは異様なほど静まり返り、窓のわずかな隙間から吹き込む風が、かすかな音を立てるだけだった。
今日はこのパトロールの最終地点になるはずだった。そして、これまでの巡回で特に目立った事件もなく順調に進んでいたにもかかわらず、胸の奥に奇妙な違和感が渦巻いていた。
隣に座るキアランにそっと視線を向けると、その険しい表情が、彼も同じ不安を感じていることを物語っていた。普段は陽気な彼の顔が、今はどこか影を落とし、眉間に深い皺が刻まれている。今日の巡回中、怪しい学生を何人か拘束したが、それほど深刻な案件ではなかった。だが、先輩たちからのブリーフィングを思い返すと、私たちの成果はどこか色あせて見えた。
これは本当に「成果」と呼べるのだろうか――そんな疑問が胸をよぎる。
私たちはよく先輩たちを憧れの目で見ていた。レオン署長、エリス副署長、そして特8課の他のメンバーが、高リスクの作戦を自信満々にこなし、危険な犯罪者たちを次々と追い詰めていく姿。その卓越した手腕と冷静さには、ただただ目を見張るばかりだった。それに比べて、私たちはどうだろうか?数人の学生を拘束するだけで精一杯の私たちは…。その差に、どうしようもない虚しさが広がった。
沈黙を破ったのはキアランだった。その声はいつもの明るさとは違い、どこか沈んだ響きがあった。
「リア、僕たちの報告って...本当に意味があると思う?」
私は静かに息を吐き、自分の中の疑念を隠そうとした。「正直言うと、キアラン…ただ形だけの報告書のために動いてる気がするよ。」
彼と視線を交わすと、互いに抱える重みが自然と伝わってきた。その瞬間、胸の奥で引き裂かれるような感覚があった。この報告をレオン署長に伝えることを想像するだけで胃が痛くなる。自分たちの仕事が無駄だと思われたらどうしよう?そんな不安が頭をよぎる。
キアランは小さく頷き、真剣な表情で言った。「むしろ、この件は報告しないほうがいいかも。下手に伝えたら、余計に自分たちの評価を下げるだけかもしれない。」
その言葉に反論することができなかった。何を言っても、この胸のざわめきは消えそうになかったからだ。そんな重い空気の中、無線機からレオン署長の声が聞こえてきた。
「よりによって、こんな時に…」私は小さくつぶやきながら、震える手で無線機を掴んだ。横目でキアランを見やると、彼は小さく頷き、無言のまま励ますような視線を送ってくれた。その静かなエールに背中を押されるように、私は深呼吸をして無線のボタンを押した。
「特8課-2、こちらリオラです…どうぞ。」緊張を押し隠しながら、なんとか平静を装って答える。
キアランは唇を噛みながら、息を詰めて署長の次の言葉を待っている。無線の向こうから聞こえてきたレオン署長の声は、いつも通り落ち着いていた。
「今日のパトロールはどうだった?何か報告はあるか?」
胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。報告するほどのことはなかったと言いたかったが、黙ったままでいるわけにもいかなかった。私は視線を落とし、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「…ええと、署長。怪しい学生を3人拘束しました。」まずは深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。「彼らは日中に家庭用品のようなものを運んでいたのですが、運送業者らしき人物はいませんでした。持っていたのは、コンピュータユニットと椅子、それに机だけ。正直、大した量ではありません。」
無線の向こうで短い沈黙が続いた。レオン署長の声に微かな興味が混じる。「ふむ。それで?」
少しだけ緊張が和らぎ、私は続けた。「最初はただの定期チェックだと思ったのですが、質問をした途端に一人が逃走し、他の二人も抵抗し始めました。ですが、無事に取り押さえました。怪我人もいません。彼らに尋問したところ、誰かに雇われたと白状しましたが、雇い主の名前は頑なに言おうとしませんでした。」
再び短い沈黙の後、署長が尋ねた。「あのアパートの場所は?」
私はすぐに場所を伝え、なんとか自信のある口調を保とうと努めた。その直後、マグナスの声が無線を通じて割り込んだ。
「その場所って、来週レイヴンブルック警察署長の退職式が予定されている建物の近くじゃない?」
その一言が空気を一変させた。単なる情報ではなく、そこに潜む大きな意図に気付かされた瞬間だった。無線の向こう、特8課全員が同じ考えを巡らせているかのように、重い沈黙が流れた。
エリスが眉をひそめている光景が頭に浮かんだ。そしてカイは、間違いなくその鋭い頭脳をフル回転させているはずだ。レオン署長はいつも通り冷静で、まるでこの新たな情報の意味を解き明かそうとしているかのように、永遠とも思えるほどの沈黙を保っていた。
もしかすると、私たちが考えていた以上に大きな何かが絡んでいるのではないか?その疑念が心の奥底にしっかりと食い込み、じわじわと不安が広がっていく。キアランも私に視線を送り、その瞳には同じような気づきが映っていた。これには、私たちの想像を超えた背景があるに違いない。その欠けているピース――それは、もっと大きな何かと結びついているのだろう。
そしてついに、レオン署長の声が静寂を破った。そのトーンは冷静さを保ちながらも、明らかに緊迫感が込められていた。
「リア、キアラン。すぐにあのアパートへ戻れ。」
私はその場で硬直した。その突然の命令の厳しさに圧倒されてしまった。「え、でも署長…パトロールの時間はもう終わっています。」
レオンの返事は素早く、そして揺るぎなかった。「これは重要な任務だ、リア。ここには調べるべき何かがある。これは特8課の新しい調査任務だと思え。」
キアランと私は視線を交わした。胸の中で疑念が消え去り、それに代わって湧き上がるのは興奮と驚きだった。単調な任務に費やしたこの1年の後、ついに私たちに本当に価値のある任務が与えられたのだ。本物のミッション。それも、重大なものだ。
私は勢いよくうなずき、興奮を抑えきれない声で答えた。「了解しました、署長!すぐに向かいます。進展があればすぐに報告します!」
レオンの声は少しだけ柔らかくなったが、その真剣さは変わらなかった。「よし。気をつけて、健闘を祈る。」
再びキアランと目を交わす。今度はその目に浮かぶのは、湧き上がる期待と高揚感だ。「了解!」私たちは声を揃え、喜びを隠しきれない調子で答えた。
新たな決意を胸に、私は車を走らせた。不安は跡形もなく消え去り、ただ前へと進む。私たちには任務がある。それも、重要な任務だ。今度こそ、絶対に誰の期待も裏切らない。
だが、角を曲がろうとした瞬間、ふとした気づきが脳裏をよぎった。その場所…初めは単なる偶然のように思えたが、実際には極めて戦略的な位置だったのだ。キアランも私と同じように驚きを顔に浮かべ、その目には私と同じ理解の色が宿っていた。ついに、このパズルのピースが少しずつ組み合わさり始めているのが分かった。
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無線から聞こえてきたリアとキアランの息の合った返事が、静まり返っていた車内の空気を一変させた。その熱意のこもった声は、特8課のメンバー全員に伝わり、思わず笑みを浮かべさせる力を持っていた。無線の向こうで、リアとキアランは気づいていなかったが、チーム全員がその瞬間を共有し、胸の奥で彼らを祝福していた――これは二人のジュニアにとって、忘れられない節目の瞬間だった。
ただの巡回任務ではない。これは彼らにとって初めての「本当の」任務――これまでの訓練が試される、もっとも重要な仕事だった。
車内では、レオン、エリス、カイ、そしてリスがそれぞれ視線を交わしながら、胸に湧き上がる誇りを感じ取っていた。長い時間をかけて待ち望んだ瞬間がついに訪れたのだ。特8課の活動の核心に触れる重責を、リアとキアランが任される日が来た。この決断には計り知れない意味があった。
エリスは満足そうな笑みを浮かべ、レオンに視線を向けた。
「ついに彼らに大きな任務を任せたのね、レオン。」 彼女の声には喜びと感慨が入り混じっていた。「ここまで来るのに長かったわね。」
後部座席のカイが軽くうなずく。「ああ、ようやくだ。彼らはその地位を勝ち取ったんだ。」
レオンは口を開かず、ただ微かに笑みを浮かべるだけだった。署長として、この決断の重みを誰よりも理解していた。それはリアとキアランの未来を変えるものであり、同時にチーム全体の成長を示す象徴的な瞬間だった。しかし、エリスは話を終えるつもりはなかった。彼女は背もたれに寄りかかり、少しリラックスした口調で続けた。
「そろそろ彼らを完全にチームに迎え入れるべきだと思う。お前はずっと新人扱いしてきたけど、もうそういう時期じゃないでしょう?」
エリスの言葉にカイが笑みを漏らす。「その通りだよ。この一年間、彼らは必死にやってきた。彼らはもっと大きなことを任される資格がある。」
隣のリスも静かに微笑み、思慮深い声で付け加えた。「彼らの成長は目覚ましい。このタイミングで責任ある仕事を任せるのは、むしろ当然のことよ。」
レオンは短く息を吐き、低い声で応じた。「確かにその通りだ。ただ…まだ経験が足りないかもしれないし、精神的な強さも試されるだろう。」
カイはその言葉に一瞬目を細め、穏やかな声で言った。「それは否めないさ。でも、こういう機会がなければ、彼らは経験を積むことができない。時には火の中に飛び込ませるしかないんだ。」
エリスとリスが同時にうなずいた。「そうね、カイの言う通り。」エリスの声には穏やかな決意が込められていた。「私たちが見守る。彼らが失敗しないようにサポートするし、この経験が成長の糧になることは間違いない。」
レオンはエリスに視線を向け、その目に信頼の色を浮かべた。彼女がそばにいる限り、何があっても彼らを守るという確信があった。車内の空気は徐々に柔らかくなり、4人の間に流れる静かな絆が深まっていった。彼らは単なる同僚ではない――家族のような存在だった。
会話が落ち着きを取り戻し、エリスは再びハンドルに意識を戻した。車は特8課の本部へ向かい、深まる闇を切り裂くように走り続けた。
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一方、もう一台の車では、リアとキアランの興奮が抑えきれなかった。彼らの表情は輝き、目には希望と決意の光が宿っていた。リアは胸の奥で強く感じていた――この瞬間こそが、待ち望んでいた機会だと。これはただの任務ではない。自分たちがチームの一員として認められるための、最初の大きな挑戦だった。
リアは新たな決意を込めてサイレンを鳴らし、車を進めた。エンジンの振動が彼女の鼓動と重なり、目の前に広がる道が未来への扉のように感じられた。隣に座るキアランもまた、深い集中力を保ちながら前方を見据え、共に迎える試練に備えていた。
彼らは知っていた。ただの任務ではない。これは、特8課の中心へと足を踏み入れるための、旅の第一歩だったのだ。
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