第4章 - 影の足跡

朝の空が徐々に明るくなりつつあった。それでも私たちの心は、その光に反して重苦しかった。キアランと私は道路脇に停めたパトロールカーの中に座り込んでいた。特8課の他のメンバーが取り組む主要な任務に参加できないまま、まるで取り残されたような気分だった。どれくらいこの無言のままここに座っていただろうか。お互い一言も言葉を交わさず、それぞれの考えに沈んでいた。


パトロールは多くの警官にとって日常的な任務に過ぎない。だが、私たちにとってはどこか虚しさを伴う静けさが、日を追うごとに重みを増していくようだった。


沈黙に耐えかねたのか、キアランが長いため息をつき、口を開いた。


「リア、こんな単調な仕事ばかりで飽きないのか?なんか、いつも同じような任務ばかり押し付けられてる気がするよ。」


彼は私を一瞥し、いらだちの色を滲ませた声で言った。


私は軽くうなずき、ゆっくりと深呼吸をした。


「その気持ち、よくわかるよ、キアラン。私も時々思うんだ。私たち、本当に意味のあることをしてるのかなって。他のみんなは大きな任務に没頭して、戦略を立てたり、重要な情報を掘り起こしたりしてるのに。私たちは毎日、昨日もその前日も同じように、ただ街中をパトロールしてるだけ。」


キアランは座席に体を預け、窓の外に視線を向けた。


「外部信号の調査に参加できると思ってたんだ。まさかギャングがそんな高度な起爆装置を使ってるなんて想像もしなかった。でも、結局は…『ついてこい』って遊びに誘われたみたいなもんさ。他の連中が本物のアクションを仕切る中、俺たちはただここに放置されてるだけだ。」


その言葉は、私の中でくすぶっていた感情を正確に言い表していた。


「正直言うと、私も考えちゃうんだ、キアラン。チーフや他のメンバーと一緒に任務に参加して、ちゃんとブリーフィングを受けて、直接貢献できたらどうなるんだろうって。こうやってただ街中をうろついてるだけじゃなくてさ。」


キアランは肩をすくめ、苦笑した。その笑顔にはどこか諦めの色が混じっていた。


「そんなこと考えたって、現実はそう簡単に変わらないだろうさ。俺たちは特8課の『添え物』なんだ。時々、これ以上を期待するのが無駄に思えてくる。」


私はその言葉に一瞬考え込んだ。これまで自分に言い聞かせてきた。「特8課ではどんな役割も無駄じゃない」って。でも、今になってその信念が揺らぎ始めている。


「ただ…何か意味のあることがしたいだけなんだ。」私は静かに言いながら、ハンドルをぎゅっと握りしめた。「チームの一員として、サポート役じゃなく、実際に役に立ってるって感じたい。それが子供じみてるって思われても、私にはそう思えない。」


キアランは一瞬驚いたように私を見つめたが、やがて微かな笑みを浮かべた。その表情には、私の意図を理解したような暖かさが宿っていた。


「お互い、理想主義者ってことかもな。映画みたいに派手に登場して、世界を救うヒーローになるって夢見てさ。」彼は冗談めかした口調で付け加えた。「もしくは、ただ劇的に考えすぎてるだけかもな。」


私は苦笑しつつ、小さく笑った。ほろ苦さも混じっていたが、それでも笑いだった。


「そうかもね。でも、こんな風に感じてるのは私たちだけじゃないと思う。みんなお互いを頼りにしているけど、私たちはその輪から外れてる気がする。」


キアランは静かにうなずき、再び窓の外に視線を移した。


「それ、俺も感じてるよ、リア。でも、ただ待ってるだけじゃ、誰にも気づかれない。俺たちは、パトロール部隊以上の存在になりたいんだ。」


私は彼を見つめ、目に新たな決意を宿した。


「それなら、私たち自身で証明しなきゃね。このままじゃ嫌だ。特8課の『添え物』なんて、もうたくさんだもの。」


キアランは少し驚いた様子を見せたが、すぐに笑みを浮かべた。そして軽くうなずきながら、私の言葉を受け止めるように言った。


「その通りだ、リア。俺たちが本気だって証明できれば、きっとみんなも俺たちを本物のチームの一員として見てくれるようになる。」


再び沈黙が訪れ、それぞれが思いにふける時間が流れた。しかし、このフラストレーションを共有できたことで、心の中で何かが少し動いたような気がした。肩に感じていた重みがほんのわずかだけ軽くなったけれど、状況を打開したいという渇望は相変わらず消えない。


ため息をつきながら、私は車のエンジンをかけた。この果てしなく続くように感じられるパトロールを再開する準備を整えながら、先ほどの会話が完全に終わったわけではないと分かっていた。


約1時間ほど走行した後、指定された停車ポイントの一つに到着した。それは小さなカフェの近くで、この時間帯には比較的静かな場所だった。


私は張った肩を回しながら大きく伸びをした。隣では、キアランもシートに寄りかかりながら肩を揉み、深いため息をついていた。


「このままじゃ、リア、俺たちの体がシートと一体化しちまうぞ。」彼は疲れた顔で苦笑いを浮かべた。


つられて私も思わず笑みをこぼした。


「もし本当に植物になったら、どれだけ長く街を回ってるか、みんなようやく気づくかもね。」


キアランは笑い声を上げた。


「確かにな。でも俺は、こういう単調な仕事よりもっとアドレナリンが出る任務がいいな。」


窓の外を見つめながら、私は頷いた。この退屈さがじわじわと心に染み込んでくる感覚を覚え、もう少しでまた愚痴をこぼしそうになったその時だった。


洗練されたセダンが近くに停まり、中から降りてくる人影が目に入った。


薄い青色のセダンから現れたのは、目を引く二人の女性だった。


一人目は背中まで流れるアイスブルーの長髪が朝日に輝き、上品な黒のコートをまとった姿がひときわ目を引いた。誰が見ても、彼女の存在感には目を奪われるだろう。彼女は、ラグジュアリークラブ「リュクス・アンシャント」のトップホステス、カリーナだった。その魅惑的な笑顔と自然に醸し出されるカリスマ性は、誰であろうと一瞬で引き込んでしまう。


隣にはリンが立っていた。彼女も同じホステスだが、カリーナとは違い、もっと親しみやすい雰囲気を漂わせている。肩までの黒髪に金色の先端が映え、気軽な会話を楽しむ客に人気がある彼女らしいスタイルだった。


カリーナが手を振りながら明るい声で呼びかけてきた。


「やっほー、リア、キアラン!久しぶりね!」


その笑顔に安心感を覚え、私も自然と笑みを返した。


「カリーナお姉ちゃん、リンお姉ちゃん!こんな朝早くにどうしたの?仕事にはまだ早いでしょ?」

リンが持っていたショッピングバッグを掲げて見せた。


「違うよ。今日はマダムが私たち全員を朝食会に呼んだの。買い出しの途中なのよ。」

キアランが軽く笑いながら言った。


「朝食会?君たちのマダムはいつも何か面白いことを考えるよな。」


カリーナは微笑んだ。


「でしょ?マダムはイベントとなると完璧主義だから。今日は特に私たちのためだけの特別な集まりだから、全員参加が義務なの。」


興味をそそられた私は身を乗り出して尋ねた。


「それで、朝食会ってどんな感じ?みんなで料理するの?それともマダムが作るの?」


リンとカリーナは顔を見合わせ、クスクスと笑った。


「あのね、リア。私たちがキッチンに立つわけないでしょ?」リンが冗談ぽく言った。「お気に入りのシェフを雇ったのよ。今日はとことん楽しんでほしいって言われたからね。だって、もし私たちが料理したら、文字通り大惨事になるもの。」


その言葉に、みんなで一斉に笑い声をあげた。


キアランが肘で私を軽く突きながら言った。


「本当に羨ましいよ。特8課もそんな待遇があれば…なんてな。」


カリーナは肩をすくめながら笑顔を浮かべた。


「もちろん楽しいけど、時々少し大げさに感じることもあるわ。でも、気持ちが大事なんでしょ?」

私は静かに頷いて笑った。


「そうね、カリーナお姉ちゃん。せっかくだから全部楽しんで。こんなに丁寧に扱ってもらえる機会なんて、そんなに多くないんだから。」


カリーナはため息をつきながら冗談めかして言った。


「そうね、リア。文句を言う前に、マダムが準備してくれたものを存分に堪能しようかしら。どうせ来年にはもっと奇抜なイベントが待ってるに違いないもの。」


私たちは心地よい笑いに包まれた。何気ない会話の中で疲れが薄れ、代わりに穏やかな明るさが広がっていくようだった。こんなささやかなひとときが、時に心を癒す最高の方法なのだと改めて感じた。


カリーナ姉さんは私に目を向け、その温かな笑顔が一瞬曇った。


「そうだ、リア。忘れる前に聞きたかったんだけど、リヴィアは元気にしてる?リュクス・アンシャントのみんな、彼女が恋しくてたまらないの。彼女が特8課に入ってから、まるで小さな妹を失ったみたいな気分よ。」


彼女の声には、深い愛情と少しの寂しさが混じっていた。


隣に立つリン姉さんも頷きながら続けた。


「本当にそうよ。リヴィアはいつもみんなのお気に入りだったもの。時々ね、彼女がクラブに顔を出してくれたらいいなって思うの。ほんの短い時間でも、またあの笑顔を見られたら嬉しいわ。それに……新しい仕事がどれだけ危険かを考えると、どうしても心配になっちゃうのよ。」


その優しさが胸に沁みて、私は自然と微笑んだ。


「リヴィアはとても元気です。特8課でも一番の働き者で、学びも早いし、いつも真剣に任務に取り組んでいます。みんな彼女をとても誇りに思っています。」


そう言いながら、二人の目を見つめて安心させるように頷いた。


すると、キアランが笑顔を浮かべながら肩をすくめて言った。


「リアの言う通りだよ。リヴィアは本当に素晴らしい。あの勇気と献身には頭が下がるよ。だから安心してくれ。俺たちがちゃんと守ってるからさ。」


カリーナ姉さんとリン姉さんの表情がパッと明るくなり、ほっとしたように顔を見合わせた。


「そう、それなら良かった。本当に安心したわ。」


カリーナ姉さんはため息混じりに微笑んでから、遠くを見るように目を細めた。


「彼女が特別な存在だって、ずっと分かっていたのよ。でも、それでも……あの明るい笑顔を毎日見られないのは寂しいわね。」


その言葉に、リン姉さんがクスクスと笑いながら、優しくカリーナ姉さんの肩を叩いた。


「ほら、カリーナ。あんまり心配しすぎないの。リヴィアには特8課っていう新しい家族がいるのよ。ちゃんと見守ってくれてるから、大丈夫よ。」


私たちは皆、思わず笑顔になった。その瞬間、場の雰囲気がさらに温かくなり、胸の奥がほっこりとするようだった。


しばらくして、カリーナ姉さんとリン姉さんは視線を交わし合うと、私たちに向き直り、茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべた。


「それじゃ、そろそろ行かないとね。マダムに遅刻の罰をくらいたくないから。」


カリーナ姉さんはそう言いながら手を振った。


「あなたたちも退屈しないようにね!」


続けて、リン姉さんが温かい声で付け加えた。


「気をつけてね、リア、キアラン!それと、時間があったらリュクス・アンシャントに顔を出してちょうだいね。」


私たちは手を振り返しながら、二人が車に乗り込むのを見送った。ドアが閉まり、車が静かに走り出すと、街は再び静けさを取り戻した。でも、二人が残していった温もりは、まだそこに漂っているようだった。


その静寂を破ったのは、キアランの大きなため息だった。彼はお腹をさすりながら、照れくさそうに笑った。


「リア、もう腹が減りすぎて死にそうだよ。ほら、見て、あそこに良さそうなレストランがあるじゃない。パトロールに戻る前にちょっと何か食べようぜ。」


私はちらりとそのレストランを見て、少しだけ迷った。でも、腹の虫の鳴き声には逆らえなかった。結局、私は小さく笑いながら頷いた。


「分かった。ほんの短い休憩だけどね。それに……パトロールにはエネルギーが必要だもの。」

キアランは満面の笑みを浮かべ、私たちは車を降りた。そして、居心地の良さそうな小さなレストランへと足を向けた。


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レイヴンブルック警察本部の正面にあるビルの屋上。ルーサーとロリアンは影に身を潜め、街を覆う暗闇に溶け込むようにひそかに身を屈めていた。彼らが持つ簡素な監視装置は、視界を拡張し、どんな小さな動きも見逃さない状態を保っていた。


彼らの位置からは、本部内にいるセレンの姿が鮮明に見えた。彼女はデスクに座り、紙のファイルとノートパソコンの画面に集中している。その様子は、大通りに面した大きな窓越しに丸見えだった。


ルーサーは静かに深呼吸し、視線をセレンに固定したままぼそりと呟いた。


「いやだなこれ。これ、本当に安全なのか?」


その声には、どうしようもない疑念がにじみ出ていた。


「セレーンがどうにかできるのはわかってる。でも、あの本部にいる全員が味方だなんて、誰が保証するんだ?」


ロリアンは目を細め、視線を本部に向けたまま静かに同意した。


「確かにな。内部にスパイが潜んでる可能性はゼロじゃない。誰が信用できるかなんて、断言できない状況だ。」


ルーサーは壁に寄りかかり、セレーンを視界の端に収めながら小さくため息をついた。


「もし中にギャングに情報を流す奴がいたら、セレーンどころか、レイヴンブルック署全体が危険にさらされる。特8課も例外じゃない。」


一瞬、会話が途切れ、下を走る車のエンジン音がその静けさを破った。ルーサーは考え込むように黙り込み、やがて低い声で呟いた。


「問題は、あいつに連絡しようとすれば、それ自体が目立っちまうことだな。」


ロリアンはその言葉に短く頷き、ルーサーの方を見た。彼の目には何か考えが浮かんでいるようだった。


「心配するな、自然にやればいい。」


そう言うと彼は携帯を取り出し、手際よく番号を押して耳に当てた。


「俺が電話する。セレーンには普通に友達と話してるみたいに振る舞ってもらう。あいつなら問題なくやれるはずだ。」


ルーサーは思わず笑い声を漏らし、軽く肩をすくめた。


「ちゃんとそう言っとけよ。」


電話が繋がり、セレーンが軽い声で応じた。


「はい、私です――」


その前にロリアンが低いがどこか緊張した声で切り出した。


「セレーン、俺だ。」


そして、すぐに付け加えた。


「形式ばらなくていい。友達と話してるみたいに振る舞え。」


セレーンは瞬時に察し、軽い笑い声を交えながら明るい口調で返した。


「あら、どうも!ええ、私はここよ。相変わらず忙しくてね、仕事ってそういうものでしょ。」

ロリアンは周囲に気付かれないよう慎重に確認しながら続けた。


「イヤホン型の通信機をつけてくれ。それがないと君を監視するのが難しい。何気なく装着するんだ。」


セレーンは変わらぬ笑顔で自然な調子を保ちながら応じた。


「もちろんわかってるわ。でも、今はちょっと難しいのよ。山積みの仕事があるからね。」


周囲にいる数人の警官にちらりと目を向けながら、彼女は慎重に言葉を選んだ。


ロリアンは短く息を吐き、指示を簡潔にした。


「分かった。部屋を出る理由を見つけろ。怪しまれない理由で静かな場所に移動するんだ。」


セレーンは頷き、軽い調子を崩さずに返事をした。


「いいよ。それじゃ、この『電話』が邪魔にならないよう、もう少し静かな場所に移動するわね。」


そう言うと、彼女は立ち上がり、近くにいた警官たちに軽く手を振りながら部屋を出た。


部屋を出たセレーンは、ふとした瞬間に気づいた。この建物のトイレの場所を知らない。心の中で小さく舌打ちしながら、近くの警官に笑顔を向けて軽く話しかけた。


「すみません、トイレはどこにありますか?」


警官は少し驚いた様子を見せたが、すぐに簡単な説明をしてくれた。礼を言って歩き出すセレンの後ろ姿を、その警官は少しの間見送っていた。彼女は建物の奥へ向かい、案内された女性用トイレにたどり着いた。


一方、屋上ではルーサーとロリアンが彼女の動きを慎重に見守っていた。セレーンが廊下を歩く一歩一歩に注意を払い、周囲から不自然な注目を集めていないか確認している。


「問題なさそうだな。」ルーサーが小声で呟いた。


「今のところはな。」ロリアンは短く答えた。


セレーンはトイレのドアを開け、中へ足を踏み入れると、まず全ての個室を確認した。誰もいないことを確かめると、ようやく表情を引き締めた。小さく息を整えながら、ロリアンに電話で応答する。


「もうトイレの中だ。。次は?」


ロリアンの冷静な声がイヤホン越しに響く。


「通信機をセットしろ。チャンネル2に合わせるんだ。それで俺たちと繋がる。安全だし、効率的に指示を出せる。」


セレーンはポケットから小さなイヤホン型通信機を取り出し、素早く耳に装着した。チャンネルを調整し終えると、彼女はもう一度確認の返事をした。


「分かった。次は?」


その隣でルーサーが軽く咳払いをして口を挟む。


「リヴィアから預かったカメラ付きネックレスはどう?それも装着しておけ。カメラが周囲を映すから、俺たちがそっちの状況を直接確認できる。」


セレーンは言われた通り、バッグからネックレスを取り出して首にかけた。小型カメラの角度を調整しながら、再び報告した。


「セット完了。どう?」


ルーサーはモニターに目をやり、映像を確認した後、軽く頷いた。


「問題ない。ちゃんと映ってる。さて、武器は持ってるのか?」


セレーンはわずかにためらい、深く息を吐いた。


「持ってないわ。私は情報収集が目的よ。戦うつもりなんて最初からない。」


その答えに、ルーサーは肩をすくめて小さく鼻を鳴らした。


「全く無防備だな。バカだな」


彼は軽い口調ながらも、その言葉の奥には警官としての本能的な警戒心が込められていた。

「ここはレイヴンブルックだ。何が起こるか分からないって分かってるだろ?」


セレーンは視線を逸らさず、きっぱりと言い返す。


「分かってるよ。でも私は特8課のオペレーターよ。現場で戦うのが役割じゃない。通常は安全な場所で情報を提供するだけ。」


ロリアンが会話に割り込んだ。その声には彼らしい穏やかさと指揮官としての厳しさが同居していた。


「それはその通りだが、状況は変わる。ここでは何が起きてもおかしくない。油断するな、セレーン。」


セレーンは短く頷き、イヤホンの奥で聞こえる彼の言葉を胸に刻み込んだ。


セレーンは一瞬沈黙し。返答しようと口を開きかけたその瞬間、ある違和感が脳裏をかすめた。


「待って……ここに来る途中、誰かに尾行されていた気がする。」


その言葉に、ロリアンとルーサーの緊張が一気に高まる。声色には警戒心が滲み、鋭さを増していた。

「本当か?」ルーサーが短く問い詰める。


「ええ。部屋を出てからずっと、制服を着た男性が私を見ていたの。距離は取っていたけど、明らかに視線を感じた。誰なのかは分からないけど……。」


ルーサーは低く唸り声を上げ、眉間にしわを寄せた。


「俺たちもその男を見かけた。だが、この場所からじゃ確認できない。周囲には警官が多すぎるし、視界も遮られている。それにしても……そいつが友好的な理由でお前を見ているとは思えないな。」


ロリアンが言葉を引き継ぐ。その声は冷静ながらも、どこか指導的で、安心感を与える響きだった。


「セレーン、冷静に行動しろ。不審な動きは避けるんだ。もし異常を感じたら、合図を出せ。」


「了解。」


セレーンは短く答え、深呼吸して平常心を取り戻した。その後、通信機をそっと切り、メインルームに戻るべくドアに手をかけた。だが、トイレの出口に差し掛かったその瞬間、イヤホン越しにルーサーの声が再び響いた。前よりも緊張感が色濃く滲む声だった。


「セレーン。」


一拍置いて彼は続けた。「狙撃銃をセットする。万が一に備えておく。」


その一言に、セレーンは小さく頷く。ドアをゆっくりと開け、一歩外へ踏み出した。その足取りは慎重で、一歩ごとに空気が重くのしかかるようだった。それでも彼女は平静を装い、表情に余計な感情を出さないよう努めた。席に戻ると、何事もなかったかのように書類とノートパソコンに目を落とし、あたかも業務に集中しているふりをした。


その間、屋上ではルーサーとロリアンが彼女の動きを鋭く見守っていた。彼らの視線は一瞬たりとも離れることなく、あらゆる状況に即座に対応できるよう準備を整えている。


セレーン・アッシュフォードは特8課最年少のオペレーターだ。彼女の役目は、任務中の通信維持とチームの動きの監視。まだ二十歳という若さながら、その責任感は年齢をはるかに超えている。


腰まで届く明るい茶色の髪は少し乱れていることが多く、それが彼女独特の無邪気な雰囲気を際立たせていた。しかし、その柔らかな外見の裏には、どこか影を感じさせる気配があった。瞳の下に薄く浮かぶクマは、幾晩も眠れなかった日々を物語るようで、まるで消えることのない烙印のように彼女の顔に刻まれている。


155センチほどの小柄な体型ではあるが、その存在感は侮れない。柔らかなピンク色の瞳には、穏やかな中にも意志の強さが感じられ、華奢な体格の裏には予想以上の精神的なタフさが隠されている。その一方で、任務の過酷さが時折彼女の年齢以上の疲労感を漂わせることもある。


幼い頃から法執行の現場に身を置いてきた彼女は、どれほど高いストレス下でも動じることがない。その微笑みの奥には薄い影が潜み、瞳には静かだが深い疲労が映り込んでいることがあるのだ。


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レイヴンブルック市にある最高峰の医療施設、セント・アイリーン医療センターにて。


足音がセント・アイリーン医療センターの忙しない廊下に響く中、レオン、エリス、カイ、そしてリスの姿が現れた。その瞬間、患者やスタッフの動きがふと止まり、自然と彼らに目を向ける。尊敬のまなざしを送る人々の視線には、ある種の安堵さえ感じられた。


第8課──レイヴンブルック警察の中でも異彩を放つ彼らの存在は、街の安全を守るだけでなく、市民の心の支えにもなっている。時に警察全体への不信感をも払拭する象徴的な存在でもあるのだ。


待合室では、ある患者が友人に小声でつぶやいた。


「あれが特8課だよね。やっと頼れる人たちが来てくれた。」


その言葉にレオンは微かに笑みを浮かべた。隣を歩くカイは、周囲の人々に軽く頷き返しながら、彼特有の親しみやすさをにじませている。エリスは表情を崩さず鋭い視線を前に向け、一方リスはその誇らしさを隠しきれず、小さな笑みを漏らしていた。


受付に到着すると、レオンが一歩前に出て言葉を切り出した。


「特8課の者です。病院長とお話ししたい。」


受付係の若い女性は驚きと緊張が入り混じった表情を見せたが、すぐに電話を取り、病院長室へ連絡を取った。やり取りは簡潔だった。彼女は顔を上げ、温かな微笑みとともに答えた。


「病院長は保育エリアにいらっしゃいます。そちらでお待ちいただけるとのことです。」


レオンは軽く微笑み、礼を述べると仲間たちを促して歩き出した。その足取りには、待つ相手への確信と期待がにじんでいた。


道すがら、カイがふとエリスに目を向けて言った。


「いつもあそこにいるよな?」


エリスは小さく笑いながら答える。


「ああ、子どもたちの近くを離れない。もう彼の代名詞みたいなもんだ。」


リスも会話に加わった。


「少なくとも親しみやすい印象を与えるよね。他の病院長みたいに利益や手順ばかり気にするわけじゃない。」


「確かに。」レオンが一歩先を行きながら応じた。「だからこそ俺たちもここに来たんだ。彼はただの医者じゃない。」


カイは神妙な表情で頷いた。「そうだな…彼はこの街にとって特別な存在だ。」


保育エリアに近づくと、子どもたちの笑い声が耳に届き、空気が一気に和らいだ。看護師たちは穏やかな表情で子どもたちを見守り、暖かく平和な雰囲気を作り出している。その中に立つのは、病院長であるカシアン・アルブレヒト先生だった。彼の周囲には自然と子どもたちが集まり、彼の存在感がその場の中心となっていた。


カシアン先生は、白髪のバズカットが印象的な30代前半の男性だ。その端正な顔立ちに鮮やかな青い瞳が映えるが、彼のかけているダークグラスがその鋭さを程よく和らげている。180センチを超える高身長と鍛え抜かれた体格は、白衣の下でも隠し切れない。


特8課のメンバーが近づくと、カシアン先生は子どもたちに軽く声をかけ、彼らを迎えるために一歩前へ出た。彼の表情は冷静だが親しみやすく、その瞳には信頼の色が宿っている。


「やあ、やあ。誰かと思えば。」


レオンが手を差し出し、固い握手を交わした。


「またお会いできて光栄です、カシアン先生。」


カシアン先生も笑みを浮かべ、その声は柔らかくも力強い響きを持っていた。


「レオン、エリス、カイ、リス。やはり君たちが来ると思っていたよ。」


レオンは頷き、真剣な表情で言葉を続けた。


「昨夜拘束したギャングのリーダーについて、先生の意見を伺いたい。尋問中に発作を起こし、意識を失った。」


カシアン先生は眉をひそめ、興味深そうに応じた。


「なるほど。その件について、いくつかの興味深いデータがある。こちらへ。」


彼は保育エリアから少し離れた会議室へと案内した。そこは整然として静かな空間で、壁には整然と並べられた医学書や解剖学の図表が目を引く。


全員が席に着くと、カシアン先生は机の上に置かれたファイルを開き、抑揚のない落ち着いた声で説明を始めた。


「初期調査の結果、いくつか興味深くも異常な点が見つかっています。拘束されたギャングのリーダーは、非常に特殊で複雑な物質を摂取していたようです。」


その言葉に、レオンの目が鋭く細まる。


「麻薬の一種だと予想していたが、それ以上のものが含まれているということか?」


カシアン先生は短く頷いた。その表情には明らかな重みがあった。


「その通りです。ただの麻薬ではありません。我々の分析では、これは合成神経伝達物質である可能性が高い。」


「合成神経伝達物質…?」エリスが身を乗り出し、興味深そうにその言葉を繰り返した。その瞳には、プロフェッショナルとしての鋭い探求心が宿っている。


カシアン先生はその視線を受け止め、さらに詳細を語り始めた。


「はい。中央神経系を直接標的とするよう設計された物質です。そして、さらに深刻なのは、使用者の脳に異質な生体組織が直接注入されていた形跡があることです。」


「異質な生体組織?」カイが眉をひそめながら低い声で問いかける。その表情には、すでに事態の異常さを察した不安の色が滲んでいた。「具体的にはどういうことだ?」


カシアン先生は一瞬言葉を切り、全員の視線をしっかりと受け止めてから答えた。


「使用者の体外から取り出された、生体由来の組織が使用されています。これが何を意味するのか、現時点では断定できませんが、高度な遺伝子工学や生化学的技術による産物である可能性が高い。その目的が精神支配であるのか、あるいはそれ以上のものなのか…まだ全貌は掴めていません。」


部屋には緊張した沈黙が漂っていた。


リスは腕を組み、少し眉をひそめながら言葉を発した。


「つまり、ただの小物犯罪者ってわけじゃないってことね。奴ら、普通じゃあり得ない技術にアクセスしてる…そういうことか。」


レオンは彼女の推測を飲み込みつつ、低く落ち着いた声で尋ねた。


「この物質の影響範囲はどの程度だ、医師?どんな症状が出ている?」


カシアン先生は手元のカルテをめくりながら説明を始めた。


「まず第一に、患者のバイタルサインが非常に異常です。心拍数が瞬時に急上昇し、通常のアドレナリンラッシュをはるかに超える数値を記録しました。ここまでの値は、私も初めて目にしました。」

「アドレナリン以上…?」とエリスが驚きを隠せず呟いた。


カシアン先生は頷き、言葉を続けた。


「その通りです。それだけではありません。脳の活動も急激に活性化しています。特に前頭葉、意思決定や感情制御を担う部分が極端に刺激されていました。そして、神経系全体が通常の限界を超えた反応を示し、自制心を完全に失わせるほどの影響を及ぼしている可能性があります。」


カイは静かに息を吐き、リスは困惑した表情で医師の話を追った。


「それで?」とレオンが促す。「神経系の異常以外に、他に何か見つかっているのか?」


カシアン先生は慎重に頷きながら答えた。


「はい。脳組織、特に神経細胞に劣化の兆候があります。ただし、それが一瞬で進行するわけではなく、徐々に神経経路を破壊していく形です。最終的には不可逆的な脳損傷を引き起こす可能性が高いと言えます。」


医師の説明が終わると、部屋に重苦しい沈黙が訪れた。


特8課の4人はそれぞれ深刻な表情を浮かべ、聞いた内容を頭の中で噛み締めていた。そんな中、カシアン先生が慎重な口調で続けた。


「…実は、もう一つ重要なことがあります。」


部屋の空気が一瞬でさらに張り詰めた。


「我々の調査によれば、この患者、本来なら昨日の時点で死亡しているはずです。」


チーム全員が動きを止め、互いに視線を交わした。驚きと不安が混じった空気が、部屋全体を支配する。

レオンはすぐに医師を見据えた。


「先生、それはどういうことだ?なぜ“死んでいるはず”などと言う?」


カシアン先生は一瞬目を閉じてから、深く息を吸った。


「昨日、彼が経験した激しい痙攣は、この謎の薬物が発動した最初の兆候でした。一度発動すると、この物質は脳と心臓を直撃し、通常は完全な機能停止を引き起こします。そしてその痕跡を一切残さないのです。患者は発作が始まって数分以内に死亡しているはずでした。」


カイは顔をしかめ、低い声で呟いた。


「でも、俺たちがここに連れてきた時、まだ生きてたぞ。どうして生き延びたんだ、先生?」

カシアン先生はカルテを見つめ、深い皺を刻んだ眉のまま答えた。


「そこが最大の謎です。我々の追加調査では、この薬物のいくつかの成分、特に脳を標的とする要素が、なぜか減少していることがわかりました。普通なら、その成分は完全に活性化するはずですが、今回は未使用のまま、もしくは減衰した形で体内に残っている。これがなぜ起きているのか、現時点では解明できていません。」


リスは少し首を傾げ、興味深そうに尋ねた。


「もしかして、彼の体内に薬物の効果を妨げる何かがあるのかしら?」


カシアン先生は考え込むように視線を下げ、再び頷いた。


「その可能性は否定できません。彼の体内の生理的機能のどこかに、完全な活性化を阻害する要素が潜んでいるのかもしれません。あるいは、薬物そのものを無力化する何かがあるのか…。ただ、現状では患者の命が非常に危うい状況にあることは間違いありません。」


4人の特8課は一瞬視線を交わし、その目には興味と不安が交錯していた。手に入れた情報の価値は計り知れないものの、この場に長居するわけにはいかなかった。これ以上病院を巻き込めば、事態はさらに複雑化するだけだからだ。


数秒の静寂が流れた後、レオンは静かに頷いた。


「カシアン先生、情報を感謝します。あなたとチームの尽力に、深く感謝しています。」


カシアン先生は無言で頷き、研究データが詰められたファイルをレオンに手渡した。


「どうかこれが捜査に役立ちますように。追加の分析や支援が必要であれば、いつでもご連絡ください。」


レオンはファイルを受け取り、医師の目を真剣に見据えながら確認した。


「彼が意識を取り戻す可能性はありますか?」


カシアン先生は少しの間考え込んだ末に、ゆっくりと首を振った。


「正直申し上げて、可能性は非常に低いです。状態は依然として予断を許さないものです。」


その答えに、レオンは短く息を吐き、小さく頷いた。言葉には慎重に感謝を込める。


「我々の存在が、この病院に迷惑をかけていないことを祈ります。」


カシアンは穏やかに微笑み、軽く首を横に振った。


「問題ありませんよ、レオン署長。我々は誰であれ、どんな状況であれ、助けるためにここにいるのです。背景や事情で判断を変えることはありません。それが我々の誇りですから。」


レオン、エリス、カイ、そしてリスの4人は、深々と一礼してからその場を後にした。廊下を進む彼らの胸には、今得た情報の重みと、それに伴う緊張感が確かに刻まれていた。


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午後の冷たい風が吹く中、レオン、エリス、カイ、リスの4人は静かに車に向かって歩いていた。周りの景色は穏やかで何事もなかったかのように見えるが、彼らの胸の内にはまだ重くのしかかる緊張と、解決できぬ疑問が渦巻いていた。言葉なく車に乗り込むと、レオンは助手席に、カイとリスは後部座席にそれぞれ座った。


エリスがエンジンをかけると、車内に静けさが広がった。だが、その静けさの中で、アルブレヒト先生の言葉や、あの謎の薬物の正体について、彼らの思考は止まることなく巡り続けていた。


その沈黙を破ったのは、少し遠くを見つめるカイの声だった。「…なんだか、不安を感じないか?こんな薬、俺たちは一度も見たことがない。正直、気味が悪いよ。」


エリスは集中して車を走らせながら、言葉を返す。「気味が悪いのは当然よ。使用者がほぼ確実に死ぬ薬?それを使う背後には、もっと大きな目的があるはず。」


レオンは腕を組み、しばらく黙って考え込んだ。鋭く前を見つめながら、言葉を選ぶ。「どうして、使用者を死に至らせるような薬を使う必要があるんだ?その理由がないなら、何のために?」


リスが静かに口を開いた。「…使用者がその薬の致命的な効果を知らないとか?それとも、私たちが理解できない何かを約束されているのかもしれない。死というのは、ただの隠れ蓑で、本当の目的が別にある可能性も考えられるわ。」


カイは深いため息をついてから、続けた。「これまでいろんな連中と対峙してきたけど、こんなに得体の知れないものに直面したのは初めてだ。それに、カシアン先生が言っていたように、『すでに死んでいるはずの患者』が生きているなんて、どう考えてもおかしい。薬が部分的にしか効いていない…一体どういうことだ?」


レオンはシートに背を預けながら、腕を組んで考えを巡らせていた。「もしこれがただの始まりに過ぎないとしたら、もっと大きな問題が待っているかもしれない。一種類の薬だけを使っているわけじゃない、これがもっと大規模な計画の一部である可能性もある。」


エリスが静かに口を開く。「本部に戻れば、さらに詳しく調査できるかもしれないわ。」


レオンは頷きながら答えた。「そうだな。だがまず、今日の任務を片付けてからだ。これも、大きなパズルの一部に過ぎない。この薬が我々が疑っているネットワークと関連しているなら、追跡するべき経路はもう見えている。」


リスが少し疑問を投げかけた。「じゃあ、整備工場の後は本部に戻るってこと?」


レオンは短く頷き、続けて言った。「ああ、全てを整理する必要がある。それに、患者の医療記録を詳しく調べて、他の手がかりを探すつもりだ。」


再び車内に沈黙が訪れた。しかしその沈黙は、ただの空白ではなかった。各エージェントはそれぞれ心の中で、散らばったパズルのピースを必死に組み合わせようとしていた。


窓の外をぼんやりと眺めていたカイが、ぽつりと呟いた。「俺たち、もしかしたら大きな何かに触れているのかもしれないな…。」


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カッシアン・アルブレヒトは、背中で手を組み、穏やかな微笑みを浮かべながら静かにオフィスを後にした。その姿からは一見、穏やかで落ち着いた印象を受けるが、彼の瞳の奥には洞察力に満ちた鋭い光が宿っていた。特8課とレオンの反応を思い出しながら、彼は薄く笑みを浮かべる。


「静かな一日にはならなさそうだな」と、独り言のように呟きつつも、その声にはどこか楽しみの色が混じっていた。経験に裏打ちされた直感が、今日という日が単なる日常ではないと告げていたのだ。


保育センターに足を踏み入れると、子どもたちの笑い声と元気な声が彼を出迎えた。その音は、まるで病院という場の重圧を薄めるように明るく響いている。カッシアンは目を細めて笑いながら、慣れ親しんだこの陽気な騒がしさに耳を傾けた。アイデンとエヴリン・ライリー──若くして小児科医としての才能を発揮する双子──が、子どもたちの中心で楽しそうにゲームを主導している。その熱意と活気は瞬く間に子どもたちへと伝染し、部屋全体を明るく照らしていた。


「みんな楽しそうだな。」


カッシアンは温かな笑みを浮かべながら声をかけた。


振り返ったアイデンは、乱れた青髪をかき上げながらニッと笑った。「もちろん、先生!ここには僕らの小さなファンがたくさんいますから!」と、手を大きく振って子どもたちをさらに煽るような仕草を見せる。


エヴリンは、ピンクの髪を軽く揺らしながら小さく笑った。「ええ、子どもたちは私たちと過ごす時間を本当に楽しんでいるみたいです。」


カッシアンは頷き、子どもたちの無邪気で幸せそうな表情に目を向けた。しかし、その穏やかな時間の背後で彼の心は別の現実に向いていた。病院の保育所を一歩出れば、そこにはすぐに責任と義務が待ち構えている。


そのとき、柔らかな足音が近づいてきた。現れたのは彼の秘書であり、個人的な看護師でもあるアリア・ヴェレナだった。長いピンクの髪が照明に輝き、知的な眼差しが印象的だ。


「アルブレヒト先生、先ほど特8課の支援をしていただき、お疲れ様でした。」


彼女は礼儀正しい微笑みを浮かべてそう言った。


「何、気にするな。アリア。それより、他のメンバーはどうしている?」


カッシアンは軽く片眉を上げ、チームの様子を尋ねる。


アリアは手に持ったタブレットに目を落としながら、正確な口調で答えた。「ヴィヴィアン・ハートは患者の診察をしながら回復状況を監視しています。ジャスパー・エイデンとノーラン・グレイは、北側の住宅地からの緊急連絡に対応しています。」


「二人とも?通常は一人で十分だろうに。」


カッシアンの声にはわずかな疑問が込められていた。


アリアは軽く頷いた。「場所と連絡をしてきた人の身元が不審だったので、慎重を期したほうがいいと判断しました。」


「うむ、それが正しいだろう。安全第一だ。」


カッシアンは満足そうに頷き、再び問いを投げた。「それで、エララ・エステルはどこだ?」


「新しい患者を担当しています。評価に入る前にすべての医療記録を更新中です。」


アリアの返答は事務的ながらも正確だった。


「そしてセオは?」


カッシアンは微笑みながら尋ねた。彼の口調には、答えをすでに知っているような余裕が漂っている。

アリアは少し困ったような表情を見せたが、すぐに言った。「先生、きっとお分かりでしょう…いつもの場所です。」


「そうだな、相変わらずだな。」


カッシアンは声を立てて笑った。その笑いは一瞬、保育所に溢れる無邪気な音と溶け合った。


病院の屋上、セオ・アラリックは昼休みを心ゆくまで楽しんでいた。折りたたみ椅子に深く腰掛け、サングラスをかけたまま、片手には冷えたソーダ、もう片方には軽いおやつを持ち、涼しい午後の風を味わっている。「これぞ、休憩ってもんだな」と、彼は満足げに呟いた。


だが、その穏やかなひとときは、あっという間に破られた。手首の特別なブレスレットが静かに鳴り響き、ランプが点滅を始める。病院内の他のチームメンバーのブレスレットも、同じ音を立て、同様のサインを送ってきた。セオは深いため息をつきながら、ブレスレットを見つめ、ボタンを押した。


保育所では、カシアンのブレスレットも反応し、緊急呼び出しの合図となった。「どこからの連絡だ?」と、アリアに尋ねる。


アリアは瞬時にタブレットをチェックした。「市の北西部、工業地区に向かう道路近くです。」


「うむ。」カシアンの声には、すでに緊急性が込められていた。「アイデン、エヴリン、この任務を頼む。医療車両を使って、準備を整えておいて。」


双子は頷き、いつもの明るさを消して、真剣な表情へと変わった。子どもたちに別れを告げ、泣きながら「行かないで」と懇願される中、少しの慰めの言葉を残して、カシアンに従った。


彼らの出発を見送った後、カシアンは子どもたちに引き寄せられるようにして遊びに参加した。微笑みながら、その喜びに身を任せたが、心の中ではすでに、もっと大きな目的へと意識を向けていた。


「誰かを、いつでも助けるために。」彼は静かに、でも確信を込めて呟いた。この言葉は、ただのスローガンではなく、彼の医師としての信念そのものであり、誓いだった。緊急呼び出しのシステムは、すべての命が救われる価値があるという彼の確固たる信念から生まれた。カシアンにとって、医師の使命とは、何の偏見もなく奉仕し、希望をもたらすこと。それこそが、絶望の淵にいる人々に希望を与える、医師の本分だ。


数分後、彼は子どもたちに優しく微笑みかけ、傍らで待機しているアリアに目を向けた。「アリア、これが私たちがここにいる理由だ。私たちは、私たちを必要としている人々のためにここにいる。誰であろうと、どんな時でも。医師は...命を守る者、絶え間ない守護者だ。」


「それが、アリア。」彼は確信を込めて言った。「医師であることの本質だ。」

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