記憶のかたち

Lugh

 左足が上がった。両腕が滑らかに伸びる。向けられたグローブは紺色だった。そういえば、楓も紺色のグローブを使っていた。手入れが行き届いていて、汚れなどなかった。昌也が使っていた黒いグローブよりも艶があって鮮やかで、日が暮れた夕闇の中でも、目立っていたのものだ。紺色は優雅な色だ、といまでも思う。自然と目で追ってしまう。


 モニターに映し出された投手の右手が頭の後ろに隠れた。昌也は持っているだけだったバットのグリップを力強く握る。短いが重たく感じる。タイミングを計るように軽く足を上げた。心臓の鼓動が耳元で聞こえた。試合だろうが、練習だろうが、ただの映像だろうが、投手の球を打つときに高揚するのは、いまでも変わらないようだ。

 投手の腕が振り下ろされた。同時に左上の小窓からボールが投げ出される。腰を捻る。肩、腕、手、そして、バットが動く。軽いものが柔らかく触れる。そんな感触が手にあった。心地よい金属音が響いた。芯を捉えた打球はライト方向に鋭く飛んでいった。


「上手いじゃん」


 楓がまばらに拍手する。

 昌也は楓に目をやった。酒を呑んでいるせいもあるだろう。はしゃいでいる。昔の楓だったら、ライト方向に飛んだことに対して、何か言っているはずだ。褒められるのは嬉しいはずなのに、素直に喜ぶことができない。


「次の球が来るよ」


 早く前を向いて、と指を差す。


「調子が狂うな」


 独り言をつぶやいて、バットを構えた。楓に対して言ってやりたかった。はしゃいでいる姿を見たら、言えなくなってしまった。飲み込むようにして、音を立てて息を吸った。

 しばらくのあいだ、ボールを打つことだけに集中した。

 

 二十球ほど打って、ボールは出なくなった。バットを片付けて、打席から出る。


「長いこと野球はやってないって言っていたのに。あんまり衰えてないね」


 楓に預けていた上着を受け取る。


「いやあ。どうだろう。所詮、百キロだし」


「百キロでもさ。ブランクがあって打てるんだから、すごいと思う」


「島崎さんも打つ?」


 楓に打席に入るよう、昌也は手で促した。


「わたしはやめとく。打てる気がしない。酔ってる気がするし」


「酔ってる自覚はあるのに、冷静だな。大人になったってことかな」


「美人になったでしょ?」


 すぐには答えない。わざとらしく、上から下まで見つめた。


「そういうところは、子どもっぽいままだな」


「美人になったって言え」


 楓が肩を叩く。音が響いた。いい音が鳴った、と楓は喜んだ。笑う度に頭が動き、長い髪の毛が揺れる。色白の肌は紅潮している。昔は日に焼けて一年中、肌が黒かった。髪も短くて活発な印象だった。いまの楓は、見た目は大人しいという言葉がぴったりだ。久しぶりに再会して、一目では楓だとわからなかった。


 街並みだって数年も経てば、がらりと変わってしまう。人間はもっと変わってしまう。

 駅に降り立って最初に思ったのは、建物が変わった、ということだった。何が建っていたのかは思い出せないが、変わったことだけはわかる。記憶を辿ってみても、はっきりとした景色は思い浮かばない。見覚えはあるけど、知らない街。少しだけ緊張する。年を取ったのだ、としみじみ思う。新しいものに触れて、好奇心よりも戸惑いが勝るのだから。


「もう一軒、呑もうよ」


 バッティングセンターを後にして、駅に向かって歩いていた。一歩先を進んでいた楓が振り返った。体を傾けて、覗き込むようにして見てくる。目と目が合う。記憶の中の楓とは一致しない。別人なのではないか、と思ってしまう。


「美人になったな」


「いまさら言うの?」


 楓は驚いたような声を出した。


「いま、思った」


「おっそ」


 楓がよろめく。咄嗟に手を伸ばして支える。


「大丈夫か? やっぱり、帰ったほうがいいじゃないか?」


「へいき、へいき。酔いも冷めてきたから」


「そういうなら」


 空が赤くなりはじめていた。すぐに日が暮れるだろう。


 駅前に着いたら、呑むのか帰るのか、もう一度尋ねようと考えた。


 ゆっくりと歩きはじめた楓の様子を窺いながら、昌也も歩く。

 このまま行けば、小学校の前を通ることになりそうだ。楓と呑む前に、一度目にしている。もともと、小学校を訪れるために地元に帰ってきたのだ。二週間前に取り壊された校舎。すでに姿かたちはなくとも、見ておかねばならない、と思ったのだった。


 

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