EP13 それでもまえに
あぁ、煩い。けど、身体が動かない。倒れている。起き上がれない。天井の時計は…………短針が「1」の文字を過ぎた頃だった。天井からは縄が垂れている。ああ、失敗したんだ。千切れて落ちてしまったんだ。それも早々に。本当に、何をやっても上手くいかなかった。
少しずつ自由を取り戻す。固定電話の音と、未だに止まない雷雨が耳に障る。あぁ、はいはい。今、出ますよ。そう思い、受話器を手に取るが、しかし、スローペースで動いたせいで、その頃には既に電話が切れていた。発信元は病院から。まぁ、ご飯をちゃんと食べてるのかどうかを心配しているのだろう、と自分に言い聞かせた。一個前の発信元も見てみる。これも病院からだった。その一個前も病院だった。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。一個前、病院。間隔は一分、一時間以上前からずっと鳴っていた。一覧にして見ると、夥しい数の通知が来ていた。急いで折り返しの電話を掛ける。
「はい、氷川町総合病院です」
「こんにちは、折り返しの電話で掛けました。夏木たえの家族です」
「夏木たえ様のご家族様です、と————ぁあ、はい。夏木たえ様についてですが————」
次の言葉を待つ。時間が長く感じる。アインシュタインに言わせれば、時間は重力で歪むらしい。重力が強いほど時間が遅くなる————ならば、この時間の遅行は僕の重力の為だ。僕の頭の、心の重力だ。振動が、空気の震えが来る。耳に轟く。
「今朝」
今朝になんだ。何があったんだ。
「夏木たえ様の」
夏木たえ様の、ってフルネームはいいんだ。早く、早く。
「容態が」
「急変されました」
僕は走った。
玄関を飛び出て、跳ねるようにして靴を履き、雷雨に靡く向日葵に目もくれず走った。雨で濡れた地面に何度も転がった。もしかしたら、きつねさんもこんな感じだったかもしれない。あぁ、クソ。全てがクソのようだった。本当に今日という日はどこまでも散々だった。そして今も、だ。やっぱり、神なんて居ない。ハナから居なかったんだ。でなければこんなことにならない。なるはずがないんだ、と、そう強く思った。すると、雷が近くに落ちた。山の、御社殿の方だった。確か、あそこは辺りで一番高い所にあった。一本、一際高く、目立った木がその姿を消す。落雷にやられたのだろう。辺りを見渡す。自分の近くは何処迄も続く向日葵畑で、ここ周辺だと僕が一番高くて、あれ? ってことは、もしかして、次は僕? ————そう思った矢先の破裂音、落雷、また近くなっていた。
フラフラの体をガードレールに委ねる。道路の端で、足を伸ばし、空を見上げる。地面が音を立て始め、それが段々と近づいてきて、それで、突然ピカッと光って終わる。神罰か何かだろうか。雷に打たれて死ぬだなんて。雷の光に照らされて、それで、それで、それで————
—————あれ? 死なない?
「なぁにやってるんだい。少年」
光、その出先を見ると、車のハイビームだった。ドアガラスから女性が顔を出す。見知った顔だった。
「透子さん」
「こんにちは。こんばんは、かもしれないけどね。まぁ、いっか。取り敢えず乗りな。話はそれからで」
「でも僕……」
「いーのいーの、座席なんてすぐ汚れるものだから。ささ、早く早く」
僕は出来るだけすぐに車に乗った。そして、透子さんの出発の合図と共に車は走りだした。
「透子さん……」
「どうしてここに、って言いそうな顔だね。分かるよ。ルームミラーから丸見えさ。まぁ、おおよそ君と同じだろう。君も、電話が来たんだろう? 容態が悪くなったってさ。それで病院に行ったんだよ。するとね、看護師さんが騒ぐんだ。『お孫さんと連絡がつかない』ってね。だから試しに行ってみたら、君の姿が見えないときた。もしかしたら道中かなって思って車を走らせたら、何と路端に人がいるではありませんか、ってね」
「その人が僕だったと」
「正解! ————で、あそこで何してたの? 台風が去るようにお祈り? それとも神罰でもお望み?」
「いや……そんなこと……」
「照れなくていーんだよ? お姉さん、分かっちゃうから。んまぁ、見つかって良かった。これで黒焦げになってたら、母さんに会う顔が無いからね。いやぁ、ほんとに良かった良かった」
————本当に調子が狂う。透子さんといると、いつものように思考が出来ない。自分の考えていることが見透かされて————心が読まれているような。そんな風に考えていると透子さんが笑った。やっぱり、本当にそうなのだろうか?
「あ、そうだ。少年、自殺は感心出来ないぞ」
「————どうして、それを」
「ん、どうしてかって、君、天井に縄を縛ったままだっただろう。椅子も倒したままだし。お姉さん、感心出来ないなぁ。ダメだぞ? 少年がそんなことするなんて」
「「何故」」
「って言いたい顔をしているね」
台詞を同時に言われた。思考を読まれていた。透子さんは僕の顔を見ると、少し口元を緩ませて、話を続けた。
「だから、お姉さんの前で隠し事は出来ないの。で、だ。少年、君は何故自殺は良くないのか知りたいんだったよね。まぁ、簡単な話だ。別れってものが悲しいからだ」
別れが悲しい、と透子さんは言った。それはきつねさんの考えだった。みんな、同じことを言う。でも、僕は
「確かに少年、君にとって別れは最良の転機だったかもしれない。実際そうだろう。君は親の死を以て、親や学友との間にあった縁を切ることが出来た————クソみたいな縁をね。当時の君なら、自分の考えは疑いようも無いくらいに正しいものだったのかもしれない。でも、今はどうかな?」
「今? それはおばあちゃんのこと?」
「あー違う。そうじゃない。この際、それは忘れてしまおう。そもそも、君が母さんのことを好きになるはずがないと思っているしね。寧ろ、恨むべきだ。どうして自分の娘を、夏木香澄をあんな怪物に育ててしまったのか、ってね。同時に、私のことも恨むべきだ。なんで姉を止めなかったのか、ってね。まぁ、香澄姉は私が学生の時に家出しちゃってから音信不通だったんだけどね」
そう言うと、透子さんは乾いた声で笑った。場を和ませようとしたが、笑える状況でなかったのだろう。
「でも、君は私達のことを恨もうとしなかった。何故か。それは君が『優しい』からだ。君は優しいから、人の死を悼むことが出来る。気づいていないかもしれないが、君の心の奥に、それは眠っている。香澄姉が人生で唯一した善行とでも言おうか。まぁ、そんなところだ」
「「でも僕は」」
「そう言いたいだろう。確かにそうかもしれない。君は、親が死んで得たこの生活から、今までの人生からは想像出来ない程の幸福を得たかもしれない。それで思ったはずだ。『自分は人の死から幸福を得ている』とね。それは香澄姉が悪い。あの人が与えるべきものを与えなかったのが悪い。君がそれで病む必要はないし、人の死を悲しむべきか喜ぶべきかで悩み、それで夜を明かす必要もない。そもそも、悩んでいる時点であるんだろう。君にも、人の死を、別れを悲しむ心が」
そうだ、確かにそうだった。それで僕は毎日毎晩苦しんだのだ。
「君はその心を行動に起こした。現に、君はおばあちゃんの為に走った。これが何よりの証拠だ。それに、君はきつねさんを家で追い返した時、心が酷く傷んだのだろう。大丈夫だ。それが正しい人の営みだ。君は一人じゃない」
そっか、そうだったんだ。僕は一人じゃなかったんだ。そう思うと、どこか安心してきて、そして急に眠気が襲ってきた。
「おや、お昼寝かな? 後三十分もしない内に着くが————まぁ、いい。ゆっくり休むべきだ。おやすみ、少年」
微睡の中で聞く透子さんのその声から、何処か慈愛のようなものを感じた。それはまるで、母が子に与えるようなもので————
ルームミラーで僕の姿を確認した透子さんは少し笑った。僕は寝ていて、どうして笑ったのかは分からないが、きっと僕の寝相が面白かったのだろう。
何処迄も続くように見えた向日葵畑も、トンネルの向こうには存在しなかった。そこから少し走らせると、遠景に病院の看板が見えてきた。アスファルトの両端は、最初は自然の営みだったが、次第に人の手が入り始め、気が付けば街になっていた。
「到着だ。起きたまえ、少年」
僕が目を覚ますと、既に病院の駐車場にいた。
「少年、早く行くぞ。負ぶってもいいんだぞ。遠慮なく言ってくれ」
僕は「じゃぁ」とだけ言って、透子さんに負ぶって貰うことにした。駐車場から中に入り、受付で病室を教えてもらい、ゆっくりと目的地へ向かう。祖母が急変して、本当は急がないといけないのに、牛歩で向かう。
「…………軽いね」
「あはは…………これじゃあ誰が病人か分からないですね」
「…………」
いつもは飄々とした透子さんが、今は違って見えた————————僕の他に何か、後悔か何かを背負って、それで苦しんでいるような————————そんな感じがした。
「…………ありがとうございます」
「なに、感謝されることじゃない。私はただ、するべきだったことをしているだけだよ」
「それでも…………ですよ」
「はは…………君は優しいね」
頭上の蛍光灯を、一本一本過ぎて、それが定期的に点滅して、何処までも続く向日葵畑を思い出す。燦燦とした太陽の下で咲く向日葵は、いつの日か枯れてしまうだろう。一切が消え失せた荒野に、僕達は何を見出すのだろう。
「着いたよ。さぁ」
僕は透子さんの背中から降り、両の足で歩き始めた。ガラガラと扉が開く。そこには、繭のように沢山の糸に絡まった祖母が居た。部屋は白いのに、外も中も暗くて、とにかく不気味だった。蜘蛛か何かの巣に入ってしまったみたいで、思わず足がすくんだ。
透子さんの手を握り、前へ進む。
「母さん、来たよ」
そう言って、透子さんは少し笑った。そこに一切の悪意はなく、まるで他者を安心させるような、そんな笑顔だった。
「…………透……子、それに……将暉……くん…………」
その声は酷く掠れていて、いつもの厳格ではっきりとした声は何処にも無かった。
「透子」
「なぁに? 母さん」
「謝りたいことがある————お前の、二人の姉だ。私は、私が未熟で愚かであった故、二人の娘を失った。そして、夫を廃人にし、死にゆく様をただ眺めていることしか出来なかった。…………口ではどうとでも言える。私は今日まで二人の娘と、夫の心の弱さを指摘して、馬鹿にしてきた。しかし、その実、本当に心が弱かったのは私だった。笑いたければ笑え。これが私だ。現実の直視を避けようと罪を犯した愚者だ。…………透子、すまなかった。私はこんな母で、こんな妻だ。透子の手本にはなれない。私は…………」
「はい、その話はそこで御終い。懺悔はしっかり向こうでしてきてね」
パチッと手を叩き、透子さんが突然話を終わらせた。思わず透子さんの方を見る。
「後悔も懺悔も、いくらしても現実は何一つ変わらない————人は時間を戻せないからね。大切なのはどう生き、どう死ぬかだ。勿論、自分のふりを直すのは大切なことだ。でも、引きずってるようじゃ何時迄も変われない。変われるはずがないんだ。…………今、こう思っている筈だ。老い先短い自分が変わっても意味は無いと。どうせ死ぬのだから、と。それは違う。人は常に『よく生きる』ことを目指すべきだ。そうして辿り着く、最期の一瞬という極上の雫を、人は追い求めるべきだ。…………母さん、母さんは何がしたい? この最期の一瞬に何を望む? ————私達は、それに応えたい」
それを聞くと、祖母はゆっくりと目を開き、そして口を開いた。
「…………最期……に……会いたい…………『きつねさん』……に…………」
呼吸音が響く。命懸けの呼吸、生にしがみつく呼吸をする。その必死さが、こっちまで伝わってきて、鳥肌を震撼させた。
「そっか…………そうなんだね……………………分かった。将暉君、行こう」
そう言って僕達は病室を出た。扉を閉めると、透子さんは僕に言った。
「じゃあ、君は先に車に戻っていて。お姉さんもすぐに行くからさ」
僕はそれに軽い返事をして、すぐに駐車場に向かった。これで祖母と会う最後かもしれない。どこか確信めいた考えを胸に、僕は前へ前へ進んだ。
「ねぇ、たえ」
「どうしたんだい?」
「……なんか、会わない内にすごい変わったなぁって」
「当然さ。あれから何年経ったと思っているのさ」
「あはは、そうだね————ねぇ、本当に行っちゃうの?」
「あぁ、何だかそんな気がするよ。年の功ってやつかね」
「そっか……」
「なぁに、悲しむことはない。また会える。あれから何十年経って、私達はまた会えた。一度あったんだ。次もあるさ。それまで、私の孫をよろしく頼むよ」
「うん、分かった」
その瞬間、心電図がけたたましく鳴った。終わりの鐘が鳴る。遠くの空の雲は裂け、そこから光が差し込んでいた。
「あぁ、終わりかね。どれだけ未練や後悔を無くそうとしても、結局のところ、何かしらが残ってしまう。私もそうだ」
「でも————でしょ?」
「ああ、そうだね。最期にあなたに、きつねさんに会えた。『よく生きる』ことが出来た。『ありがとう』…それしか言う言葉がみつからない…」
「そっか……良かった…………」
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