EP9 わかってるのに
「もし、自分に耐えがたい程の責苦を与えてくる人が死んだら、それは喜んでいいのかな」
自分が何を言ったか、自分ではよく分かっていなかった。ただ、座りながら、下を向きつつ、それを言った。きつねさんは黙り込んでしまった。今、どんな顔をしているのだろうか。顔を見れば分かることではあるが、何故かそれをすることが憚られた。
「私は……」
きつねさんが口を開く。呼吸の音が伽藍堂とした空間に広がる。言葉の続きを切望する。
「私は、どんな理由があろうと、それを肯定することは出来ない」
————分かっていた。
「だって、別れは悲しいものだから、そうやって喜ぶことは出来ない」
————分かっていたはずだ。
「もし、それを喜ぶなら」
————なのに、
「きっと、その人は」
————どうして、
「 」
あぁ、ね。そっか
情報の破棄を試みたが失敗してしまった。思考の放棄を試みたが失敗してしまった。忘れようとしても出来なくて、頭の中で反芻して、強く思考を支配する。同時に、自分の中で起こる身勝手な失望を感じる。……やっぱり僕は————
「どうしたの? 将暉、顔色が悪そうだよ」
気がつけばきつねさんは僕の前にいた。心配そうな面持ちで僕のことを覗き込む。僕は、大丈夫だよ、とだけ言った。しかし、僕の中ではマイナスの感情と、それに付帯する過去が燻っていた。僕は少数派である。声の小さい少数派である。僕のこの思考は、過去は、大多数の為に圧殺されてしまうだろう。
その時、僕は思った。思ってしまった。本当に死ぬべきは、僕だったんじゃないかって。何度も何度も思っては心の奥に押し殺してきた思考が甦ってきた。
————簡単な話だ。トロッコ問題みたいなもんだ。僕の為に三人を殺すか、三人の為に僕を殺すか。僕自身がかわいいならノータイムで前者を選ぶべきだ。しかし、かのベンサム率いる現代社会の前では、マイノリティーの僕の声は届かないだろう。……いや、そもそも届くべきではないだろう。
眼前に絞首台が浮かぶ。勿論、現実のそれではない。でも、それが救いだとしたら、手が伸びる。切望の手。それが荒縄を掴む。想像は虚空に映し出されたはずだったが、僕は実像を掴んだ。————それはきつねさんの腕だった。きつねさんは驚いたのか、少し身体をビクッとさせた。
「どうしたの? 熱でもあるの?」
そう言ってきつねさんは手を僕の額に当ててきた。
「熱は無さそうだけど……うーん……」
僕の原因不明の症状に悩んでいるようだった。そりゃそうだ。僕の病気は見ることも触ることも出来ないのだから。
ふと外に気を向けた。灰色の天球が空を成す。雨はそこまで来ていた。
「雨が降る前に帰ろうと思うよ。ばいばい、きつねさん。また来週、ね」
「あ、また、来週」
僕は外に出て、石段を下り始めた。途中で雨が降ってきた。しとしとと頭と肩を濡らし始めた。でも、それ以上に、僕の袖と顔を濡らしてしまった。雨は段々と強まった。泣いているのは空だろうか————それは半分正解だった。
家に着く頃には本降りになっていた。あっ、と思い出して、洗濯物を急いで取り込む。軒下に干してあったのでそこまで濡れてはなかったが、まだ乾いてもいなかった。
部屋に空間を作り出し、そこに洗濯物を干した。しばらくして、家の電話が鳴った。固定電話だった。
「将暉くん、おばあちゃんはこの雨のせいで家に帰れそうにないです。雨が止んだら帰りますが、それまでは病院に泊まりたいと思います」
「分かったよ、おばあちゃん」
「ありがとうね。ご飯は家にあるものを好きに食べてください。後、今回の台風は強くて長いらしいので外には出ないでくださいね」
「うん、分かった」
そう言うと、僕達は簡単に別れの挨拶をして電話を切った。
急に空間が広く感じられた。元から生活感が少ない場所であったが、更に少ないように感じられた。
時計を見ると、時刻は午後一時を指していた。少し遅いが昼ご飯を食べようと思い、台所を物色する。生鮮食品は少なめ、ヤクルトは多め、酒はもっと多め、冷凍庫には冷凍した肉や魚、野菜類と、その他に未開封のあずきバーがあった。もしかしたら、僕が来ると聞いて買ったのかもしれない。おばあちゃんは甘い物を食べる人ではないからだ。でも、僕も甘い物を食べる人ではない。そうなると、なんだかあずきバーが不憫に思えてきた。戸棚には大量の米と乾麺、乾燥スープや調味料があった。奥の方からは賞味期限が何年も前に切れたものがあった。もしかしたら、宅配便を変更していないのかもしれない。この家にもう一人がいた時から、ずっと。
昼ご飯はラーメンに決めた。違う味の乾麺を一袋ずつ。パッケージが今のと違うことは気にしなかった。
鍋二つ、コンロ二つ、同時にラーメンを作る。非常に豪勢な昼ご飯だと思った。普段なら絶対やらないだろう。まして、前の家で、なんて。でも今日は、それでもやってみたかった。禁止されたことをしたかった。それはカリギュラ効果の為でなく、単に今日あったことの為だろうと思った。
程なくしてラーメンができる。見た目は二人分、その実一人分。これくらいなら余裕で食べられるだろう。そう思っていた。いただきます、と手を合わせたその時までは。
————結果から言うと、僕は残してしまった。自分は思っていたより小食だったようだ。まぁ、前の家で日頃から食べてなかったのもあり、当然と言えば当然であったのだが。食べ残しを処理して、テレビを付ける。いつものように、テレビはやっていた。バラエティー番組はいつも通りの面白さを提供している、が、今の僕にそれは必要無かった。すっかり空いてしまった心の穴を埋めるものはどこにも無かった。そもそも、穴は既に空いていたのだ。気付かないだけで、そこにあったのだ。
どうしようもない気持ちのまま、布団に転げ落ちるように入る。ここに来る前からというもの、いい環境を与えられてはいるものの、寝れない日々が続いていた。もしかしたら、あの廊下の方が寝やすかったのではないかとも思い始めてきた。
気が付けば、もう翌日だった。朝の八時だった。昨日と変わらず、やはり雨が降っている。空を何処までも覆う黒と白のグラデーションは気分を憂鬱にさせた。
分かってはいたが、家は一人だった。いつもなら祖母の朝ご飯を作る音で起きるのだが、今日はそれが無かったからか、こんなにも寝坊をしてしまった。
今日くらいは朝ご飯を抜いてしまおうか。そう思い、本を開く。タイトルは『異国見聞録』という、往年の作家である霧乃玲さんの作品だ。オムニバス形式で話が進み、実際にある国、ありそうな国、ある訳がない国などの様々な国を描いている。最近のお気に入りのシリーズだ。今は「撃たれても死なない国」という話を読んでいる。
「撃たれても死なない国」となると、つまり、その国民が銃で撃たれても大丈夫な体になっていることを意味する。すると、国民が何か争いを起こした時に銃の引き金を引くのが簡単になってしまう。それにつけこんだ敵対国家が、かねてより研究していた薬剤を散布し、国民の体を軟弱にして、銃で死ぬようにする。するとパニックになった国民は終わりの無い殺人を始める。きっかけは一発の弾丸で、そこから恐怖が伝播して、自分の為に人を殺すようになる。人間というものは、こうもあっけないものだと教えてくれる良い話だった。他にもたくさんの話があった。どれもどこか現実味があって、人間臭くて、面白い話ばかりだった。
台風が消えて、空が晴れたら、この本について語ろう。別にこの話でなくとも、他にも色々と話はある。きっと楽しいはずだ。その談笑の様子を想像する。相手の顔が浮かぶ。きつねさんだった。しかし、様子が変だった。黒い影を落とした顔が、次第に明らかになる。その顔は酷く歪んでいて、僕を軽蔑しているようで————あぁ、そうだった。きつねさんは————僕のことを————————————
雷が落ちる。それまで、雨が強くなっていることに気付いていなかった。しっかり戸締りして、雨に備える。昼ご飯はカップ麺を開けて、それを啜った。可もなく不可もなく、普通の味がしたはずだ。空腹を埋めるのには、それで良かった。
気が付けば時計の針はぐるぐる回って、少しずつ更けてきた。外は依然としてモノトーンで、その明度をだんだんと落としているようだった。しかし、それでも風雨や雷鳴は止まることを知らなかった。
昼から読んでいた本が終わりを迎えようとした時、突然インターホンが鳴った。来客だった。誰だろうと思いつつ、玄関に向かい、ドアを開けようとする。しかし、その手が止まる。こんな時間に、それもこんな雷雨の中来るのは誰だろうか、と思ってしまった。
意を決して扉を開ける。そこには————
「将暉、やっと見つけた」
「きつね……さん……」
酷く濡れたきつねさんが、そこに立っていた。
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