EP8 心のケロイド
家の壁に架けられたカレンダーは、今から十日後に大きな赤丸がつけられていた。もっとも、僕にはその日は関係ない話だが、家族にとっては大事な日だった。そう、僕の弟である達也の誕生日だった。
ここ最近、達也は毎日のように誕生日プレゼントをせがんでいる。昨日までは変身ベルトが欲しいと言っていたが、今日はゲームソフトが欲しいと言い出した。それを聞いた親が「変身ベルトじゃなくていいの?」と優しく聞き返すと、達也は「どっちもがいいの!」と駄々をこねた。
側から見れば、仲の良い家族に見えたかもしれない。しかし、僕と家族の間には大きな溝があった。
それを説明する為には、まず僕の現在の家族の成り立ちを説明する必要がある。
櫻井家は四人家族である。父の信也、母の香澄、弟の達也、そして僕、将暉の四人からなる。
僕が産まれた頃の櫻井家はまだ櫻井姓では無かった。簡単に言うと、物心が付いた頃には既に父親は居なかった。母が一人、それが家族の全てだった。後に盗み聞きした内容ではあるが、どうやら母はある男と一夜を共にし、そこで子供が出来てしまったらしい。最初の一年くらいは一緒にいたものの、これからの子育てへの不安か、それとも愛の賞味期限切れかは分からないが、母の前から消えてしまったのだという。残されたのは書きかけの三行半と僕という二十年ローンだけだった。
それからというもの、僕は母からの責苦に、理由も宛先も分からない謝罪を送ることしかできなかった。
小学校に入る頃には、生活保護だけの生活では限界が見え始めたからか、近所の工場で働き始めたのだった。始めの頃は、僕が家に帰ると早い晩酌をしていたものだったが、僕が小学校の中学年くらいになると、家にいないことが多々あった。帰りが翌日になることも珍しくなかった。
気がつけば、家族が増えていた。まず父が増えた。ある日突然母が父を家に連れて来たのだ。父は僕を見ると小さく舌打ちをし、それを聞いた母は僕を家から追い出したのだった。僕が玄関の扉にもたれかかると、中からは母の嬌声と、水の音が響いてきた。古い集合住宅の薄い壁は太鼓の面のように音を伝えた。外は雪が降っていた。白濁から程遠い純白の雪だった。そして、とても、ただ寒かった。
程なくして弟が出来た。名は達也。父の信也から一文字取って名付けられたそうだ。この頃になると、もう母は直接僕に暴力を振るうことはなくなった。同時に、無関心となった。両親の関心は達也だけに向けられ、僕とは事務的なやり取りを無言でするだけとなった。何か必要な物があれば、親から定期的にくすねた金を使った。親にはバレなかった。本当はバレていたかもしれないが、今となってはどうでもよかった。
閑話休題、もうすぐ達也の誕生日である。我が家の経済状況はきっと良いものではないよだろうが、実子を溺愛する父なら、借金をしてまでも誕生日プレゼントの一つや二つは用意するだろうと思っていた。だが、なかなか決まらないようで両親は困っているようだった。そこで母は話を変えた。バースデーケーキの話をしよう、と。これに関してはすぐに決まった。少し小ぶりのショートケーキを独り占めするらしい。すると父はこう言った。
「おいお前、誕生日当日、パーティー前までにケーキを買って来なさい」
一瞬、僕は理解が出来なかった。その呼びかけの対象が僕であることが分からなかった。初めてだった。父が僕を呼んだのは。それは同時に最後でもあった。僕は「は、はい」とだけ返答した。
パーティーで食べるものが決まると、父が達也に「遅いからもう寝なさい」と言い、布団を引き、狭いリビングに三人で川の字になって寝た。僕は廊下の無機質な板の上で寝た。少し経ち、達也が寝たからか、今度は両親が盛り始めた。まだ子供が欲しいのか、それとも愛が欲しいだけかどうかは分からなかったが、獣のようにお互いがお互いを求めていることだけは分かった。それに満足すると父はそのまま寝て、母は一度トイレに行った。そして、道中の廊下の真ん中で寝ている僕の腹を蹴り、端に寄せた。僕はそれで一度起きて、いつものことであるのを確認してからもう一度寝た。
そして達也の誕生日の日、その午後四時、僕はケーキを買いに家を出た。ポケットに三千円とちょっとを詰め込み、家から少し遠いケーキ屋に向かった。ケーキ屋に着くと、そこは少し涼しくて、疲れていた僕はそこで少し休みたくなったが、その気持ちを心の奥に詰めてレジに並んだ。
「誕生日ケーキを一つ。そのケーキでお願いします。あ、蝋燭を下さい。四本です。————誕生日プレート? 名前ですか? 達也です。ひらがなで『たつや』と書いてください。お願いします」
注文してから少し待つとケーキの準備が出来た。値段は三千円弱、小さなケーキであったが、トッピングをし過ぎたからか、高くついてしまった。自分のお金では無いが、自分のお金が減った気がして嫌な気持ちになった。
「どうせ貰えるのに。どうして僕から」
こんなことを言っても変わらないのに、それでも僕は吐いて捨てた。店を出る頃には日が暮れ始め、夕焼けは民家で敷いた地平線の向こうに隠れてしまった。
ケーキ屋から家までは決して短い距離ではない。復路を慎重に、ケーキを一切崩すことなく、その上で早く帰ろうとした。街の往来は僕を置いて過ぎ去っていった。誰もが僕と同じ進行方向へ走ってゆく。ふと耳に入った談笑、過ぎ去りし少年達の声
「早くしねぇとチンカされちゃう! 急げって!」
「あぁ、待ってくれよぉ〜」
チンカ? もしかして「鎮火」だろうか? ならどこで火事が起こっているんだろう。そう思い見上げた空には、一本の黒煙がどこまでも登っていた。
僕はそれに無関心を貫いて、代わりにケーキに全集中を向けて歩いた。僕が家に近づくにつれて、人の数はだんだんと増えていった。ある場所を境に、人は壁を作っていた。「すみません、通ります」「この先に家があるんです」そう言って人の壁を抜けて、そしてケーキを守りながら進んだ。何処迄も続くように思われた人の壁も、僕の家の前辺りでやっと途切れた。障害は去ったのだ————KEEP OUTの文字の前で。
「ガサッ」って音が鳴った。あぁ、ケーキを落としてしまった。ここまで頑張って運んできたのに、パーティー会場の目の前で落としてしまった。そもそも、僕はパーティーに間に合わなかった。もしこんなにも煌びやかで、大勢の人が祝福してくれるものだったなら、どうして遅れてしまったのか、僕は強い自責の念に駆られるだろう。
「はは」
僕は何故か笑った。別に人生で一度も笑ったことがないと言えば嘘になるが、ただ、家族のことで笑ったのは初めてだった。
「ぁはは」
前を見ずに前に出る。簡易的なテープは僕の前で何の効力も持たなかった。足元のケーキを無意識に蹴り飛ばし、僕は前に進んだ。
「あははは」
どうて笑うのかって? 笑うしかないから笑うんだ。堪えられないから笑うんだ。感情の堤防が崩壊して、ボットのように声を発する熱異常を見せる。
「あはは
————は」
家が燃えていた。
燃えている。火柱を立てて。
取り返しのつかない程に燃えている。
蹴り飛ばしたケーキの箱からは、達也へのプレートが顔を覗かせていた。
【おたんじょうびおめでとう たつや くん】
少し変形したそれに、もう価値は無かった。原因がどうであれ、もうそうなってしまったのだ。
「君、危ないから下がりなさい」
「僕の、僕の家が燃えているんです」
「君————もしかしてこの集合住宅の住人かい?」
「————あ……はいそうです。中に家族が、家族が三人居ます————あ、そこです」
「本当か!? おい、早く救助しろ。まだ助かるかもしれん。さ、君はこっちに」
気が付けば、辺りはシートに覆われていた。飛び火を防ぐ為か、目隠しの為かは分からなかった。野次馬は後退せざるをえないようだったが、それでも人の壁を搔き分けて来る人がいた。見知った顔だった。そいつは家の前に来て、家を眺めてへたり込んだ。
「あぁ、ああぁあああぁっ」
遠野秋————僕の同級生だ。どうしてここに居るのだろうか。どうして叫ぶのだろうか。当事者でない人が、何を言うのだろうか。
「おい、道を開けろ」
燃え盛る家から複数人の声がする。救助隊が救出したのだろうか。僕達は少し下がって道を開けた。後ろからは救急車の音が聞えてきた。まだまだ野次馬が多いようで、救急車が家の前まで到着できていないようだった。
中から救助隊が何かを抱えて出てくる。全ての注目はその手の中に集められた。その物体に見覚えがあったからだ。
「たつ……や……」
生きているのかどうか不明だった。既に動かなくなっていた。続けて大きい塊が二つ運ばれてきた。
「ぁあ、ぁあぁぁぁ」
秋はその場にへたり込み、もう動く気力は無いようだった。救急車に乗せられ、去っていく。その背中をただ見ることしか出来なかった。
程なくして警察がやってきた。僕と秋はそれぞれ車に乗せられ、重要参考人として取り調べとして警察のお世話になることとなった。
ホテルの部屋は快適だった。自分用の布団があるだけで幸せだったのだが、そもそも自分に害を与える存在が居ないことが、僕に最上級の幸福を与えた。ここに居れば、誰かが小言を言う心配はない。ベッドの上で本を読もうと、誰も咎めることはない。しかし、この自由というものは、親を含めた家族の死の上に成り立っているものであった。この現実が常に心のどこかに蔓延っていて、いつまでも忘れることが出来なかった。頭上に掲げた本を持つ手が、その力を失い、本を自由落下させる。顔を本が覆い、ぼやけた活字が眼前に広がる。両手で本を拾おうかと思ったけど、やっぱりその気になれなくて、両腕を左右に伸ばした。そこから意味のない妄想をすること十数分、一本の電話が掛かってきた。
「将暉君、元気かな。まぁ、元気ならいいんだ」
「は、はぁ、僕は元気ですが」
「ん、そうか、ならいいんだ。これからだか、一日置き位で取り調べを行う予定だ。詳しい日程が決まったら、電話をするからちゃんと出ること。いいね?」
「はい、わかりました」
「それと、今後の話だが————君もいつまでもホテルにいるわけにもいかないからな。君はちゃんとした家に住むことになる。で、だ。君に選択肢を与えようと思う。君の親族、探してみた所、母方の祖母と叔母がいるそうだね。取り調べが一段落したら、どっちかのお世話になるのもいい。それか、施設に入るかだ。ま、結論はゆっくりでいい。決まったら、次会った時でも、電話をしてくれてもいい。それじゃぁな。ちゃんと飯食えよ」
「あ、はい。失礼します」
電話が切れた音が響く。受話器を戻し、そのままベッドに倒れ込んだ。祖母と叔母…………はっきり言って、両方関わりがなかった。というか、叔母の存在に至っては、そもそも知らなかった。二人はどんな人なんだろうか。母のような人だったら、それは嫌だな、と思った。施設には入りたくなかった。施設に入ることは、それ則ち、集団生活をするということである。集団生活はもう懲り懲りであった。だが、祖母と叔母に迷惑を掛けるのもなぁ、と思うとどうしようもなかった。
考えるのが億劫になったので、もう考えるのを止めた。思考を放棄した人の行き先は————夢の世界だった。
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