タクシーが速度を落としている。

 ここからさき、道は狭い。


にしては、元気ですね。容貌にも野性味が加わって、むしろ健康そうに見えますよ」


 薫子は見透かすように、元旦那を見下ろした。


「ホームレスはって脅されたからな。京都の冬は厳しいんだよ」


 空き缶拾いからコンビニめぐりまで、白ヒゲからひととおりの手ほどきは受けた。

 ──その生活を、俺は意外に気に入ってもいた。


 ホームレスにも縄張りらしきものはあるし、それなりのローカルルールも踏まえて行動する必要はあるが、

 ここ、重要である。

 屋根があって食事が出てきて清潔な服が着られても、施設に入れられることを極端にきらう連中がいる。そこには自由がないからだ。


 その点、屋根はなくても自由はある、こっちのほうがずっといい──そう考える気持ちは、わからないでもない。

 持ち前のネットスキルは、電波の届かない範囲に暮らしているホームレスにとって無用の長物だったが、携帯を持たない生活というのも精神衛生上わるくなかった。


 なにげに感慨にふけるアキの傍ら、薫子は懐から取り出した携帯電話から、短いチャットを送る。

 タクシーはさらに速度を落とす。


 このあたりは高級住宅街で、基本的には密集した京町家が並んでいる。

 昔ながらのたたずまい、がらりの格子に虫籠窓、煙出し屋根に玄関奥までつづく通り土間。やがて見えてくる、豪族を思わせるどっしりとした土塀の切れたさき、シイの葉陰に覆われた木札には「渡会家勝手口」と書かれていた。


 すぐ隣には、薫子のヴィーガン生活を支える、小さい農園。

 この地域で、隣接した土地に家庭菜園レベルとはいえ「畑」を持っているのは、「伝統的なお金持ち」を意味する。世田谷に基地をもつ芸能人もいるが、それ以上だろう。


 ──にしても、表門につけないというのは、客扱いされていないということか、あるいは。

 アキがよけいなことを考えている間に、タクシーは路肩へ寄り、停車する。


「すこし待っていてくださいな」


 薫子の要求に、快くうなずくタクシー運転手。

 ──すぐに俺を追い出すから待っていてくれ、という意味だろうか。まさか。


 深く考える間もなく、勝手口の戸が開いた。

 裏口の鍵がむこうから開けられ、見慣れた中年のおばさんが、子どもを抱いて姿を現す。さっきのメッセージは彼女に宛てたものだろう。

 薫子につづいてタクシーを降りたアキは、


「よう、元気そうだな、仁木にきさん」


 軽く右手を挙げてやった。

 彼女は彼を見ると、一瞬だけ眉根を寄せてから、如才ない笑顔をつくって会釈した。


さんも、お元気そうで」


 彼女の胸には一歳児の「タッくん」が、静かに寝息をたてている。


「それじゃ仁木さん、お願いね」


 薫子のことばに、丁寧に頭を下げる仁木さん。以後、アキのほうを一瞥もしない。


「かしこまりました。それでは失礼いたします」


 そのまま待たせておいたタクシーに乗り込み、子どもを連れて去っていく。

 薫子の生活拠点は、基本的にはアキも以前住んでいた四条烏丸のタワーマンションにある。子どもを連れてしばしば下鴨の実家を訪れはするものの、東京に仕事の多い薫子が長く京都駅から離れることはない。


 仁木さんも東山界隈に住んでいるから、息子のためにも、こんな北山くんだりまで居を移す考えはないという。

 こちらにはこちらで、お手伝いさんがいる。療法士や病院関係とのネットワークも密だから、自分がいなくてもだいじょうぶなのだ、と薫子は言った。


 まあ同じ市内で、道なりでも一〇キロと離れてはいないのだから、さして問題にもなるまいが。

 療法士──そうだ、彼女は父親を亡くしたばかりだが、まだこの家には病気の母親がいるはずだった。


 いくつもの思い出を想起しながら、アキは勝手知ったる勝手口から、ひさびさに渡会家へと足を踏み入れる。

 さあ、本番開始だ。


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