柱は伝統的文様の紗綾さや形が彫り込まれ、中央のLEDとなぜか噛み合う格式高い折上おりあげ格天井ごうてんじょう

 屋久杉か薩摩杉と思われる無節の一枚板戸、構造材を兼ねたケヤキの大きな差鴨居など、高級な材料を惜しげもなく使っていることは素人目にもわかる。


「腕のいい宮大工だな」


「京の自慢です」


 伝統的建築をたしなむ地としては、京都奈良はこのうえない。

 そのときアキは、ぎくりとして足を止めた。

 常夜灯の薄明かりに照らされて、白い影が左右に揺れている。


「お義母かあさん?」


 彼女を「母」と呼んでいい立場にはなかったが、思わず口走った。

 薫子の母親に会うのは、ほんとうにひさしぶりのような気がした。


 日本人としてはやや大柄で、時代が許せば娘に代わってモデルをやったかもしれない。頭髪は半ばまで白くなっていて、染めるのはいやがるらしいが、きっちりと撫でつけて後れ毛ひとつ乱れていない。薄灰色の京ちぢみに、細い博多をきちんと締めている。

 一見すれば毅然たる老婦人だが、その精神の内面には破綻の波が寄せては返す、ひどく頼りない波間の小舟のような状態であることを、アキは知っている。


「きょうは調子よさそうだな。ってのは、ほんとらしいや」


「アーさんも死んでみますか?」


 さして表情も変えず、母に寄り添う薫子。この治にいて乱を忘れぬ気風は、おそらく母親譲りだろう。

 かつて手術室で切った張ったの修羅場にいた女医は、天才数学者の妻になり、ほどなく若年性アルツハイマーに斃れた。


 ──事実、最初に会ったときは、かなり、という印象だった。

 つぎには、完全に健常者の良識ある態度で、若いころの話をしてくれた。

 三度めは、ベッドに縛りつけられていた。二、三時間もすれば正気にもどる、いや、そもそも正気ではないが、縛る必要はなくなるということだった。


 けっして虐待されていたわけではない。むしろ、だれより大切にされていた。

 若年性だから、本来はとうの昔に人間ではなくなっていてもおかしくはないが、惜しげもなく使い倒された新薬の効果か、致命的な破綻は避けていると聞いている。


「なにをしているの、お母さん」


 薫子の問いに、見えない箒で床を履いていた母親は、軽く首をかしげた。


「掃除よ、見ればわかるでしょ」


「床がなくなってしまうわよ、お母さん」


 埃でできた床を永遠に掃きつづける世界に、彼女は住んでいる。

 ふと視線を感じたアキは、めずらしい、と思った。いつもは空気のように、彼の存在をスルーするのが彼女のスタイルだったからだ。


「参ったか、スケキヨ」


「だれがスケキヨだ、クソババア!」


 思わず叫ぶアキに、唇に人差し指を当てる薫子。

 ──俺としたことが、痴呆老人の妄言に過剰反応するとは恥ずかしい。

 アキは自重をこめて、あらためて考える。


 たしかに邸宅は「犬神家」のような重文指定の旧家だ。

 そこにまぎれこんだスケキヨ……ふりかえってみれば、アキは最初からこの家の遺産を狙ってはいりこんだ犯罪者、とみられていたのかもしれない。


 だが、この家の雰囲気だってじゅうぶんに壊れている。

 こんなところ、まともな人間が暮らせる家じゃない。

 アキは複雑な思いを込めて、渡会家そのものにかけられた呪いに八つ当たりする。


 ──そうだ、この家とかかわってから、やることなすことうまくいかなくなった。

 俺ほどの学歴と才能があれば、仕事なんて引く手はあまたのはずだ。それがどうして、あんな浮浪者の身まで堕ちるようなハメになった?

 決まっている。この家の連中が手をまわして、俺の就職も生活も、なにもかもを奪ったんだ。


 内心、ルーティンワークの恨み言を吐き散らす。

 見透かしたように、薫子が言った。


「また被害妄想をたくましくしているのですか、アーさん。仕事は、選ばなければいくらでもあったはずですよ」


「うるさい。俺には本来いるべき場所があるんだ。その場所を、おまえらが奪ったんだ」


「研究所の職員に手を出すことが、あなたのやるべきことだったんですね。ええ、わかります」


「うるせえ! あれは……罠だったんだ。俺はなにも……殺しちゃねえんだよ!」


 浮気と殺人の差異について、どう訴えてやろうか考え込んでいるうちに、彼をスケキヨ呼ばわりしたことなどすっかり忘れているだろう老人は、永遠の幸福な時間に漂うように歩き去っていく。


「寝るわ、薫子」


 正気っぽい声が聞こえたが、どうだか知れない。薫子がついて、そのまま母親を寝室へと連れて行く。

 アキは茫洋としてその場に立ち尽くし、待たされている間、女婿として訪ったこの家の記憶を、見えない箒で総ざらいしてみた。

 床はすり減るが、脳細胞は使ったほうが強くなる


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