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月曜日、当然のように出勤してこなかった当該社員。
複数の場所から確実なDNAが採取され、数時間後には鑑定の結果が出た。
両親のもとに送りつけられたのは、たしかに彼女の心臓、そのものだった。
警察の動きは早かった。
月曜の朝、まだ鑑定結果が出ていない段階で、出勤中のアキの身柄が確保された。失踪人捜索の参考人という名目で、なかば強制的に連れ込まれた警察署。
数十分後、科捜研からの連絡が届いた瞬間、取調室のまえの廊下で会社に電話していたアキは、緊急逮捕された。
「冗談じゃないぞ。なんで逮捕されたと思う? キーホルダーにナイフがついてたからだってよ。ふざけんな!」
これを世に、別件逮捕という。
まだ殺人や死体損壊で逮捕できる段階ではないが、泳がせておけば証拠隠滅のおそれが強い、と判断されたということだ。
「ともかく猟奇的な事件ですからね。府警さんがあわてるのも、よくわかります」
薫子は落ち着いた口調で言った。
そういやこの女、どこぞの科捜研にいてもおかしくないいい女だな、と思った。
京都府警科学捜査研究所の法医学担当研究員が大活躍したかどうかはともかく、ただちに捜査本部が立ち上がった。
そのまま殺人に切り替えるハラだったのだろうが、やってないんだからしょうがない──と否認をつづけたアキの身柄が、検察に送致されたのは三日目だ。
この間、自分がどんなヤバイことに巻き込まれているか、徐々に認識していった。
留置場を出ると、手錠と腰縄で他の容疑者とつながれ、数珠つなぎでバスのような護送車へ。あちこちの警察署に寄り、容疑者を集めていく。
──俺は特等席だった。
当時を思い出しながら、アキは苦々しく吐き捨てる。
「まあ、めずらしい体験ができたってことは、認めるよ」
見るもの聞くもの、はじめて物語。
知的好奇心は若干刺激されたが、喜んでいられる立場ではなかった。
観葉植物と本棚が目立つこぎれいなオフィス、デスクのむこうには検察官と検察事務官。淡々とした口調で事情聴取をする検察官と、パソコンのキーボードをたたく事務官の姿を、なぜかよくおぼえている。
あんなチャチな十徳ナイフで銃刀法違反(模造刀剣類と刃物は、業務その他正当な理由による場合を除いては「携帯」することを禁じる)は無理だと、ヘタレの検事も判断したらしい、ともかく軽犯罪法を認めて釈放された。
起訴猶予なので前科はつかないが、前歴はついた。留置場に二晩、いい経験をさせてもらったが、二度とごめんだ。
「めずらしい事件ですからね。しかたありませんよ」
「ふざけやがって、冤罪もいいとこだ」
「殺人罪にも死体損壊罪にも問われなかったのだから、冤罪ではないでしょう」
ひどく淡々とした薫子の口調に合わせるように、アキの脳裏、忌まわしい記憶の扉がつぎつぎ開かれていく。
心臓をなくして生きていられる人間はいないわけで、死体損壊は当初から殺人事件の方向で進められた。
問題はその捜査範囲が、当初からあまりにも絞り込まれていたことだ。
──要するにあいつらは、俺が犯人であると疑いもなく決めつけてきやがった。
「おまえらが変なことばかり言うからだぞ」
「ほんとのことしか言っていませんが。日ごろの行ないがわるいから、そうなるのですよ」
おまえがやったんだろう、白状しろ、お母さんが泣いてるぞ、という昭和のカツ丼刑事みたいな取り調べを受けたが、もちろんやってないことは白状しようもない。
「薄情なやつだ、会いにもこなかったよな」
「会えませんからね」
警察の取り調べは、逮捕後四八時間以内に終了させる、という決まりがある。
この間の面会は弁護士のみで、家族とも会えない。
容疑否認のまま送致、検察官の取り調べを受けたが、前述のとおり検事は勾留判断を避けた。三流検事がイモ引きやがって、と取り調べに当たった刑事が背後で吐き捨てている声が、まだ耳に残っている。
が、釈放されてすなおに自由の身を喜んでいい身分ではなかった。単に「泳がせられた」だけだったことが、すぐにあきらかになる。
証拠隠滅のリスクはあるが、逆に証拠を隠滅する現場を押さえればいい、という判断に切り替わっただけなのだ。
べったりと刑事が張りついて、これ見よがしに尾行された。
職場や立ち寄り先のすべてに、威圧的な捜査の手が及んだ。
こんなことなら、あと二週間でも三週間でも勾留されたほうがマシだった、とすら思えるほど。
──やつらの捜査は、殺された女の子とは直接関係のない、俺の些末な悪行までことごとく暴き立てた!
「チッ」
顎に当てた親指の上、人差し指の爪を噛んで、きょう何度目かの舌打ちをする。
アキの放つ愚痴は、たいていこのあたりに収斂されることになっている。
ちょっとした役得は業務上横領だったし、人間関係の潤滑油はセクハラ(暴行)とパワハラ(傷害)だった。家庭内での言動、態度までが俺の人格否定につながった。
警察は殺人事件を解決するためではなく、殺人事件を犯しかねない男を京都が誇る偉人の家から遠ざけることが目的であるかのように、その役割を果たした──。
薫子の実家と会社は、アキの擁護にまわるどころか、離婚と解雇のために弁護士を雇った。
そうして彼は人間失格の烙印を押され、仕事と家族を失った。
いや、未来さえ……すべてを失ったのだ──。
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