京都のサイバーセキュリティ会社ザイオンは、いまや世界中で利用されている個人認証技術PHC、商品名「クリプトン」を開発した、世界に冠たる多国籍企業だ。

 たった20年で、売上高2兆円(日本法人のみ)、社員数1万人の大所帯にまで膨れ上がった。

 それもこれも、すべては「PHC」という世界特許のおかげである。


 同テクノロジーの基礎理論を考案したのが、天才数学者・渡会博士だ。京都大学数理解析研究所に所属し、ザイオンの社外取締役でもあった。

 そして、薫子の父親。当然、娘婿であるアキの将来も安泰──のはずだった。


「女癖がわるいですからね、アーさんは。まさか、とは」


「やってねえって! いや、やったけど、やったのはやることだけで、んだよ!」


 タクシーの運転手の視線が気になったが、薫子は気にするふうもなく、


「わたしに言われても困ります。まあ釈放されているわけですし、証拠は不十分なのでしょうね」


「おまえな! 俺が人殺しをするような人間に見えるか?」


「その気はなくても、結果が異なることは、よくあります」


「……おまえを殺したくなってきたよ」


 アキは嘆息し、あらぶる呼吸を曇り窓に向けなおした。

 薫子は涼しい顔で、反対の車窓を眺めている。


 ──アキが配属されていたのは技術部門だったが、他の部門、おもに特許関係の調整をする秘書課コーディネーターの女子社員が、ある日、行方不明になった。

 彼女と肉体関係があったか? そんなことは個人情報であって、むやみに言うべきことでもない、とアキは性格俳優のように不貞腐れたが、本職が調べればすぐにわかる程度にはだった。


 金曜日の夕方、最後の業務を引き継ぐ記録が残されているので、行方不明になったのはその日の夕方以降、ということになる。

 りっぱなおとななので、土曜日の時点で連絡がつかなくても、だれもさほど不思議には思わなかった。せいぜい彼女が「帰省しない」ことを、母親が不平たらたらで周囲にこぼす程度だった。


 日曜日にも連絡がつかないことで、やや騒ぎが大きくなったが、まだ警察沙汰という雰囲気ではなかった。

 同日、午後に彼女の便が、混乱のトリガーを引いた。


 娘の勤務先の伝票が貼られていて、株主に対する特別なお礼、という体裁の送達物はたまにある。

 が、便というは、あまりない。


 ……それも内臓、どうやら心臓らしい。豚か、羊か、ともかくかなり大きな動物のようだ。

 荷物を受け取った母親が、なにやら混乱したことばを並べ立てはじめ、心配した父親が警察を呼んだ。

 ほどなく、それが、と確認された。

 日曜の深夜、事態は急速に転がりだした。


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