薫子は、やや語調を柔らかくして、


「意外にこぎれいになさっているので、すこし驚きました」


 くんくんと軽く鼻を鳴らす。


「ちょうどコインシャワー浴びてきたんだよ」


 まさかきょう、こんなことになる予感があったわけではない。

 ただなんとなく、気持ちわるい外人の体臭がまとわりついている気がして、シャワーを浴びた。


 コインシャワーは、コインランドリーに併設されている設備で、服といっしょに身体も洗ったらどうですか、とばかり百円玉で五分間お湯を出してくれる装置だ。

 ホームレスなので、毎日いい湯だな、などという生活はできない。


 ひとによるが、アキは週一でシャワーを浴びることにしている。現業の多い者はもっと頻繁だし、きらいな者はまったく浴びない。

 饐えた臭いはデフォルトだが、慣れれば気にならないものだ。


「おひげは?」


 隠された自慢のケツアゴを見つめる薫子を無視するように、アキは車窓に目を移した。

 鴨川の流れがやや増している。白ヒゲたちが流されないことを祈ろう。


 焦点を変えると、ガラスにヒゲ面の自分。

 さほど濃い体質ではないから、アゴの細部はともかく輪郭ははっきりしている。皮膚が弱いのでカミソリは苦手だ。たまにバリカンで当たってもらえば、食事の邪魔になることもない。


 毎日つるつるに剃ってネクタイ締めて七三分けとか、思えばバカげた因習だった。

 古来、ヒトは体毛と毛皮で体温を保ち、狩猟採集するために進化したのだ。

 京都が誇る名高いホームレスが死んだのも、無理解な市の職員が無理やり毛を切ったせいで体温が保てなくなって凍死した、という都市伝説もあるくらいだ。


河原町かわらまちのジュリーをリスペクトしてんだよ」


 その話を聞いたのは、文字どおり河原に腰を落ち着けてからだった。

 京都には、そういう通り名で知られたホームレスがいたらしい。1984年に亡くなっているが、2000年以降にネットを中心に話題になって伝説化した。


「アーさんのことですから、どうせこれをネタに、なにか企んでいたのでしょうね」


「ひとを打算の塊みたいに言うな。東京で知り合いに会いたくないだけだ」


 わざわざ京都でホームレスをやっていたことに、当てこすりの気持ちがなかったとは言わない。東京にもどったからといって、あの巨大都市の無数にある公園で、そうそう知り合いに会うこともないだろう。

 そもそもホームレスになったこと自体、もっぱら不幸な偶然だった。

 ただところ、おどろくほどことも事実だ。心のどこかに、自由を求める気持ちが予想以上に強かったんだと、はじめて気づいた。


 若いころにホームレスをやっていた、という旧友もいる。

 中学生でホームレスっておもしろすぎるだろ、本でも書くつもりかよ、と突っ込んでやったが不敵に笑っていた。いまは霞が関で、文学を著しているらしい。

 この経験を活かし、地域福祉の体験報告と行政提案をもって厚労省に拾ってもらう計画、か。なるほどおもしろい……。


「自由でいいですね、アーさんは」


「皮肉はやめろ、薫子。おまえはしてりゃいいんだよ」


 イントネーションで、相手への態度が測れる。現状、薫子に京都の香りはいっさい感じられない。むしろ鼻白んでいるのはアキのほうだ。


「ご希望どすか?」


「……やめろ、サブイボがたつ」


「みなさんお喜びいただけますが」


 標準語にもどし、わるびれもせず、しれっと言い放つ。

 京都にかぎらず、観光地ではよくあることだ。


 高速道路周辺で給油したとき、店員が「毎度おおきに」と言ってくれるのを聞いて、ああ関西へ来たんだな、と感慨をおぼえるも、ちょっと観光地を離れて、そのへんのスタンドで入れたら、ふつうに「ありがとうございました」だった。

 なのだ。


「あざといんだよ」


「アーさんも最初は、とても喜んでくれたじゃないですか。そもそも祇園のお茶屋はん以外で、こてこての京言葉を話している女の子のほうが、逆に不気味ですよ」


 

 ちょっと考えればわかりそうなものでしょう、と肩をすくめる薫子。


 お大尽のするようなお茶屋遊びは、男ならホームレスならずとも喜ぶ。お互いに理解したうえで楽しむ地方色、それが「ビジネスはんなり」だ。

 さきほどまでは、京都弁のイントネーションを出すほうが自分の印象にとって都合がいい、という計算の成り立つ場面だった。

 いまはバリバリの標準語……ということは、もっとシビアなビジネスが待っている。


「やだね、そういうお約束」


「そもそも身近に京言葉を話すひと、あまりいませんでしたから。これでも学んだんですよ、地方から祇園に就職したたちと同じにね」


 たしかに薫子は京都で多くの時間を過ごしたが、周囲を埋める親族の多くが東京圏に生まれ育っている。旧家出身である父親さえ、京都で生まれはしたが、その後長く過ごしたのはイギリスだった。


「浅いんだよ、薫子は。俺なんか、京都を底辺から知ってるぞ」


「たった半年、なんちゃってホームレスを体験したくらいで、えらそうですね」


「9か月だ、あほんだら!」


 薫子と離婚、失職してから一年近くたつ。

 しばらく就活に力を入れたが、なぜか、どこの会社からも色よい返事はなかった。

 脳裏によぎる、苦々しい記憶。


 アキほどの経歴なら、瞬時につぎの職が決まってよいはずだったにもかかわらず、現実は──あなたほどの経歴なら、わが社よりももっと実力を発揮できる会社がたくさんあるでしょう、そちらの企業でより有意義なご活躍を、という「お祈りメール」でフォルダがあふれた。


 最初は当てつけに京都の大企業にエントリーしたが、すぐにあきらめて東京の会社に宗旨を替えた。しかし結果は変わらなかった。

 プライム市場からジャスダック、マザーズまで敷居を下げたにもかかわらず。むしろ新興企業のほうが、アキほどのエンジニアを敬遠した。

 ……意味がわからない。


「おまえのオヤジが手をまわしたんだ、そうだろう。俺が就職できないように」


「あいかわらず被害妄想がすごいですね、アーさんは。たぶん、あなたご自身のやったことを、どこの企業の方々もご存じだったからじゃないですか?」


 的確かもしれない指摘に、アキは苦虫を噛み潰して不貞ふてた。

 どんなわるい噂を流されたかは知っている。


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