第36話 もっと抱きしめて

「ーーここまでが、田所君に会うまでの私の話」


 夏目さんはそう言い終えて、俺達の間に再び静寂が訪れた。


 時間も遅いので、途中から移動しながら彼女の話を聞いていた。


 俺は隣で目を伏せた彼女を見る。

 話している最中の彼女の手は、膝の上で少し、震えているように見えた。

 

「……話してくれて、ありがとうございます」

「……え?」

「人に悩みを打ち明けるのも、俺は凄く勇気がいる事だと思うから」

「……」


 俺に話すまでに、彼女の中で色んな葛藤があったと思う。

 それでも、こうして俺に話してくれたのは、素直に嬉しかった。


「夏目さんが、凄く星野さんを大切にしてるんだなって、伝わってきました」

「……そんな事ないよ。私は、……彼女に酷い事をしたから」

「お、俺はそうは思ってないです」

「……え?」


 彼女の話を聞きながら、ずっと思っていたことだ。


「な、夏目さんは、何も悪くないと、……思います」


 いつだって彼女は、相手の事をただ思いやっていただけだった。


 どうするのが正解かなんて、ぼっちの俺には分からないけど。

 少なくとも、夏目さんが自分を責める必要なんてどこにもないと思った。


 ただ、それを彼女に伝えても、


「……ありがとう、田所君」


 きっと責任感の強い彼女の心には、響かないだろうとも思った。


 どうすれば良いのか、彼女に掛ける言葉も見つからないまま、別れる駅まで到着してしまう。


「……今日は、ありがとう」

「……こ、こちらこそ、ありがとうございました」

「……じゃあ、……待たね」

「……え、ええ」


 踵を返す夏目さんの悲しそうな背中を見送る。


 直観的に思った。


 ここで彼女と別れてはいけないと。


 「……え?」


 気付けば俺は、彼女の手を掴んでいた。


 振り返って、僅かに目を見開いて、俺を見つめる夏目さん。


「……田所君? どうしたの?」

「……」


 大した考えの整理も出来ていない。

 彼女を引き留めてしまった自分の行動に俺自身が動揺していた。


 それでも、


「な、夏目さん、大丈夫です!」

「……え?」

「きっと、また元通りになれるから」

「……」


 気持ちが溢れてしまって、具体的な理由を考えるよりも先に、そんな言葉が口から飛び出してしまっていた。


「……」


 俺を見つめる夏目さん。


 反対に俺は、咄嗟に彼女から視線を逸らした。


 我ながら無責任だと思ってしまったから。

 まだ何も状況が分かっていない内からこんな事を言うなんて。


「……す、すいま__」


 彼女に謝ろうとして、


「せ……ん」


 夏目さんが勢いよく俺に抱き着いてきた。


 その腕に込められた力はこれまでで一番強く、それだけ彼女の気持ちの大きさを表しているようだった。


 俺が驚いていると、彼女がぼそっと弱々しく呟いた。


「……駄目だよ。私に優しくしたら」

「……え?」

「気持ちが溢れてきて、田所君を、……いっぱい感じたくなっちゃうから」

「……」

「……本当は、こんな事しちゃ、……いけないのに」


 そう言って俺の体に顔をうずめる夏目さん。


 今の俺達の関係性をどう表現すれば良いのかは分からない。

 ただ、大切な人の絆に亀裂を入れた自分が、こうして誰かと一緒にいるのは許されないと、彼女はそう考えているのかも知れない。


 それでも、俺は戸惑いながらも、そっと彼女の背中に手を回した。

 彼女を安心させたかったのかも知れないし、俺は味方だと伝えたかったのかもしれない。


 しばらくして、彼女がか細く囁いてきた。


「ねえ、もっと、……抱きしめて」

「……え?」

「もっと、……強くして欲しい」


 彼女を見ると、頬をほんのりと赤らめ、瞳を潤ませて目を伏せていた。


 言われるままに、彼女を傷つけないように、慎重に腕に力を込めていく。


「……駄目、……緩めないで、もっと」


 彼女の柔らかい体の温もりと、ささやかな息遣いが、徐々に俺の体に染みわたってくる。


「……んっ……もっと」

「……」


 強く、彼女の存在を体に感じた。


 静寂と温もりが俺達を包む中、


「ごめんね、……今日、だけだから」


 そんな夏目さんの言葉が切なく響いた。


 向き合わなければいけない現実を前に、俺達は一瞬の逃避に身を委ねていた。

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