僕と彼女は偽物の恋と恋をする

第1話

　清々しい青空が広がる四月五日。久留米大学前駅から徒歩二十分のところにある私立の中高一貫校では、新学期を迎えた生徒たちが続々と校門を抜けていく。昨日までの暴風雨が嘘みたいに桜並木が満開の花びらを輝かせ、風に舞うピンク色の絨毯が道を覆っていた。ゆるやかな坂を登ると、五階建ての新校舎が誇らしげにその姿を現す。Ｈ型をした校舎の中心に広がる中庭は生徒達の憩いの場であり、その中庭から伸びる煉瓦道は体育館へ導いてくれる。

　――時刻は九時を回った。

　一限目を知らせるチャイムが響き渡り、体育館では始業式が始まる。

　数百人の生徒たちは整然と並び、壇上では理事長が開式の挨拶をしている。あくびをしたり、無表情に話が終わるのを待ったり、二週間ぶりに再会した友人とのおしゃべりに夢中になっている姿もあった。

　ヒソヒソと声をひそめ話しているのに教師達が気づくこともなく、理事長の無駄に長い話が終わる。次に生徒会長が壇上へと上がった。何も生まれない非生産的な時間に、お喋りする口が止まることはない。

　会長の話も終わり礼儀として拍手が送られるが、その手拍子は形だけのものでしかなかった。

　副校長がマイクを握る。

「次に在校生代表、鳴神秋志（なるかみしゅうじ）」

その名前に、緊張感のない空気が一変して張り詰める。生徒たちの視線が一斉にステージへと向けられた。

　この学校では毎年、最高学年の学年一位が在校生代表の挨拶を務めるのが慣例（かんれい）になっている。その大役を担う鳴神は、ナイロール型のメガネをかけ無表情で舞台袖から姿を現す。

　会長とは違い、何も持たずゆっくりと演台へ立つ。マイクの高さを調整すると淡々とした口調で話し始めた。

　その姿を見つめながら、同学年の男子が小声で呟く。

「学年一位とかどうせ親のコネだろ」

「いやいや、コネだけでここまでできねーって」と隣に座っていた友達が正論を挟む。

「何だよ。俺じゃなくてあの陰キャの肩持つのかよ」

「感情的になるなって。常識的に考えての話だよ」と冷静に返す友達に、不満げに唇を噛みしめた。

「今年こそ、あのピンホール奪ってやる」

　鳴神の首元には、美しく輝く金のピンホールが光っていた。各学年のトップにのみ与えられるもので、指定校推薦の独占など様々な特権が付与されるため、多くの生徒がその座を狙っていた。

　五分ほどで話を終えると、先ほどまでのスピーチに比べ明らかに小さな拍手が送られた。それを機にする様子もなく、鳴神は舞台袖へ姿を消した。

　始業式が終わると、人混みに紛れながら最上階の一番奥にある新しいクラス、三年一組へ戻ってくる。

　鳴神の席は最後尾の窓側。それとは対照的に、中学からの親友である龍海斗（りゅうかいと）は教卓の目の前だった。

　席順は、五十音順でも運任せのクジでもない。入学時に渡されるQRコードから専用のページにアクセスし、座りたい席を毎学期申し込む。そして、学年順位の高い人から順に席を選べるという仕組みになっている。その結果、学年上位の生徒は自然と教室の後ろに集まり、逆に順位が低い生徒は前方へと追いやられる。

　このやり方には当然ながら賛否がある。

　プライバシーはどうなるんだ、とか、前の席の生徒の気持ちを考えたことがあるのか、といった批判が一時期ネットでも話題になった。しかし、学校側は方針を曲げなかった。うちの方針に納得できないなら退学すればいい。席に不満があるなら勉強して勝ち取ればいいだけでは？と保護者説明会で理事長が堂々と言い放ったのは有名な話だ。

　この席の決め方は学力や偏差値でしか人の価値を測れない人にとって屈辱的（くつじょくてき）に映るだろうが、龍にしてみれば有名人の不倫や議員のパワハラの話くらいどうでもいいことだ。それは鳴神も例外ではない。

　椅子を引き、腰掛けようとした瞬間だった。

「鳴神くん！」

　不意に名前を呼ばれ、隣を向く。

　女子が立っていた。背中まで伸ばした髪。スラッとしている容姿。物静かな雰囲気ながらもどこか人目を引きそうな存在感を放っていた。

「……誰だ、お前？」

「えぇ！？去年から同じクラスだったじゃん！ひどくないー？」と苦笑いして「藤原紗月（ふじわらさつき）。覚えてないの？」

「覚えてない。逆に、なんでお前は僕のこと知ってんだよ」

　鳴神は席に腰掛ける。

「そりゃ同じクラスなんだから覚えるよ！それに、入学してからずっと学年一位。しかも、医者家系の息子で将来は総合病院の後継なんでしょ？知らない人の方が珍しいよ」

　軽い口調で笑いながら言った。僕は不愉快だった。

「あっ、そう」

「それで、今日の放課後、教室に残っててくれないかな？」

「なんで？まず理由を言えよ」と、スマホゲームのログインボーナスを受け取りながら返す。

　すると藤原は、耳元にそっと口を寄せ低くささやいた。

「いいの？復讐のこと、みんなにバラしても」

　復讐その一言に、心臓が大きく脈を打つ。息が詰まり嗚咽しそうになる。

　なんで、コイツが復讐のことを知ってる。知っているのは海斗ただ一人……アイツが話した？いや、中学からの付き合いだから自信を持って言える。そんな口の軽い奴じゃない。じゃあ、なんで知られた？いつ、どこで、誰に？

　教室のドアが開く。担任が書類を手に入ってきた。

「ホームルーム始めるぞー全員席につけ」

「それじゃ、放課後、教室で待っててね！」

　ニコッと笑い、何事もなかったように自分の席へと戻っていった。

　いまだ現実を飲み込めない鳴神は、まるでマネキンのように固まったままだった。

　ホームルームが始まると担任は教卓を両端を持ち、軽い自己紹介をする。名前、家族構成、趣味、十分もせずに話終えると進路調査票を配った。前の席から回ってきた。

「これは再来週の月曜日に集めるから忘れずに持ってこいよ……よし、それじゃあ解散！」

　その言葉に、クラスメイト達が一斉に立ち上がった。明日は入学式。準備と片付けのため全ての部活が今日と明日、休みになっている。束の間の開放感に心が踊り、生き生きした話し声が教室のあちこちから聞こえてくる。

　鳴神は頬杖をつき、バレないよう藤原の席を見つめた。教室のど真ん中で、幼馴染である新井優那から遊びに誘われているようだ。

「紗月、このあとスタバ来ない？好きって言ってたらサクラの新作出てるらしいよ」

「ごめん優那！このあと用事があって、また今度行こ！」

「えっ、そうなんだ」と不思議そうな顔を浮かべる。

「なになに？もしかして春休みに彼氏でもできた？！」と別の友達が茶化す。

「もーそういうのじゃないって！弟と妹の面倒見ないといけないの！」

　アイツ長女なのか。全然見えない。むしろ末っ子だろ。と貶してると海斗が近づいてきた。

「帰んないのか？着替えてから来るって言ってなかったっけ？」

　会うのは春休みぶりだった。気のせいかもしれないが、また身長伸びてないか。しかも一段とゴツくなっている。つくづく、バレー選手への夢を叶えられなくなったことを同情する。

「やめた。学校で勉強してから直で行く」

「ふーん。学年一位はやっぱ違うな！」

「うるせぇ」僕は確かめるためにも、小声で呟く「なぁ、復讐の話、誰かに言ったか？」

「話すわけないだろ……どうした急に」

　海斗は嘘をつくときに鼻の下に指を置く癖があるが、しなかった。その目にも曇りはない。

「だよな」

「大丈夫か？」

「ああ」いよいよ、アイツが僕の秘密を知った理由が分からなくなった「また行くとき連絡する」

「ぎょい！それじゃあな！」

「ああ、また後で」

　海斗と新井たちが出ていったのを皮切りに、教室からどんどん人がいなくなり、十分もすれば廊下から声が聞こえなくなった。教室には僕と藤原の二人だけになった。

　藤原は席を立つと、開けっ放しだった教室のドアを静かに閉め、振り返ると嬉しそうに微笑んだ。

「ちゃんと残っててくれたんだね！」

「復讐のことバラすって脅しておいてなに言ってんだ」と苛立ちながら聞く「それより、なんでお前がその事を知っている」

「誰って、鳴神くんからだけど」

「は？お前に話した覚えないが」

「正確には、君が話しているのを聞いたの」

　ポカンとしている鳴神。藤原はスマホを取り出し、横画面にして見せてきた。そこには、教室のロッカーを整理しながらスピーカーで電話をしている姿が映っていた。

「もしかして……昨日のか？」

「せーかい！」

　藤原は再生ボタンを押した。

［話は変わるけどよ、家を出て行くためのお金貯まったのか？百五十万だっけ？］と海斗の声。

［先月ようやくな。だからバイトも先月いっぱいで辞めてきた］

［マジで貯めたのかよ！すげぇな。一位維持しながら親にバレずによくやったわ……それで、どこに住むのかも決めたのか？］

［佐賀にしようと思ってる］

［めっちゃ近いやん。見つかったらどうするんだよ］

［その頃には赤の他人同然の存在になってるさ］

［あーそれもそうか。物件は？もう決めたのか？］

［まだだ。数年は暮らすつもりだから妥協したくなくてさ、なかなか決められない］

［急いで決めるものでもないし焦らなくていんじゃないか？あと一年はあるし。てか思ったんだけど、復讐のためにわざわざ医学部に合格する必要あるのか？そのための勉強とか面接だるくね？卒業と同時に家を出て行くだけじゃダメなのか？］

［ダメだ。合格して、自分達の思い通りになったって思い上がらせたあとに消えた方が、絶望のベクトルが桁違いだろ？］

［復讐に人生賭けすぎだろ］

　海斗の少し引いている声で動画を止めると、ポケットにしまった。

「にしても、学年一位の鳴神くんもこんな失態を犯すんだね」

　せせら笑いに、鳴神は舌打ちをしそうになるのをこらえた。

「学年一位は今関係ないだろ。お前は、あんな時間、こんな場所で何してたんだよ。昨日は僕と生徒会しか呼ばれてないはずだぞ。お前、生徒会じゃないだろ」

　藤原はオドオドしながら「いや、それはほら……秘密！」と誤魔化す。

　人生でウインクに腹が立つのは、おそらくこれで最初で最後だろう。

「まあ、どうでもいいか。それより、動画まで撮って何が目的だ？」

　待ってましたと言わんばかりに、ニヤリと笑いながら腕を後ろで組んだ。

「簡単だよ。私のお願いを叶えてほしいの。ただそれだけ」

「断ったら？」

「この動画を友達とかグループに流す。鳴神くんの両親が働いてる病院に送ってもいいし？」

「……仮にお前のお願いとやらを叶えたとして、暴露しない保証がどこにある？」

「たしかに保証はないけど、わたしは約束はちゃんと守るタイプだから安心して！」

「つまり、口約束ごときを信用しろってか？」

「そゆこと！」

　人の弱みにつけ込んで自分の私利私欲を満たそうとする奴の口約束とか微塵も信用できない。それでも、藤原の願いを叶える以外に残された選択肢はない。逆らえば、これまで復讐のために費やしてきたもの全てが無駄になる。週六で通わされた塾を辞めるために高校でも学年一位を維持し続けた。親にバレないよう片道一時間のバイト先で理不尽なクレームに耐えた。受験や勉強の小言にも耐えた。青春も、嫉妬も親からの暴力にも、ずっと、耐えてきたんだ。

「どうするの？鳴神くん？」

　鳴神は無意識に拳を握っていた。藤原に対してではい。

「分かった。その条件を受ける」

「やったね！」

　嬉しそうに軽くステップを踏んだ。

「それで、お願いってのは何だ」

「彼氏」

「え……は？」

「私の偽物の彼氏になってほしいの。それが私のお願いごと。ちゃんと彼氏らしいふるまいをしてくれないと、復讐の話は暴露するからね？あ、けど学校では友達として接してね。周りにバレたくないから」

　理解が追いつかない僕を尻目に、藤原は早口でまくし立てる。

　そして「これからよろしくね！鳴神秋志くん！」とくったくのない笑顔で言った。