第4話



 寝不足で身体がフラついた。



 とてもじゃないけど、出勤出来るような体調じゃなかった。



 それでも私はどうにか出社した。



 やっぱり彼とは向き合わなきゃならない。



 こんなにも辛くて怖い毎日を終わらせなきゃならない。



「ど、どうしたの!?凄い顔色悪いけど!!」


「大丈夫!?体調でも悪いの!?」



 私を見たリサちゃんとカスミちゃんが驚いた声を上げたけど、私は「ちょっと頭痛がするだけ。大丈夫」と曖昧な笑顔を浮かべた。



 そして、チャンスはすぐに訪れた。



 会議が終わったのか、忙しない足取りでフロアへと戻って来た彼。



 私には目もくれない。



 わき目もふらずに自分のデスクへと戻った彼は、座る事もなく慌ただしく書類をまとめる。



 そして、そのままの勢いで再びフロアから出て行く。



 いつものように、カスミちゃんがさり気なく立ち上がるとその後を追う。



 いつもならそんな光景を黙って見守ってるだけの私だけど、今日は違う。



 本当ならすぐにでも家に帰ってベッドで横になりたかったけど、そんな身体に鞭打って立ち上がる。



 カスミちゃん張りに、さり気なく立ち上がったつもりだったけど、予想以上にフロア内の人たちの視線を集めてしまったところを見ると、焦りが態度に出てしまっていたのかもしれない。



 隣のリサちゃんが何か言いたそうに見上げてたけど、私は何も言わずにフロアを出た。



 もちろん、彼を追うために。



 彼とカスミちゃんを追うために。



 視線の先には、肩を並べて歩く2人の背中が見えた。



 右に曲がったその先にあるのは資料室。



 役職付きにしか開ける権限のない、禁断の個室。



 絶好のチャンスだった。



 これからあの2人は、その個室へと向かうに違いない。



 このチャンスを逃しちゃダメだ。



 彼にはちゃんと文句を言わないと。



 そしてカスミちゃんには、彼の本性を知って貰わないと……!





 突然登場した私に、彼とカスミちゃんは本気で驚いたようだった。



 てっきりイチャついているのかと思ったけど、それぞれの棚で書類を探してた様子の彼とカスミちゃんは、それぞれの場所で同時に私を振り返った。



 特にカスミちゃんは、まるで凍りついたかのように表情だけじゃなくて身体までを強張らせ、怯えたように私を見つめていた。



 そんなカスミちゃんへと機敏に近付いた彼は、まるで庇うかのように自分の身体の後ろに隠す。



 何のつもりなんだろう。



 私がカスミちゃんに何かするとでも思ってるんだろうか。



 酷い事してるのは自分のクセに。



 散々私を怖がらせてるクセに!



 私はジッと彼を見つめた。



 彼もジッと私を見つめてた。



 実際には微かに足が震えてたけど、寝不足が手伝ってか不思議と怖いとは思わなかった。



 私は自分を守らなきゃ。



 そしてカスミちゃんも守ってあげなきゃ。



 こんな卑劣な真似をする男を、野放しになんてしておけないんだから。



「カスミちゃん……あのね」



 私は一呼吸置くと、彼の後ろにいるカスミちゃんへと声を掛けた。



 表情は見えないけど、彼女が小さく息を飲んだのはわかった。



 きっとカスミちゃんは、勘違いしてるんだろうと思う。



 私が、2人の仲を邪魔しようとしてると思ってんだろう。



 それは間違いではなかったけど、間違いでもある。



 私はただの嫉妬や独占欲で、彼とカスミちゃんとの仲を邪魔しようとしてるワケじゃない。



 彼は本当に怖いからだ。



 彼が本当に危険だからだ。



「お願い、私の話を聞いて」



 私はゴクリと唾を飲み込むと、彼越しのカスミちゃんを見つめた。



「あのね私、今でも課長から毎日怖くなるほどの電話とライン受けてるの。私は課長に別れを告げたのに、ずっと復縁を迫って来るの」



 課長の目が大きく見開かれ、何かを言いたそうに私を凝視してるのがわかった。



 でも私はそのまま続けた。



「今でも勝手に家までやって来たり、昨日なんて深夜にドアポストから部屋の中を覗いて来たり。暴力だって振るわれた事ある。だから私は別れを告げたの。それなのに課長はしつこいの」



 課長が両手をグッと握り締めたのがわかった。



 さすがにカスミちゃんの前で暴力を振るう事はないだろうけど、少し警戒しながら私は続けた。



「ホントはこんな事言いたくないし、言うつもりもなかったけど、カスミちゃんは大事な友達だから。だから課長の裏の顔を知って欲しくて。警察に行こうかと考えた事もあるくらいなの。でも課長の仕返しが怖くて出来なかった」



 カスミちゃんがどんな表情をしてるのかはわからない。



 私の言う事を信じてくれるかどうかもわからない。



 それでも私は続けた。



 だって……



「カスミちゃんにはそんな思いして欲しくない。カスミちゃんとリサちゃんは、私にとって初めて出来た大事な友達だもん。だからお願い、考えなおして。もしも課長を……この人の事を好きだっていうならホントに気を付けた方が良い。この人は危険だから。この人は怖いから……!」



 課長が近付いて来ようとしてるのがわかった私は、ハッとして後ずさった。



 殴るつもりなのかもしれない。



 それとも、いつものように優しく抱きしめてなだめるつもりなのかもしれない。



 だけど私は誤魔化されない。



 もう今までみたいな怖い思いはうんざりだから。



 後ずさる私を追うかのように、課長がゆっくり近付いて来る。



 その手に光る何かを見付けた私は、思わず口元を押さえた。



 あれは……ナイフだ。



 課長は暴力どころか、私を殺そうとしている……!



「か……カスミちゃん逃げて!!殺される!!私たち拓也さんに殺される!!」



 課長が動いたおかげで、その後ろにいたカスミちゃんの表情が見えるようになってた。



 カスミちゃんは“信じられない”とでも言うかのような表情を……



 泣きそうな表情を……



 違う。



 え?



 あたしを……睨みつけてる。



「か……カスミちゃん……?」



 意味がわからなかった。



 あたしは後ずさりながらカスミちゃんを見つめた。



 どうして?



 何でそんな顔するの?



 今のこの状況を見れば、それは明らかなのに。



 課長がこうして私を殺そうと近付いて来てるのに。



「カスミちゃん、お願い私を信じて!早くここから―――」



「―――もう、良い加減にしてよ!!!!!!!!!」



 それは、カスミちゃんの声だった。



 絶叫、だった。



 な……何が?



 どうして?



 何でカスミちゃんが、そんな事言うの……?



 足を止めた課長が、カスミちゃんを振り返る。



「良いの、もう我慢出来ないから!!」



 そんな課長の前に進み出たカスミちゃんは、やっぱり憎んでるとしか思えないような表情で私を見つめた。



 そして、荒々しい声を上げる。



「こっちがどんだけ我慢してあげてたか、わからない!?どんだけ耐えてたかわからない!?大事な友達?ふざけないで!!あんたを友達なんて思った事、一度もないから!!」



 え……?



 どうして……?



 何でそんな事を言うの……?



「病気なのか何なのかしんないけど、マジで病院行った方が良いんじゃない!?あんたは異常よ!!自覚がないようだから言ってあげる。あんたは異常よ!!」



 異常……?



 私が……?



 え、カスミちゃんは私に言ってるの……?



「良い?良く聞いて。拓也さんと付き合ってるのはあたし!!」



 ……止めて。



 そんなはず、ない。



「課長と付き合ってるのはあんたじゃなくてあたし!!会社中の人が知ってるから!!」



 止めて止めて。



 私、毎日怖い思いしてたんだから。



「もちろん課長はあんたにしつこく復縁なんて迫ってないし電話もラインもしてない!全部あんたの妄想!あんたがあまりにも異常だから、こっちは適当に話を合わせてただけ!!ホント良い加減にしてよ!!」



 止めて止めて止めて。



 もうこれ以上は止めて。



 初めて出来た彼氏なの。



 初めて出来た友達なの。



「拓也さんとお洒落なレストランやバーに行ったのもあたし!!ちょっとそれを話したら、何故か自分の事だと思い込んじゃってマジ有り得ないんだけど!!」



 何……だろう。



 視界が……だんだん霞んで来る。



 カスミちゃんの声が、どんどん小さくなる。



「ついでに言うとね、課長の家に勝手に来てたのもあんた!!夜にずっと部屋見上げてるとか尋常じゃないから!!それに昨日、ドアポストから拓也さんの部屋覗いてたのもあんた!!拓也さんはあんまり大事おおごとにしたくないからって我慢してたけど、そろそろ警察にでも行こうかと思ってたとこだから!!」



 もう……止めて。



 何が何だかわかんないから。



「大事な友達!?冗談じゃないから!!あんたは異常なの!!わかる!?異常なの!!早いとこ病院に―――」



「止めて―――!!!!!!!!」



 叫んだ私は持っていた鈍く光るナイフを、自分自身へと向けた。

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