第2話



 最初は幸せだった。

 ただただ幸せだった。



 社内1の素敵上司と付き合えるなんて。



 拓也さんは本当に優しかったし、私を大事にしてくれた。



 お洒落なレストランに、未だかつて行った事もないような大人な雰囲気の素敵なバー。



 色んな所に連れて行ってくれた。



 お互いに1人暮らしだったから、お互いの部屋を頻繁に行き来した。



 やむなく会えない時は、深夜遅くまで電話で話した。



 本当に幸せだった。



 もちろん、社内ではあっという間に噂になった。



 すれ違った後、わかりやすく女子同士でコソコソと囁き合う姿は日常茶飯事だったし、食堂でもそれは同じだった。



 学生時代みたいなわかりやすいイジメにはならなかったにしろ、充分居心地の悪い空気は作られた。



 でもそんなのへっちゃらだった。



 だって拓也さんが居てくれたから。



 私は拓也さんが大好きだったし、拓也さんも私を愛してくれていたから。



 だけど―――。



 雲行きが怪しくなって来たのは、付き合い始めて3ヵ月が過ぎた頃だっただろうか。



 その日、拓也さんは残業だった。



 何時に終わるかわからないと事前に教えられてた私は、部屋で1人の夕食を済ませた後、すっかり眠り込んでしまった。



 絶え間なく震え続ける枕元の振動で目が覚めたのは、深夜1時を回る頃だった。



 慌ててスマホに飛び付いた私に、拓也さんは液晶の向こう側でホッとした声を出した。



【全然電話に出ないから何かあったのかとハラハラしたよ】



 ごめんなさい、と謝った後、いつものように和やかに会話を終え、再び眠りに着こうとした私は着信履歴を見てギョッとした。



 その数、60回以上。



 そんなにも心配かけてしまったのか!と申し訳なく思うと同時に……ほんの少しだけ「うっ」って思ってしまったのも確かだった。



 でも今思えば、それが始まりだったような気がする。



 その日を境に、課長の……拓也さんの“異常なまでの私に対する執着”が露わになって来たような気がする。



 まずは、友達同士での飲み会禁止だった。



【ミカが他の男に誘惑されたら困るからな】



 30歳にもなる男性が、まるで子供みたいなヤキモチ妬くんだとその時は微笑ましく思ったけど。



 徐々にそれはエスカレートし、社内での飲み会も禁止になった。



「拓也さんは会社の飲み会に参加するのに?そんなのずるい」



 一度だけ文句を言った事があるけど、まるで汚いモノを見るかのような眼で睨まれた。



 初めて見るそんな拓也さんの顔に、思わず息を飲んでしまったほどだ。



【ご……ごめんごめん。だって俺には会社の立場ってのがあるからね】



 ハッとしたように我に返った拓也さんは、いつもの優しい笑みを浮かべながら弁解した。



【でも心配なんだ。いつかミカが他の男に盗られるんじゃないかって】



 そんな事を言われながら優しく抱き寄せられたら、もう何も言えなかった。



 私が他の男に……?



 そんなワケないのに。



 私には拓也さんだけなのに。



 そして、彼のそんな独占欲は日を追うごとに増長して行った。



 仕事でちょっと他の男性と喋っただけなのに、あからさまに態度に出されるようになった。



 さすがに社内だから怒鳴り散らすような事はなかったものの、同期の2人が心配するほどには私の存在をスルーされた。



 だけど決まってそういう時は、仕事が終わった後に家へとやって来て優しくなる。



【ミカが他の男と喋ってるのを見て嫉妬したんだ。ごめんよ】



 そして優しく抱きしめてくれる。



 そんな事されたら「ううん、私も悪かったの。ごめんなさい」って言うしかない。



 実際その通りだ。



 仕事とはいえ、私が彼の前で異性と喋ったりしたからだ。



 そして、そんな事を繰り返してるうちに、本当にそう思うようになって来た。



“彼が怒るのは私が悪いからだ”と。



 何もなければ彼が怒る事なんてない。



 不可抗力とはいえ、私が彼を怒らせるから悪いんだ。



 それからは出来るだけ気を付けるようにした。



 どうにか彼の機嫌を損ねないように頑張った。



 でも、どんなに頑張っても無理な事はある。



 社内で一切異性と喋らないなんて仕事の都合上、絶対無理だし、そうなると彼を怒らせる。



 シカトなんて日常茶飯事で、ライン攻撃・着信攻撃なんて当たり前だった。



 息をする間もないほどに続々と届くラインで叱られた時は、生まれて初めて過呼吸になったほどだ。



「私は一体どうすれば良いの」



 泣きながら彼に訴えた事もある。



【それはミカが考える事だろう】



 彼は冷たくそう言った後、やっぱり優しく抱きしめてくれた。



 私が自分で考えなきゃならない。



 でもどうしたら良いのかわからない。



 どんどん自分を追い詰めて行った私が、やむなく助けを求めたのはSNS。



 匿名女性掲示板だった。



 自分だと身バレないように軽くフェイクを交えながら、出来るだけ詳しく彼との事を書き込んだ。



“彼を怒らせないようにするにはどうしたら良いですか?”



 そう締め括った投稿には、あっという間に多くのレスが付いた。



“主さぁ、気付いてないかもだけどそれって立派なDVだよ”


“DVって決して身体的な暴力だけじゃないからね。精神的なDVも存在するからね”


“共依存って言葉知ってる?主ってまんまそれじゃね?”


“まぁそんなクソみたいな男でも良いなら必死でしがみついてりゃ良いじゃん”


“その結果、トピ主がどうなろうが私らには関係ないしねー”



 とっても辛辣な言葉だった。



 私は彼を“クソみたいな男”なんて思った事なかったし、“共依存”なんて言葉を聞いたのは初めてだった。



 でも、その意味を調べた私は少なからず驚いたし、少なからず納得した。



 共依存とは。



 特定の相手に依存し、自分の存在を認めて貰おうとするが故に献身を繰り返してしまう事。



 だって、初めての彼氏だった。



 生まれて初めて私を愛してくれた異性だった。



 そんな相手の愛に応えたいと思うのは当たり前だし、みんなそうなんじゃないの?



 私が変なの?



 彼は決してクソ男なんかじゃない。



 社内1の出世頭だし、社内1人気のある素敵男性だ。



 あんたたちはリアルな彼を知らないクセに。



 見ず知らずのあんたたちに、何でそこまで言われなきゃならないの。



“いや、だからさ。そう思うならそのままそのクソと付き合えば良いじゃん”


“でも主だって、心のどこかではおかしいって思ってるからトピ上げたんじゃないの?”


“みんな主を心配して色々助言くれてるのにねww感じ悪っww”


“主がニュースに登場しない事を祈ってるよ!“交際相手に殺され”ないようにねw”


“うんうん、身体的な暴力に発展するのも時間の問題だろうしねー”



 いい加減にして欲しい!



 拓也さんの事を知りもしないクセに好き放題に!



 SNSなんかに頼ってしまった自分を心底後悔した。



 無責任に私と拓也さんとの仲を邪推するトピックスはすぐに削除した。



 でも……見ず知らずの彼女たちの“声”は、すぐに現実となった。



 彼女たちの“声”は、あまりにも無責任だった。



 でも、心の奥底では引っかかってた。



 だから―――



【何で俺をイラつかせるんだ!何故俺を怒らせる!】



 ―――言いながら、私のセミロングの髪を鷲掴みにした彼を目の当たりにした時。



「お願いもう無理!!別れて欲しい!!」



 躊躇する事なく、その言葉が言えたんだろうと思う。



 もちろん、怒らせようと思ったワケじゃない。



 入浴中だった。

 だから彼からの電話に出られなかった。



 たったそれだけの事で、こうして深夜に家まで押しかけて来た挙句、髪を掴まれ壁に押し付けられ、大声で罵られ……



“身体的な暴力に発展するのも時間の問題だろうしねー”



 もう無理だ。



 もうイヤだ。



 別れたい。



 別れて欲しい。



 私の声にハッと我に返った彼は、髪を掴んでいた手の力を緩めた。



 ズルズルと壁に沿って崩れ落ちた私は、そのまま涙ながらに訴えた。



 私の前に屈み込んだ彼は、何度も侘びの言葉を繰り返しながら私の身体を抱きしめた。



 初めて男性にそんな事をされた私の身体は、一向に震えがおさまらなかった。



 怖くて怖くて仕方なかった。



 どんだけ抱きしめてくれても、どんだけ謝られても、もう私には無理だった。



「―――お、願い……もう帰っ、て。私……と、別れ、て……」



 しゃくり上げながらもそう告げる私の頭を優しく撫でた彼は、名残惜しそうに立ち上がった。



 そしてもう一度侘びの言葉を呟くと、静かに部屋から出て行った。



 ―――そんな風に別れてから、既に約2週間。



【俺は納得してない。別れるつもりはないからな】



 毎日のように着信とライン攻撃が続いてる。



 見た目も社会的地位も、何もかもが完璧な彼。



 そんな彼が、何故こんなにも私に執着するのかがわからない。



 私の一体何が悪かったんだろう。



 何が彼をそうさせてしまうんだろう……

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