十三夢「動き出す時間と完成しない情報」


 昨日のことを思い出すために、ソファーに深く沈み込むように座る。お気に入りのマグカップを片手にテレビを見ながら一口。ポットで沸かしたはずの珈琲はすっかり冷めている。


 目の前には、一冊のノートがテーブルの上に開かれていた。

 

 何も思い出せないが、どうやら俺は迎えるべきだった『水曜日』をスキップして『木曜日』に来てしまったようだ。


「しんどい時は時間を飛ばせたらって思うけど、実際に飛んだ時は、なんとも言えん感覚」


 朝の母さんとの会話を思い出す限りでは、水曜日を寝続けていたわけではない。おそらく、記憶はないが昨日も俺は活動していた、と思われる。


 その根拠が目の前にあった。

 俺の鞄には火曜日、教室に置いて帰ったはずの教科書が入っていた。逆にないものもあった。その無い物のなかには凛から借りたはずのノートとプリントも含まれている。


 決定的な証拠は、目の前で広げられている一冊のノート。

 そこには俺の字で書きこまれた二ページに渡る板書の跡があった。


「俺の字……やんな。うん、見間違えるはずもない、俺の字……や」


 テレビに映し出されている時間は、九時を過ぎている。つまり今、中学校では一時限目が始まっている。俺は完全に遅刻していた上にサボタージュしたというわけだ。サボタージュのコーンポタージュ感は、半端ない。



 ×  ×  ×

 


 遅れて登校してきた俺は完全に不良扱いだ。それもイケてる不良じゃあなくて、ダサイ不良。


 俺は三時限目の途中から出席した。

 本当は二時限目の途中から出席できたが、遅れて登校してきた俺は教室、ではなく職員室へ案内されその後生徒指導室にてみっちりと説教タイム。

 

 次は四時限目の授業で今は休憩時間だ。俺は自席で一人、次の授業までの時間を待つ。


 「……。」


 クラスの皆はそれぞれ会話をしている。でも、俺の席を中心にするようにして距離を置かれているせいか、会話の内容は聞き取れない。

 自分の耳が悪くて聞き取れないわけではない。そんなことくらい、わかっている。


 なぜなら会話の話題になっている人物は誰でもない、俺……だからだ。

 クラスの皆は、誰も俺に話しかけようとはしない。

 仕方ない、誰も悪くはない。俺が悪い。

 

 何もすることはない。何をしても今の俺が行動を起こせば悪い方向に動く気がする。


 そうだ、時間つぶしに給食委員の活動日誌だ。記録だけではなくしっかり仕事の成果を出さないといけない。この間のこともある。しっかりと、成果を出すんだ。


 ただ記録するだけではダメだ。そこから分析し改善を図る。当然こんなことは俺の性分ではない。これっぽっちもない。全くといってない。

 大きな成果は上げずともいい。少しの成果でいい。やれることはやった、あとは俺の責任ではなくクラス全体の責任だから、これ以上は仕方ないと思われるようにさえできれば。それでいいのだ。


 八重は、昨日……ではなく実際は一昨日か。体感では昨日、『協力』と言っていた。

 俺だけの力では無理なことはわかっている。それに俺一人で解決しようとは思っていない。一人で解決できる気がしない。


 だが協力って何をだ。

 集合が遅いのも、

 配膳に時間がかかっているのも、

 返却が遅いのも、

 エプロンの忘れが起きるのも、


 全部全て個人の意識の問題で、当番全体の怠慢が招いた結果だろう。

 俺にどうこうできるスケールではない。それこそエプロンの忘れを頻繫に起こす者には個人的に注意をする策が得策だろう。

 情けない話、俺ではチーム全体に影響を与えられるほどのカリスマもリーダーシップもない。それに今の俺はダサイ不良で、そんなやつから何か言われても説得力に欠ける。

 俺は元々、指示待ちの部下、もしくはそれ以下のサボり部員がお似合いの存在。今回の給食委員に立候補したのは何かの気の迷いであり、判断ミスである。


 言い訳をゴタゴタと並べてみるも御託が増える一方だ。一回この件は放棄することに決めた。

 

 ヒソヒソと話し声がする中、後ろから足音が聞こえてくる。誰一人として近づこうとしないこの状況で、こっちに向かう存在がいれば当然意識する。

 

 思えばいつも驚かされてばっかりだった。そのたびに驚く俺もあれだが、気配をまるで感じさせない彼女にも問題があるはずだ。


 肩をトントンと優しく叩かれる。


「おはよう。昨日はぐっすり眠れた?」


「それ、遅刻したことにたいする皮肉か? やっぱり良い子ではないみたいや」


 振り返る前に声をかけてきた彼女に憎まれ口を叩かれる。それに振り返ることなく口角を上げて答えた。

 返事に満足したのか、肩に置かれた手は離され、俺の正面に来る。

 相変わらずの口の悪さには苦笑いは必須だ。


「今、初めて私のことに感謝した?」


 ドヤ顔で胸を張る彼女を前にして、少し笑ってしまった。

 

「なに、俺の顔ってそんなにわかりやすいん」


「うん」


「マジか。眠たそうにしてたらそりゃ誰にでもわかるよなとは思うけど、感謝の気持ちまで表情にでんの? 俺ってわかりやすっ」


 嘘がつけないタイプというやつか。これでも結構演技には自信があったのでショックだ。ババ抜きとか結構強いんやけどな。


「答えは見つかった?」


 八重が指す『答え』とは、『協力』の内容についてだろう。しかし、ここは適当に答えさせていただく。正直なところ、この状況で話しかけに来るとは思っていなかった。しかしおかげでこの話は、今答えを見つけることができた。


「ああ、八重、ありがとうな。おかげで見つかったわ」


「――そう」


 いつも表情が暗いというか、怖い彼女の意図は読めない。

 しかし、今の八重 夢咲の満足そうな表情に、鼓動が速くなった。意図は読めないが。

 

「なぁ八重、今度」


 ゲームをするためにラインを教えてくれと言おうとしたタイミングで、鐘が鳴った。

 予鈴を聞いた生徒はいそいそと自分の席に戻る。当然俺の前にいた八重は――まだ目の前にいた。

 ただ、一つだけが違っている。俺は以前と変わらず席に座っている。彼女を下から見上げている構図は変わっていないはずなのに、彼女の表情はまるで春の訪れを知らせる雪解けのように、暖かな目をしていた。

 

 八重が席に戻って、授業が始まった今もまだ、俺の時間は止まったままで、彼女の瞳が頭から離れなかった。

 


 ×  ×  ×


 

 「代表! 号令やぁ」


 少し癖のある理科を担当している先生の掛け声に思わず口角が上がった。その後すぐ代表と呼ばれている委員長が号令をかけて、半日が終わったことを実感する。

 

 各クラスでガタガタといつも通り机を引きずる振動が伝わってきた。


 一応山郷先生に言われていたこともあって、反感を買わないように適当な感じを装って「当番いそいでよーーー」と注意喚起をする。ここで木町は俺の様子を見て、俺よりもハッキリとした声で「当番はやくはやく! 急いでー!」と声をかけながらエプロンを持って廊下を出た。

 俺のかけ声だけでは当番に届いていなかったが、今週当番である木町が声をかけながら急ぐ様子にはさすがに感化されたみたいだ。これにて俺の仕事は終了。

 

 給食班に机を移動できたので、自分も廊下に出ようと顔を廊下に向けた先で八重と目があう。

 そうだ。朝は皆が見ていて話すことができなかったが、今ならこっそりと話すことができるのではないかと考える。水曜日の記憶がないことは、俺の大怪我の件と関わりがあるかもしれない。

 

 同時に四時限目前のことを思い出してしまった。

 彼女のことを意識していることがバレるのも恥ずかしい。自分の命に関わることかもしれないがどうしても恥ずかしくて、気にしていない風を装って廊下で突っ立つことにした。そこでうっかり引き出しに本を忘れていたことに気付く。


 しかし、結構時間が経っていたみたいで、給食当番がわっせわっせと続々と戻ってきたタイミングと重なってしまった。

 いつもは待機時間に本を読んでいたため、その段階で気付いていたはずだったのに今日は気付かなかった。本調子ではないのかもしれない。


 しばらくぼーっと眺めていると、白いエプロンを纏う木町が「ハヤシ、もうクラスの皆呼んでいいよ」と教室でエプロン姿のクラスメイトが配膳する様子を見ながら話しかけてきた。

 はっとして時計を見ると、給食時間の予鈴まで少し余裕がある。これで配膳が完全に終わっているのなら完璧だった。


「? まだ配膳してるやんか」


 俺と木町がこうして話している間にも、ボウルを持った当番が配膳している。

 

「? 昨日ハヤシが言ったことを行動に移してるから、あれでいいんじゃないの?」


 昨日、と言われて気が付く。記憶はないため何を言ったかはわからないが、大事なことを指示したらしい。

 

「あ、あー! 言ったわ、うん言ったな」


 少し考えて理解する。

 いつもは完全に配膳が終わってからクラスの皆を教室に入れる。

 元々、配膳中は教室に当番以外の者が入室してはならないというルールがある。

 そして、配膳が終わった後、廊下で待機しているクラスメイトに戻ってきてもらうのが流れだ。


 これまで配膳が完全に終わる前にクラスの皆を教室に入れることはなかった。ルールに従っているため当たり前だ。それに配膳が完全に終わる前にクラスの皆を入れてしまうと当番の動きが悪くなることが予想される。結果、準備時間は余計にかかってしまうだろう。


 しかし、元々身動きの軽い当番だけが動ける状態にさえしていれば、どれだけクラスの皆が邪魔になってもかわすことができる。

 それに、クラスの皆に呼びかけをしてから教室に入るまでのラグを考慮すればこのグレーな作成も完璧な作戦になるだろう。


 なにより、何もしなくてもこれまで通りの状況で改善策を模索するやり方は自分らしいそれだった。

 

 俺の反応にわけがわからないと言った表情の木町に問い返される前にクラスの皆に教室に入るように声をかける。

 続々と教室に戻ってくるクラスメイト。お腹を空かせた様子の皆に、俺もすっかり空腹を感じていた。

 クラスメイトが次々と席に座る中、俺と木町は教卓前でそれを黙って待っていた。


「昨日はだいぶ遅れたから、今日は早くに終わってよかったね」


「あ? あぁ、そうやっけ?」


 昨日のことは何度も言うが知らない。知らないことを知っているのは誰もいないので仕方はないが、当たり前のように言われても困る。いっそ昨日の記憶がないことを言ってしまいたい。しかしそれではダサイ不良というレッテルに加えて頭のおかしい中二病とまで言われる可能性もある。


「えぇ? 忘れた? あんな大事おおごとになったことなのに?」


 なぜか声のボリュームを落として驚いた様子で言う木町に、本当に何があったんだとせかす。


「ほら、昨日はスワくんが最後の最後でカレーの鍋をひっくり返したんだよ」


「ま、まじで……? 忘れたわ……」


「はぁ。まあいいよ。で、当然私達はパニック!」


「おお、最後とは言えそりゃそうなるわな。俺もパニックになるわ」


「え? ハヤシくんもパニックになってたの?」


 クラスでカレーの鍋が倒れる状況を想像すると、ぞっとした。

 カレーは誰もが好きな給食の一つで間違いなく全国で人気であろうことは想像に難しくない。そのカレーが零れてしまったという。それは一大事であり、当然誰もが見過ごせない事態だ。これが誰からも人気のない給食ならここまで問題にはならない。カレーだから問題になる。当然その場で居合わせた誰もが頭を真っ白にしてしまうはずだ。俺も例外ではない。


「へぇ、じゃあ流石だね」


「ん? 何が?」

 

「だって、その時にハヤシくんが的確な指示を出してくれたおかげで、大事にはならなくてすんだんだから。まさかあんなに冷静に指示を出していたハヤシくんも焦ってたなんてね~」

 

 なんてことのないように言う木町。


 ハヤシくんが的確な指示を出して、対処した?


 ハヤシ君って、誰のことだ……?

 少数校で有名な我が校には、学年にハヤシなんて名前は一人しかいないぞ。

 聞き間違いかとも思った。しかし、木町は「ん? だからハヤシくん! 自分の名前も忘れちゃったの? これ、関西のボケ? ちょっと私ノリがわからないかも?」と首をかしげている。


 どうやらおかしいのは木町でも、俺の耳でも、言葉を理解する脳ミソでもないらしい。


 どうやら、俺は本当に、どうにかなってしまったらしい。


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