十二夢「世界に取り残された人間」
グラウンドではコートブラシを使って乱れた運動場を整えている生徒と、サッカーポストや防球ネットを移動している姿が散見される。
俺たち水泳部は五月のゴールデンウイーク明けまでの間は陸上トレーニングがメイン活動となる。陸上トレーニングでは腹筋や背筋、腕立て伏せのような自重トレーニングがほとんどで、片付ける道具や時間も要しない。
既に制服に着替え終わった俺たちは円陣をくんで顧問を待っていた。部長が職員室にいる顧問を呼びに行っているのだが、いつもより時間がかかっている。
「疲れたねんけど」
「おい、まだ火曜やぞ」
そうだ、月曜日が終わったばかりでこの疲労感。まだあと三日も残っていることに絶望していると、横から凛が呆れ顔でつっこんできた。
「そりゃあ、疲れることばっかやった気がするからなぁ~。はぁぁぁ」
今日の一日を振り返ると自然に口から出た深い息は、聞いている者にとって重みのある言葉だったらしい。
凛がゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。「何があった」と聞きたそうにしている凛に愚痴をこぼそうかと顔を合わせたタイミングで、部長と顧問がやってきたのが遠目から見える。
話は後回しにした。
「――さようなら~」「おつかれーー」「うーす」「……ッス」
各自さよならの挨拶を交わして帰路に着く。
当校は制服を着た状態でコンビニやスーパー、ショッピングモールに寄り道することは禁じられている。保護者がいる場合は別だそうだが、中学生にもなってわざわざ保護者同伴で寄り道をするような生徒はいない。結果、大半の生徒がまっすぐ帰宅するのだ。そして俺と凛も乳酸のたまった足に鞭を打って自宅を目指す。
「買い食いしたい気分や」
「ああ、お腹が減った。で、何があった?」
どうやら無駄話をするつもりはないらしい。
「おかしくなったのは、……。違うな」
「何が? 何が違う?」
疲れた原因は月曜日、いや始まりは先週の金曜日からだった。
だが違う。
おかしくなったのは、その始まりはもっと前からだった。
――入学式だ。
あの日、目が覚めたら人類の髪色が無作為に変わっていた。
その前日までは日本人は黒髪か、珍しくて茶髪が普通だった。
それが、今はどうだろう。
まるでランダム。遺伝子や歴史を覆すレベルの改変だ。この世界はアニメの世界を投影したように狂ってしまった。
当然、最初は髪色の変化にも敏感に反応していた。
それが、今はどうだろう。
すっかりこの現実に慣れつつある。それは実害がでていないからだ。
ただ、完全に馴染んだわけではない。
このおかしくなった世界で俺は、疲れている。
「おい、おい! ケンゴ!?」
「――っ。あ、ああ。凛、なんや?」
「お前、様子がおかしい。明日は休め」
「大袈裟やな。大丈夫や、多分。それに普段から大袈裟な俺が無茶すると思うか? ないって、はは」
「まぁ、そう……か。ケンゴに限って、無茶はないか」
「そうやで、心配しすぎな」
「……。あと、これ」
凜が鞄に手を突っ込んで、出したものを俺の胸にトンとあててきた。ノートを胸に当てながら「ノート貸すからちゃんと書いてこい」と言って笑う。
ノートを三冊にプリントを一枚受け取って、リュックサックに入れた俺はありがとうと言って笑い返す。
「給食委員の仕事もきつい。もっと楽やと思ってたんやけどな。四時限目が終わってからは気を休めれる時間のはずやのに、配膳の様子を注視しとかなアカン。昼休みは仕事で半分以上時間潰れるし、先生から怒られる。現状を改善しろとか言われるしってか仕事なめんな的なこと言われるし。……正論やけどな」
げっそりとした俺の姿にお疲れ様と凛は一言かけて納得したように頷く。
「凜は風紀委員やったよな。どうなん、忙しい?」
「ボチボチ」
「はーん。ええな」
「じゃあ、風紀委員は楽しいん?」
特に深く考えた質問ではなかった。言葉の綾といった感じだ。しかし返答が中々返って来なかったので、夕日で朱色に照らされる彼の横顔が視界を埋め尽くす。
「いや別に、普通かな」
「じゃあ、風紀委員以外は?」
「……。別に、何も」
斜め上を見上げなら少し満足気な表情だ。何を思い出しているのだろうか。凛の片目しか見えない表情からは普通以上の生活を送れていることを物語っていた。
「何があってん、教えてくれよ」
「……。体育の後女子から……、タオルを借りた」
「……俺と変わってくれ」
「ケンゴも変わらんやろ」
それは俺も凛と同じでラブコメできていると言っているのか。だから変わらんだろうと?
「いやいや全然違うやろ! 多分それ八重のこと言ってるんかもやけど、あいつ毒舌で何考えてんのかマジでわからん! あれは好意とかじゃなくてもっと別のなんかやぞ! 恐ろしい」
「随分仲良くなったみたいで何より」
「……もう一度言うわ。変わってくれ」
「無理」
足元を見ながら歩く自分に影が差す。ハッとして顔を上げると、隣に並んで歩いていたはずの凜は数歩前を歩いていた。
× × ×
朝飯を済ませた俺は鏡の前で未だに寝ぼけた頭で歯磨きをしていた。歯磨きをした後は口をゆすぎ、そのあとにやっと水で顔を洗う。冷たい水がまどろみの中にいた俺を現実に無理やり連れてくる。
意識がようやっとはっきりしたので改めて鏡に映る自分を見つめてみる。いつもは
そのあと寝ぐせをドライヤーの熱風で押さえつけ、制服に身を包み、ネクタイを装着。ちなみに巻くタイプではない。
そうだ、昨日は凛からノートを借りたはずだ。今日も授業はあるのだからしっかりと返さないと。
自分の部屋はないので、いつもは食卓に勉強道具を広げている。しかし、朝飯のとき食卓には何もなかったはずだ。だからリュックサックに入れているはず。
「……? あれ、無い。……ない。 待って待て! 待ってくれ!?」
「もーー、何? 朝から何??」
「ちょ、母さん! 昨日ここに広げてたはずのノートとプリント知らん!? どこにも無い!」
「……? アンタがそこで勉強してたのは昨日じゃなくて一昨日とちゃうの?」
「はぁ……? いや、昨日帰ってきて凜から借りたノートを確かにそこで、って! ああっ! やばいやばい!!」
母さんのボケた頭に小言を言うよりも前に、テレビに映る時間をみて焦る気持ちが強くなる。
時刻は七時五十五分を表示している。
自宅から学校まで猛ダッシュで走っても、五分以上はかかる。俺は短距離なら速いが、長距離はダメだ。喘息がでてしまうから長い時間を走り続けることができない。
中学校の予鈴が鳴る時間は八時十五分。それまでに学校の門をくぐらないと遅刻扱いだ。
つまり、俺に残された時間は十分程度。
テレビに映し出されるのは星座占い。八時以降は別の番組に切り替わるのだが、それまでのギリギリまで星座占いの順位を一位から順番に告げていく。
「――双子座のあなた! 悩んでいる問題は友達の力を借りて乗り越えよう!」
「……。……?」
昔からの癖だろう。自分の星座を耳にしたとき、つい反射的に画面を見た。
一瞬、その一瞬だった。目に入った文字に頭が混乱する。
「……は? なんの冗談や、おい」
「ちょ、アンタ! 落としたものそれ私の! ちゃんと拾って元の場所になおしといてよ、もぉー」
凜のノートを探す最中に物をどかしていた。その際、母さんの私物をどかすために手に掴んでいたのだが、いつの間にか落としていたらしい。自分の足元で転がった大きいファイルをリビングのテーブル台の上に置く。
「……あ、ああ。ちょっと、母さん。最後に一つ教えて!」
「もぉー! 何!? 母さん忙しいんやけど?」
今からする質問は、馬鹿げている。大変。しかし、今テレビに映りだされていた文字は『(木)』と表示されていたのだ。
掠れる声に、喉の渇きを自覚しながら、絞り出す。
「――今日は、何曜?」
「今日? 疲れてんのやな。木曜や木曜! もう母さん先出るから、戸締りして出て行ってよ!」
「……あぁ、木曜。そうか、木曜日ね。行ってらっしゃい、母さん」
玄関の扉がガチャリと音を立てて閉まった。母さんはどうやら仕事に行ったみたいだ。
俺は家に一人、取り残された。
いや、家にではない。
世界に、わずか『一日』だけ、取り残されてしまったのだった。
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