第3話 

 職場体験を無事終わらせた悟たちだったがガソリンスタンドの方はそうはいかなかったようだ。職場の従業員の財布がなくなる事件が起き、清本はその処理でしばらく頭を抱えているようだった。

「絶対俺たちじゃないんだよ。職場の人間が俺たちの職場体験のタイミングを狙って仕組んだんだ」

清本はクラスの仲間を疑うことは最後までしなかった。公にはならなかったが吉見たちの判断で学校側から何か弁済が行われたのだろう。事件から1か月が経つ頃には自然とその話題はフェードアウトしていき、清本も棚田もそのことには触れなくなっていた。それよりも職場体験から2週間が経ったくらいの時だろうか。悟の周りで事件が起きた。そのことも職場体験の出来事を忘れさせることに少なからず影響したのかもしれない。


「やべ。忘れてた」

机の引き出しの中からしわくちゃになったプリントが1枚出てきた。プリントの中身は1週間前の音楽の授業で出された宿題だ。音楽の授業までもう時間がない。焦っている悟にそっと藤田は1枚のプリントを差し出した。

「悟君、宿題すっぽかすのこれで何回目?」

あきれながらも笑っている藤田は綺麗に回答が書かれたプリントを差し出した。

すでに何度助けられただろう。悟はありがとうと言ってプリントを書き写した。

「あれ。間違えてるぞ。ほらここ。フォルテッシモのところ、強くになってる。だんだん強くだから。直しておくよ」

「あ、ほんとだ。ありがとう」

全然大丈夫だよと借りている立場の悟は少し得意げになる。藤田はまじめだし賢い子だが少し抜けてるところがあった。おかげで助けられてばかりの悟も罪悪感が少なくすんだ。

「悟君はやればできるんだから頑張りなよ。私は助かってるからいいんだけど」

そんなことを言われながら必至でプリントを書き写していると教室の扉がバシッと開き吉見が入ってきた。

「2週間後の体育祭だけど。リレーのメンバー決めなきゃいけないでしょ。まだ決まってないのこのクラスだけよ。誰が走るの。はい!誰か立候補して!」

選手決めはかなりの難航を見せた。リレーにはクラス別対抗と組別対抗の2種目があった。特に組別リレーはうちの学校の体育祭の最後の種目、目玉競技だった。各学年の1組から6組までがそれぞれ協力してリレー対決をするというものだ。2年生だけで競うクラス別対抗はサッカー部や野球部などが早々に立候補し決まったのだが組別対抗が決まらない。先輩たち最後の体育祭に迷惑をかけれない、その思いからか誰も立候補しないのだ。帰宅部の俺は運動部の男子達の駆け引きを女子たちに紛れて傍観していた。

 吉見の眉間のしわがどんどん深くなっていくのに悟は気づいていた。お前やれよ、いやお前がやれよと最初は騒々しかった教室もついに誰も発言をしなくなり重い空気が流れ始めた。痺れを切らした吉見が口火を切った。

「高木、あんた50メートル何秒で走るの?」

「え、俺ですか。だいたい7秒前半ぐらいですけど」

「分かった。高木と清本は今日の放課後職員室に来なさい。次の授業音楽だったわね。みんな早く準備しなさい。音楽教室に間に合わなくなるわよ」


 放課後の職員室では吉見が待っていたがいつもよりどこか穏やかな表情をしていた。

「あなた意外と足速かったのね。リレー頼むわよ。清本、陸上部の練習に高木を連れて行きなさい。2週間もあれば0.1秒くらいはタイムも縮まるでしょう」

やるやらないの話ではもうなくなっている。

「はい!ボス!」

何故かノリノリで敬礼している清本に習って悟も渋々敬礼のポーズをとった。

職員室から出てすぐ清本が言った。

「俺が先生に言ったんだよね。悟も足速いっすよって。教室で名前が出た時のお前の顔、笑えたね」

清本はそういうと職員室の前の廊下を駆け出した。スリッパでバタバタ走る清本を見て悟はスリッパを手に持ち全力で追いかける。ちょうど50メートルくらい走りきったところでよろめく清本を取り押さえた。清本は肩で息をしながら笑っている。

「ほら、やっぱり速いじゃん。せっかくの体育祭だしさ、藤田に良いとこ見せようぜ」

「いやなんで藤田の名前が出てくるんだよ」

「だって悟、藤田のこと好きだろ?長年の付き合いだから分かるぞー」

「いや藤田には彼氏が」

「なんだそれ。じゃあ彼氏いなかったら好きなのかよ」

悟が黙ると清本は続けた。

「まあなんでもいいや。俺とにかく悟と走りたいんだ。いいだろ?」

「・・・分かったよ」

理性の追いつかない悟は生半可な返事をした。


 次の日の朝、空はびっしりと雨雲で敷き詰められていた。久しぶりに大雨が降っている。傘を差していても肩口の方が濡れるほどだ。悟は昨日の清本との会話がまだ頭の中でぐるぐる回っていて消化しきれないでいた。

いつも話してるはずの藤田に会うのにも妙に緊張する。いつもより長く感じる教室までの廊下をだらだらと歩いた。藤田はもう窓際の一番後ろのいつもの席に座っていた。傘立てに傘を置き悟も自分の席に向かった。

「藤田。おはよう」

なるべくいつものトーンを心掛けたつもりだったが少しぎこちなくなっていたかもしれない。

「おはよう」

悟の緊張が移ったのかなぜか藤田の声に少し違和感を覚えた。だがこの違和感は時間が経つにつれ徐々に悟の中で強まっていった。藤田となぜか会話が弾まない。昼休憩もいつもなら藤田の方から話しかけてくるのに今日はそれもない。なにかおかしい。悟の中で違和感が確信に変わり始めた頃、棚田が声をかけてきた。

「高木君。今ちょっといいかな?」

棚田に言われるがまま廊下に出る。棚田が口を開くより先に悟が口を開いた。

「藤田のことだろ。なにがあった?」

「沙耶香ちゃん、白木君と別れたって」

棚田は詳細を話し始めた。昨日の放課後、悟が清本を追いかけていたころだ。白木が突然別れを切り出したらしい。

「お前のことなんか別に好きでもなんでもなかった」

悟が1年の時に揉めた不良グループの中に棚田を好意に思っている人がいたらしく、白木は不良グループに情報を流すため棚田と仲のいい藤田に近づいたというのだ。

 悟は棚田の話を最後まで聞き終わる前に白木のいる教室の中に戻った。白木が教室の一番前の教壇のあたりで他のサッカー部数人と談笑しているのを見つけると速足で白木の目の前まで歩み寄った。

「なんだよ」

白木は怪訝そうな顔で悟を見た。両こぶしをポケットの中でぎゅっと強く握った悟は、小さく息を吐くと白木の顔めがけて思い切りそのこぶしを降り抜いた。右こぶしはジーンと痛み、身体も少し震えるのを感じる。白木は左頬を抑え少し後ろに後ずさりしてしゃがみこんだ。白木がペッと吐いた唾には血が混じっていた。口の中でも切ったのだろう。むくっと立ち上がった白木が今度は右こぶしを悟に向けて降り抜いた。悟の眼鏡が宙を舞った。眼鏡が外れて景色がぶれる。そこからは無我夢中だった。悟と白木が揉めているのに気付いた清本が慌てて仲裁に入ってくれその場を収めた。

 次の授業は自習に変更となり悟と白木は吉見から呼び出しを受けた。生徒指導室と書かれた看板が掛けてある部屋の中で白木と並んで立った。そこでは吉見から終始、喧嘩の原因を聞かれたが藤田を巻き込みたくなかったのもあって理由は話さなかった。最終的には吉見の判断でそれぞれにペナルティが課せられた。白木は1週間の部活停止、悟は1週間の自宅謹慎となった。悟の方が罰が重いのは悟から手を出したからだった。喧嘩の理由を話せば何か変わったかなと少し思ったがそれでも黙っていた。吉見の話は1時間くらいで終わり悟は解放された。教室までの廊下で白木と会話はしなかった。生徒指導室で形式上の謝罪の言葉は述べたが、まだ白木を許してはいなかったからだ。教室に戻ると暗い雰囲気を変えようとしてくれたのか授業中にもかかわらず清本が机の上で「そんなの関係ねー」と叫んでいた。

教室に戻った悟たちに気付いて清本は言った。

「何やってんだよお前ら!」

「お前こそ何やってんだよ」

「え?今週のエンタの神様見てないのか。小島よしおだよ。あとほら悟、これ」

清本から眼鏡を受け取ると少し歪んでしまった眼鏡をかけ自分の席へと向かった。隣の席にはいつも通り藤田がいた。藤田は窓の方を向いたまま小さな声で「ありがとう」と言った。


 1週間の謹慎は1か月の夏休みより長く感じた。自分だけがいない学校。居場所がなくなっていく不安が付きまとう。テレビから流れる『笑っていいとも!』と『ごきげんよう』をBGMにしながら1週間分の課題に手を加えていく。勉強で遅れをとりたくなかったから課題にはまじめに取り組んだ。

「みんなどうしてるかな」

棚田に白木に清本、みんなの顔が浮かんだが一番に藤田の顔が浮かんだ。ありがとうと言った藤田。それ以上会話を交わさなかった。顔も見ていない。だから気になるのだろうか。気づけば時間だけが経っていた。外から小学生の男の子の下校する声が聞こえてきた。時計の針が16時を指す。家にあったチョコを1つ食べ小さく息を吐き、再度課題と向き合ったときインターホンが鳴った。誰だろう。今日初めて自分の部屋から出る気がする。玄関のドアを開けるとそこには清本がいた。

「吉見が様子見てこいっていうから来たけど意外と元気そうじゃんか。安心した。でもお前のことだからどうせずっと家から出てないだろ。今度の日曜日遊びに行こうぜ。観たい映画があるんだよ」

いつもと何も変わらない清本に安心した。一人で考え込む時間が長かったこともありなんでもいいから誰かといたかった。二つ返事で遊びに行くことに了承した。

 翌日、駅前にある地元の人間が待ち合わせ場所として使う『釣り人』とよばれるオブジェまできていた。午前9時30分、集合時間より30分早く来てしまっていた悟は釣り人が見える位置にあるいつ撤去されてもおかしくなさそうな古いベンチを見つけて腰掛けた。休日の駅前はいつもより人の往来が激しい。釣り人の周りにも誰かを待つ人で溢れていた。無表情で携帯を眺めている人たちが待ち人が来るとパッと笑顔になる。そんな光景を見ながら自分は今どんな顔をしているだろうかと思った。

「高木君、難しい顔してどうしたの?」

心の中を見透かしたかのように話しかけてきたのは棚田だった。この人はなんでいつも突然現れるんだろう。心拍が急に早まるのを感じながら棚田の目を見つめた。

「今日観る映画って何か聞いてる?清本君何も教えてくれてなくて」

映画の内容どころか誰が来るかも聞かされていなかった悟は返事に困った。棚田は返事は待たずに隣に座った。

「私いつも待ち合わせの時間より早く来ちゃうの。だからいつもは誰かを待ってることが多いんだけど今日は高木君がもういるからびっくりしちゃった。誰かが待ってるてこんな感じなんだね」

誰かを待たせてしまう罪悪感が嫌でいつも集合より早く着く。きっと棚田も同じなんだろう。だとしたら棚田は今その罪悪感を感じたのだろうか。そして自分はいつも相手に罪悪感を与えていたのだろうか。悟は自然と嘘をついた。

「ごめん俺、集合時間。間違えてて・・」

棚田はいつもと変わらない笑顔でそっかと言った。何も疑わないその無垢な笑顔を可愛いと思った。棚田さん、俺は君に聞きたいことがたくさんある。話したいことがたくさんある。いつも思いは溢れるのになぜか言葉は出てこない。

少しの沈黙の後に棚田が言った。

「みんな待ってるよ高木君のこと。高木君がいないとって」

みんななんていい。そんなことより聞きたかった。

「棚田さんはどうなの?棚田さんは俺に早く戻ってきてほしい?」

なんて気持ち悪いことを聞いてしまったのだろう。考えるより先に言葉がついて出た。棚田は少し驚いたのか目を見開いたように見えたがすぐいつもの笑顔に戻って言った。

「うん。早く戻ってきてほしいかな」

欲しい言葉だった。でも足りない。もっと話したい。一人焦る悟の頭をゴツゴツした手の平が覆った。清本だった。

「悟、相変わらず集合早いんだよ。棚田さんもゆっくりで良いって言ったのに」

「清本、棚田さん来るのなんで言わないんだよ」

「ごめんごめん。言ってなかったな。あ、あと藤田のことも誘ったんだけどなんか用事があるみたいで行けないって。ごめんな」

清本は両手を頭の上で合わせて謝罪のポーズはしているが顔はニヤニヤとふざけた顔をしている。悟は清本の頭をスパンっと叩いた。

 清本の提案で観ることになった映画は細田守監督の『時をかける少女』だった。主人公の少女がタイムリープという特殊能力を使うことでかけがえのない時間に気づく青春SF映画だ。駅前の映画館を出たところにあるマクドナルドで映画の感想を3人で話すことになった。

「二人は戻ってやり直したいことってある?」

「俺は過去は振り返らない。それよりもこれからの未来の方が大事だから」

棚田さんの質問に清本はカッコつけて答えて見せた。悟は棚田と清本の3人で映画館に向かう道中ですでに気づいていた。これは清本が棚田と遊ぶための口実に自分のことを利用したと。クラス委員として責任感の強い棚田の優しさを利用したと。

いつもこいつはズルい。でも誰もこいつのズルさに気づいてない。でも俺はこいつのズルさに気づいている。悟が一人ふつふつと嫉妬心を燃やしていると清本が言った。

「俺小学校の時に隣町から転校してきたんだ。やり直したいってわけでもないんだけど、もし転校しなかったらってのは考えることがあるな」

意外だった。清本が転校してこなかったらなんて考えたことがなかったからだ。清本がいなかったら今のこの時間もないし、もっと言えば悟は全然違った人間になっていたかもしれない。悟は咄嗟に言った。

「今の方が絶対良いだろ」

「なんで悟が言い切るんだよ?転校してくる前の俺のこと何も知らないだろ?」

「それは俺が、お前がいてくれてよかったって思ってるからだよ」

自分でも思いのほか大きな声が出てしまい尻すぼみになりながら言った。清本は飲んでいたコーラを吹き出しそうになったのを堪えむせかえっている。棚田も悟に続いて言った。

「私も清本君がいてくれてよかったって思うよ」

清本を見る棚田の横顔は少し赤らんでいるように見えた。それは悟がいつも見ている笑顔とはまたすこし違っていて、どこか優美で綺麗だった。


 謹慎が明けた。謹慎中に梅雨も明け晴天の日が続いていた。今日は今年に入って一番暑い日になると朝の天気予報で聞いていた。登校する生徒の中には半袖に衣替えしている生徒も増えている。長袖で家を出た悟は腕まくりをした。早く学校に行きたい思いからいつもより足取りは軽い。下駄箱までたどり着くと緊張と気温で少し火照った首筋に、手にとったシーブリーズをつけて気持ちも体温も落ち着ける。息を整え教室のドアを開けたがその緊張は不要だったようだ。拍子抜けするくらい教室はいつもの2年2組のままだった。

「悟君、久しぶり。3人で映画に行ったって聞いたよ。私も行きたかったな。悟君がちゃんと課題やってるのか心配だったし」

藤田は前の元気な藤田に戻っていた。悟は吉見から与えられた大量の課題を藤田に見せた。

「すごい。全部ちゃんとやってる。しかもこれ私たちがまだやってない範囲のプリントもあるよ」

えっ。吉見に騙されていることに今の今まで気付かないでいた。遅れを取れない思いで必死に課題に取り組んでいたが1週間の授業で到底進むはずのない範囲まで課題が出されていたのだ。冷静に考えれば分かったはずなのに。藤田の言葉に唖然としていると吉見が教室に入ってきた。悟は走って吉見のところに詰め寄った。

「先生ひどいですよ。なんでこんな先の課題までやらしたんですか。もともとは俺が悪いですけどこれはあまりにもひどいですよ」

強い口調で抗議した悟に吉見は意外にも淡々と返答した。

「大事なことを忘れてるんじゃない?あなたこれから1週間勉強どころじゃないでしょう」

俺がきょとんとしていると後ろから肩を叩かれた。振り返るとそこには顔の横あたりで親指を立て笑う清本がいた。俺は大事なことを思い出し叫んだ。

「リレー!」

その日の放課後から1週間、体育祭にむけての陸上部での地獄の強化トレーニングに参加させられることになった。

「2週間で仕上げるところを1週間だからな。倍のメニューをこなしてもらうよ」

ただでさえ帰宅部の悟が陸上部の通常メニューをこなすだけでも大変なのに悟のために考案された超強化特別メニューが設けられていた。意味があるのか分からない重りを両足首に取り付けられ、ある時は終わりの分からない200メートル走をひたすら走らされ、またある時は学校の裏にある心臓破りの坂をまさに心臓が破れるんじゃないかというところまで走りこまされた。一緒に練習をしていた清本ですら根を上げるほどだ。案の定、悟は吉見の予想通り授業を爆睡するのであった。

 体育祭の前日、各学年の2組のリレーメンバーとの顔合わせが行われた。2組の団長でありリレーのアンカーを務めるのは吉澤だった。

「眼鏡君。聞いたよ、白木と殴り合いの喧嘩したって。言っただろ。思ってることはちゃんと話さないと。でもまあ少し見直したというかやるじゃん。リレーの方もよろしく頼むよ」

この人のためにも変な走りはできない。身が引き締まるのを感じ、吉澤の言葉に小さくうなずいた。その日は当日に備え練習はなしとなりまっすぐ家に帰った。その夜は緊張でなかなか寝付けないかと思ったがそれ以上にこれまでの練習の疲れが溜まっていてすぐ眠りにつくことができた。

 体育祭の当日はこれでもかというくらいの晴天に恵まれた。応援団の声援に後押しされグラウンドはすごい熱気に包まれていた。自然と胸は高揚する。砂埃が舞うグラウンドと汗で髪も軋む。競技がひとつまたひとつと終わるたび緊張感が高まり手に汗をかくのも感じた。例年では考えられないくらい各クラスの白熱した戦いが続き、クラス別対抗リレーが終わった段階で各クラスの得点は横並び、優勝は組別リレーの勝者で決まるという状況までもつれ込んだ。リレーメンバーは選手入場ゲートの前に集合していた。小澤が言った。

「みんなもうわかってると思うけど、このリレーで勝ったクラスが優勝だ。俺は勝ちたい。みんな勝とう。このメンバーで。絶対だ」

この人を勝たしてあげたいと思うのと同時に今日ある人に勝ちたいと思ってここまで来た事を悟は考えていた。横に立っている清本に言った。

「清本。俺お前に言わなきゃいけないことがある」

「なに?今?」

「お前俺に言っただろう。俺が藤田のこと好きだって。違うんだ。俺が好きなのは棚田さんなんだ。俺お前に負けないから」

清本は返事をしなかった。オレンジレンジのイケナイ太陽が流れた。入場の合図だ。悟たちは一斉にグラウンドの真ん中に向かって走り出した。アナウンス部の声がグラウンドに響く。

「負けられない戦いがここにある!」

アナウンスが叫ぶテントの方を見て言った。

「松木安太郎は来てないみたいですね」

誰一人として笑わなかった。サッカー部の小澤もフォローしてくれないし、清本も何も言わない。それだけ緊張感は極限だったかもしれない。スタートラインの白線の前に1年生が一列に並ぶとさっきまで騒がしかったグラウンドが徐々に静かになる。並び終えた数秒後にピストルの空砲がパンっと鳴った。選手が一斉に走り出す。

「行けー!」

「頑張ってー!」

「走れ走れ走れ!」

静まっていたグラウンドが一気に湧き上がる。

「トップは!トップは1組です!速い!独走状態だあ!追いかけるのは2組です!頑張れ!」

アナウンス部の実況が響く。

1年の二人が走り終わった段階で1位の1組とは大きな差ができていた。スタートラインに立つ清本を最前列で見た。清本の元にヘトヘトになっている1年がなんとかたどり着く。

「すみません」

「よくやった!」

短い言葉と共にバトンが清本に渡った。清本の走りはまさに圧巻だった。砂埃を巻き上げ猛追する清本の走りは今までの誰よりも圧倒的な速さで、まさに陸上部のエースと思えた。女子たちの悲鳴のような歓声がグラウンドを埋め尽くす。半周近くあった1組との差はみるみる縮まりついに背後を捕らえる位置のところまで迫った。スタートラインに立つ悟の元に清本がどんどん近づいてくる。長い付き合いだがこんな必死な顔の清本を初めて見た。俺はこいつに勝つと宣言した。今まで何も頑張ってこなかった自分が。不用意な自分の発言が急に恥ずかしくなった。清本はもう目の前だ。たじろぐ悟にバトンを渡す瞬間、清本は声を振り絞り言った。

「俺たち負けないよな」

「当たり前だろ」

悟は考えるのをやめた。この繋がれたバトンを先輩へ。今できることはそれだけだ。もうただただ必死で前の背中を追った。離されないように。第3コーナーを曲がる手前で2組のテントが目に映る。棚田、藤田、白木に吉見、みんなが応援している姿が見えた。負けたくない。負けたくない。負けたくない。負けたくない。目を閉じて全力で走った。

「くそっ」

左後方から小さく声がした。それと同時に今までで一番の歓声がグラウンドを包んだ。目を開けるとそこにはもう誰の背中もなかった。抜いたんだ。先輩の待つスタートラインがどんどん近づく。目一杯右手を伸ばしてバトンを差し出した。

「ありがとな」

先輩の優しい声が聞こえた。






 



 

 










 






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る