仮面の奥

 彼女の本心に気づいたのは、いつ頃だっただろうか。

 引き返すには少し、遅すぎたことを覚えている。


「佐藤さん、この企画書、チェックしていただけますか?」


 鈴木涼香。

 入社二年目の彼女は、社内でも評価の高い優秀な新人だ。

 真っ直ぐな瞳で僕を見つめる彼女の手には、分かりやすく整えられた企画書が握られていた。


「ああ、もちろん」


 そう答えながら、僕は彼女の左手が微かに震えているのに気付いた。

 誰も気付いていない。

 いや、気付けない。

 彼女の完璧な仮面の下に潜む不安を。


 入社して間もない頃、重要なプレゼンで彼女が大きなミスをした時、僕は咄嗟に介入してその場を取り繕った。

 それ以来、彼女は何かと僕に相談を持ちかけるようになった。

 最初は純粋な後輩と先輩の関係だった。

 そう、最初は。


「佐藤さんは、優しすぎますよ」


 ある日、彼女はそう言った。

 その目は、どこか虚ろで、でも深い感情を湛えていた。


「みんな佐藤さんに甘えすぎです。特に営業部の山田さんなんて……」


 その言葉には、どこか刃物のような鋭さが感じられた。

 確かに、同僚の女性社員である山田さんとは先日、取引先との打ち合わせで一緒に食事に行った。

 だが、責められる謂れなどないただの会食だ。


 ところが次の週、山田さんが担当していた大口案件で問題が発生した。

 提出した見積書に明らかな誤りが見つかり、取引先から厳しいクレームが入ったのだ。

 社内は騒然となり、山田さんの評価は急激に下がった。


 その時、美咲の机で見かけた資料の束。

 僕は目を逸らした。

 確信はあった。

 だが、確かめることが怖かった。


「佐藤さん」


 今日も彼女は美しい笑顔で僕の元にやってくる。

 でも、その瞳の奥に重苦しい感情が秘められているのを、僕は感じ取っていた。


「この週末、お時間ありますか?」


 彼女の声は、いつもより少し低く、切実だった。


「私……佐藤さんしか信じられないんです」


 震える声。

 でも、強い意志が感じられた。


「誰も分かってくれない。でも、佐藤さんは違う。私の全てを……」


 言葉が途切れる。

 オフィスの空調の音だけが、異様に耳につく。


「僕は……」


 どう答えればいいのだろう。

 彼女の歪んだ愛情を否定すべきなのか、それとも――


「分かっています」


 彼女は僕の言葉を遮った。


「今は答えを求めません。ただ、そばにいてください」


 それは願いか、警告か。

 もはや区別がつかない。


 僕は黙ってうなずいた。

 これが正しい選択なのかも分からない。

 オフィスの灯りが、僕たち二人の影を床に落としていた。

 少しずつ重なりながら、そして決して完全には重ならないまま。

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