ケイトの慟哭
ケイトは教会の床に倒れ込み、慟哭していた。
幼い時から近隣の貴族の子供で集まる時にビルと一緒にいて、彼を好きになった。
彼から告白されていずれ結婚しようと言われた時はどんなに嬉しかったか。
ビルは王都の軍学校で学び、近衛軍に仕官するも、両親が流行病で亡くなるとそれを辞めてこの地に戻ってきた。
暫くすればビルとここで仲良く夫婦として暮らしていくつもりだった。
ところが飢饉で領地が荒れ果て、領民や家臣が飢えていた時に、ビルは近衛軍に戻って稼いでくると言いだした。
ケイトは引き留めたが、
「この故郷を豊かにして、君や生まれてくる子供、家臣達が安心して暮らせるようにするのが領主のオレの仕事だ」
と言われて見送らざるを得なかった。
軍務で次々と手柄を立て、めきめきと頭角を現すようになったビルはどんどん褒賞金を送ってくるが、それとともに危険な任務に行かされることが増える。
ビルが戦争に出かけている間、ケイトはひたすら教会で祈っていたがいつ戦死の知らせが来るかと生きた心地がしなかった。
このままずっと心配を続けていてはおかしくなってしまう。
もう軍を辞めて戻ってきてと何度も頼んだが、もっと手柄を立てて大きな領地を貰うまで頑張るとビルは言い張ってきかなかった。
しばしば大きな負傷をして戻ってくるビルを見るとケイトの胸は張り裂けそうになる。
その頃からケイトはビルが戦争に行く時に心配から逃れるためにしばしば隠れて酒を飲むようになった。
ある時、ケイトを酒を飲んでいるところをサムに見られたが、サムは酒に付き合ってくれて、彼女の心配を労ってくれた。
そのままつぶれるまで飲んで、何処かに連れていかれる。
気がつくと、誰かが上に乗って、身体を弄っていた。
「いや、やめて!」
しかし、身体の自由が効かない。
ビルのための私の初めてが奪われる!
悪夢のような時間が過ぎると、サムがいやらしく笑ってベッドの隣にいた。
「もうお前は俺の女だ。
このことをビルに言われたくなければずっと俺に抱かれろ」
最初は身体が穢れるような思いをして抱かれていたが、やがて酒の代わりにサムと肉欲に溺れている間はビルのことを心配しなくていいことがわかった。
ビルが戻ってきて顔を合わせるたびに心が苦しくなる。
ビルは目覚ましい昇進を遂げ、今や国軍随一の優秀な若手将官となった。
困窮しているところをビルに雇ってもらったサムは感謝するどころか逆恨みし、ケイトを寝取ったが、ビルに知れれば一刀のもとに斬り捨てられる。
ビルが戻ってくればへこへこと機嫌を取るサムは、ビルがいなくなるとすぐにケイトを呼び出し、その鬱憤を晴らした。
サムにとってケイトは劣等感を救う道具だったが、ケイトにとってもサムはビルの不在の心労を紛らわせる道具に過ぎず、二人に愛情など少しもない。
ケイトはビルが戻っている間はベッタリと一緒にいて、サムなど見向きもしなかった。
裏切りが明るみに出た今、勿論ビルにその言い訳が通じるとは思わない。
婚約を延ばしたのはサムと切れて、きれいな身体になってからというせめてもの彼女の良心の呵責だったが、今となれば、正式に婚約しておけばその解消に時間をかける間にビルに少しでも弁解できたかもしれない。
(サムとはビルが戻ってくるまでの遊び、道具よ。遊びの時に話を合わせていただけ。
愛しているのはビルだけよ。
結婚すれば貞淑な妻として彼の世話をして、子を産んで彼のために暖かな家庭を作るつもりだったのに)
ケイトは、両親を亡くした彼が親族や家臣など身近な人を大事にし、暖かな家庭に憧れていたことをよく知っている。
困窮を救ってくれたビルを裏切るサムとその親を軽蔑していたが、一番悪いのは彼の愛を裏切った私だ!
ケイトはたくさんの買ってもらった宝飾品の中で、最もみすぼらしいネックレスを着けていた。
これはビルが最初の任務を果たしたときの報奨金を使って買ってくれたものだ。
その時はあちこちに包帯を巻いた彼を見て大泣きして、それから一緒に勝利の女神にお礼のお参りに行き、その後に照れて赤い顔をした彼から渡された。
そして所領を立て直せる目処が立てば結婚しようとプロポーズされて、真っ赤になって頷いたのだ。
その後も色々な物を買ってくれたが、ケイトはこのネックレスだけは肌身放さず持っていた。
これがあればビルは帰ってくると思っていたのだが、自分の愚かな行いですべてはぶち壊れてしまった。
でも、と彼女は心で思う。
ビル、あなたも悪いのよ、あなたが貧乏男爵で下っ端の士官だった頃は、家臣達はみんなあなたの身を案じ、一生懸命に所領の管理や節約をして、少しでもいい装備が買えるようにと仕送りしていたのよ。
それがあれよあれよと手柄を立てまくり出世していくと、逆なたくさんお金を送ってきたわね。
あなたは貧乏暮らしで苦労をともにした身内にベタ甘だった。
そうするとお金に慣れていないみんなは、あなたを金を産む鳥のように思い、甘いあなたを侮って堕落していったわ。
そう、軍に戻らなければよかった、手柄なんて立てずに貧乏男爵のままの方が良かった。
そうすればビルと私は夫婦となってここで暮らし、叔父さんやサムやうちの家族もまともに働いて、家臣も忠実に仕えていたわ。
ビル、みんなを甘やかせたあなたが悪いのよ。
泣きながらそんなことを考える彼女の周りでは、サムが青い顔で呆然と突っ立っていた。
そして、このままでは無一文、いや、巨額の借金を抱えることになるサムの両親とケイトの家族がサムとケイトを責めながら、何とかビルを宥められないか相談している。
教会の外では兵に屋敷を追われた執事や従僕たちが家族を連れて、後悔の言葉を呟き、泣きながら歩いている。
そして、ビルが領地に戻って来るところで赦しを乞い、なんとか元の地位に戻らないかを語り合っている。
ダメよ、ビルのあの顔は不退転の決意を決めたとき、もう私達には彼を裏切った対価を払い、それにふさわしい破滅の道を歩くしかない、ケイトはそう思った。
そのとき、王政府の役人がそこに到着した。
「貴様たち、ここは王政府の直轄地となった。私が代官である。
これまでのリッジス家の家臣はこの地からすぐに出て行け!」
伯父達や家臣は仰天した。
これではビルは戻ってこない、もはやビルに赦しを乞うこともできず、無一文で当てもなく彷徨うことになる。
「ビル様、いやリッジス将軍様は何処に行かれたのでしょうか?」
執事が恐る恐る訊ねる。
ケイトも聞き耳を立てた。
「リッジス伯爵は王陛下に大きな所領を頂いている。
こんな狭く貧しい土地など不要だということだ。
私もこんなところの代官など早く代わりたい。
さあ、徴税成績を上げて、もっと豊かな土地に変わるぞ。
お前たちのうち、優秀な者は私の元で税の取立て人をやらしてやってもいい、さもなくばここを出ていけ、どちらか選ばせてやろう」
いかにも酷薄な顔をした代官が言い放つ。
これまでこの地ではビルの意向で他よりもはるかに軽い税しか取っていない。
それを当たり前として感謝もしていない領民は、重税となれば強く反発するだろう。
この男ので税の取立て人になればこき使われ、反対する領民との間に挟まれて大変な苦労をすることは明らか。
しかし、当てもなく放浪するよりはマシだと、執事たちは暗い顔で取立て人になることを誓う。
税の取立て人の仕事は過酷だ、時には反抗した民衆に殺されることもある、もちろん給与は雀の涙。
これまでのんびりと豪華な館で寛いで贅沢三昧にしていた暮らしとは比べ物にならない。
これからはずっとビルを裏切ったことを後悔し続けるのだろう。
それを見ていたケイトは彼らも自分も自業自得とすべてを諦めた。
もちろんクズのサムの妻になるなど考えていない。
残る人生を修道院でビルのために祈りを捧げて、もし叶うならばビルに会って一言でも詫びたいということだけを願った。
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