其の漆
では、何を探していたのだと問われれば。
男はこう答えたのだという。
女の
◇◆◇
大貴族の屋敷が集中する区画は、あいにくと
そこで、彼はその区画の周辺を避け、いったんは土地勘のある、五条の方面へと逃げたというのである。
だが、夜警の多い区画を避けた結果の、ある種の必然だとでもいうべきか。
彼の行く手を
当然ながら、野盗たちには女を置いていくようにと要求されたが、鷲男は夕顔を背負ったまま、ほうほうの
そうして、ひたすら
無意識にでも、野盗に対抗できうる検非違使のもとへ、駆け込もうとしたのかもしれなかった。
幸いにも、背に負う姫君はまだ眠っている。
もしも検非違使たちに不審がられたとしても、背負っているのは妻か妹だとでも答えよう。
そんなことを考えながら、鷲男はようやく背中の女を振り仰いだ。
すると、どうしたことだろう。
女が、全く息をしていないように思われた。
鷲男はすっかり慌てふためき、大路の往来で、恐る恐る女を地面に下ろしてみたという。すると、どうやら女は右の首元から背にかけて、ばっさりと
すっかり動転した鷲男は、つい女を置いて逃げてしまった、とのことだった。
だが、冷静になって考えれば、女は本当に死んでいただろうか。
もしもまだ息があったのなら、手当をすれば助かるのではなかろうか。
後になってそう考えた鷲男は、女を置いてきてしまったあたりに戻ってきたらしい。だが、探せども探せども、女の姿はどこにもない。
そうして、朝から
「やうやう夜も明けゆくに、見ればて
「結末まで『
『芥川』では、女の悲鳴は雷雨にかき消されてしまい、男は背後の
夜警に当たっていた検非違使たちも、その頃には軒並み廃院の方へと集まっていたわけである。明らかに異状な有りさまの女を背負う不審な男は、誰にも
夕顔は、まだ生きているのかもしれない。
そう期待していた脩子たちからすれば、何ともやりきれない結末である。
二人がいるのは、廃院からほど近い大通りだった。
鷲男が、夕顔の身体を置いて逃げてしまったという道である。
通りに面している屋敷の、立派な門戸の向こうには。
その向いにあるのは、あいにくと住むものがいなくなったばかりの屋敷だった。
屋敷の主人が、先月に出家してしまったばかりなのだという。
「……ねぇ、ものすごく後味の悪いオチが見えるのだけれど」
「…………
右大臣邸の門前に置かれた、女の遺体。
それをもしも、右大臣邸の誰かが発見してしまったとしたら。
「たぶん彼女の遺体は、右大臣どのの指示によって、どこかに
光る君は、そう苦々しげに顔を歪める。
それはそうだ。右大臣自身が、
彼はあくまでも、使用人に命じて遺棄させただけに過ぎないのだろう。
遺棄を実行させられた使用人を
本物の夕顔の遺体は、どこぞの
「ねぇ。せめて、夕顔の遺体のありかを聞き出しつつ、ついでに右大臣にも、多少の罪悪感を植えつけてやるくらいはしようと思うのだけれど……きみも、乗る?」
光る君は、脩子の言葉に少しだけ目を
それから光る君は苦笑して、脩子の顔を覗き込んだ。
「僕、口ではいつも、色々なことを言いますけど……。いつだって、気にしなくていいんですからね? 宮さまはお心のままに、ご自分の正しいと思うことをなさって下さい。僕も、ちゃんとお
◇◆◇
夕顔の遺体は、京の
そのことを聞き出せたのは、その日の
光る君は、すぐさま検非違使たちに、遺体の捜索に当たるよう指示を出す。
何ともやるせない幕引きだが、脩子にも、光る君にも、これ以上できることは何も無かった。あとはもう、
脩子と光る君は、冷え切った体を
二人が行ったことはといえば、本当にたいしたことではなかった。
ただ、夕顔の亡霊を演じて、右大臣邸を出入りする者を、片っ端から
脩子は、淡青色の
光る君は黒子として、側で
だが、これがまぁ
普通ではあり得ない色をした炎に、彼らはたいそう
その中でも、とりわけ尋常ではない
脩子は右大臣へのささやかな置き土産として、使用人にそっと耳打ちした。
「
それからはもう、右大臣邸では太鼓がドンドコドンドコ、野太い
個人的には、いまいち物足りないところだが。
物の怪を心から信じるこの時代の人間たちは、あまりやりすぎると本当にショック死しかねないのである。
人は思い込みで心身を病み、想像力で死んでしまえる生き物だ。この辺りで手打ちとするのが、適当な
あまりにも後味の悪すぎる幕引きに、二人は言葉少なに、帰路を歩く。
何だかこのまま一人になるのは
酒は
だが、この後味の悪さを呑み下すのにも、冷え切った身体を暖めるのにも、酒は確かにちょうど良かった。
光る君も、そんな脩子の思惑を
彼は苦笑して、小さく頷いたのだった。
屋敷に戻れば、すっかりと人も寝静まっている。
二人がいつ戻ってくるかも分からなかったからなのだろう。
掛け布をめくってみれば、小鉢に載っているのは蒸し
「あぁ、今日も雪が降り始めたみたいですよ。雪見酒と
「じゃあ、
着丈の長い
脩子は
それから、膳と酒、火鉢や
ちらちらと舞い始めた雪の中で、月は
冴えた月光に照らされた庭を眺めながら、脩子と光る君は静かに
たちこめる清酒の甘やかな香りに、喉から胃の
冷え切った身体に、酒がじんわりと
やるせなさを呑み下すために、こんな日は、酒の力を借りたっていいだろう。
気心の知れた相手と、酒精でぼやけた頭をゆるく回転させて喋りながら、
それから、二人はどれくらいの間、盃を傾けていただろうか。
「……私は、
静かにそう告げれば、光る君は小さく目を
それから、彼は簀子に盃をコトリと置くと、肩を竦める。
「えぇ、知ってます」
「それじゃあ、きみは私に、いったい何を求めるって言うのさ」
「それはもちろん、正妻の座を。僕、妾は持たないつもりですから」
「……そんなの、無理だろうに」
この時代、政治と
多くの家との結びつきを持ち、宮中での顔を広げることは、政治力に直結するのだ。妾妻を持つなというのはすなわち、貴族社会での出世を捨てろと要求するようなものだった。
おまけにいえば、後ろ盾を持たない彼にとって、政争の中での味方づくりさえもを
彼自身、それを分かっていないはずもないだろうに。
言外にそう匂わせながら、脩子は光る君をじっと見つめる。
光る君は困ったように、小さく苦笑したようだった。
「えぇ、だからこそですよ。僕が正妻のほかに、
光る君は静かにそう言って、再び盃を傾ける。
それから、とろりとした
「僕はそろそろ、兄上の地位をおびやかす意思はないのだと、右大臣方に示したいとも思っているんですよ。いい加減、命を狙われるのもこりごりですしね」
光る君は盃の月を一呑みに
「つまり、宮さまに
彼はそう言って、黒曜石みたいな
だが、その目に迷いはなく、そこには大真面目な意思だけが浮かんでいる。
「……だけど、私は本邸を追い出されたような皇女だぞ。きみが政争に巻き込まれてしまった時、後ろ盾としては弱すぎる」
「でも、たとえば僕が、濡れ衣を着せられて
光る君は冗談めかした物言いで、くつくつと
「『家』としての後ろ盾は弱くても、そういう基盤を僕に築かせてくれたのは、他ならぬあなただ。そうでしょう?」
光る君はそう言うと、柔らかく目を細めて微笑んでみせる。
「立身出世なら、他家との結びつきなんかに頼らずに、自分の身ひとつでやってみせます。そりゃあ、あなたが僕に、
脩子はといえば、問いかけの文末には答えずに、ただ静かに盃を
白い吐息がふわりと広がり、夜の闇に消えていく。
光る君もまた、視線を庭へと戻して、しんしんと降る雪を眺めたようだった。
しばらくの沈黙ののち、光る君は再び口を開く。
「……人というのは思いの
立身出世のため、財を得るため、嫉妬や復讐といった、愛憎のため。
あるいはもっと、別の理由のために──。
彼はどこか遠くを見るような眼差しで、ぼんやりと庭を眺めながら苦笑する。
その横顔を盗み見ながら、脩子はただ静かに、彼の言葉に耳を傾けていた。
「あなたは昔、『和歌のやり取りをするだけで、どうやって相手の性格や人となりを知れというのか』だなんて言っていたけれど……。今なら少し、分かるような気がするんです。確かに和歌の贈答じゃあ、相手の人格までは
光る君は脩子にちらりと目を遣り、小さく肩を竦める。
「人は存外かんたんに、人を殺そうと
いざ結婚してみるまで、相手の人柄も分からないなんて、そりゃあ恐ろしいですよね。そう言って、光る君は少しだけ、声を立てて笑う。
それから光る君は、今度は真っ直ぐに脩子を見つめた。
その目には
「だけど僕は、あなたのことなら、よく知っています。あなたは人を、殺したりしない」
「……そんなこと、分からないじゃないか」
「分かりますよ。あなたは
「臆病……? 誰が?」
思いがけないその言葉に、脩子は心外だと言わんばかりに、片眉を持ち上げる。
だが、光る君はそんな脩子を見ながら、やはり小さく笑って言った。
「僕に言わせれば、あなたほど怖がりで臆病な人を、僕は他に知りませんよ。宮さまはいつだって、考えすぎなほどに考えて、限りなく低い可能性にさえ、
光る君の指摘に、脩子は思わず押し黙る。
改めて自分の行動や思考を
脩子はもう、理不尽に命を奪われるのは嫌だった。
物の怪の仕業だといって、真相を
転じて、犯人の動機を理解したくないと思うのは、犯人に共感できてしまうことが、恐ろしいからだった。
もしも、同じ条件・状況下に陥ってしまったのなら。自分も人を殺してしまうかもしれないと考えるのは、とても怖いことだと思うから。
あれは、いつのことだっただろう。
確か、初めて光る君から、事件の話を聞いた時のことだっただろうか。
脩子は本当にふと、何気なく、
あぁ、この時代でなら。
ほんの少しの不可能性や、ちょっとした猟奇性。
それらを演出してみせれば、この社会はすぐに『物の怪のせい』だと解釈してくれるのである。
物の怪というものを信じていないからこそ、脩子の頭の片隅には『物の怪を利用する』という選択肢が、どうしたって存在する。
もしもそんな人間が、ある時ふと、誰かに殺意を抱いてしまったとして。
事件を物の怪の仕業に見せかけることが出来たなら、真相は完全に、
監視カメラも、DNA鑑定や
その考えに思い至った時、脩子は心の底からゾッとしたのを覚えている。
罪を暴いてくれる人間が、存在しないということ。
抑止力となりうるものが、己の倫理観だけであるということ。
脩子にはそれが、
光る君は、そんな脩子の内心を見透かしたような顔で、小首を傾げて微笑んだ。
「僕からすれば、宮さまの
「……どうして、そんなことが言い切れるのさ」
「そりゃあ、あなたが僕を、自身の番人としたからです。あなたは僕に、根拠や理屈をもって、思考を構成する
もしもの可能性にさえ
光る君はそう言って、しょうがない人だなとでも言いたげに、苦笑してみせる。
「あなたはきっと、自分で思っているよりも、善良な人ですよ。もう何年も
脩子はといえば、口をへの字に曲げて、黙り込むばかりである。
彼は、まるで聞き分けのない子どもを
「だけどあなたが、それでもまだ不安だっていうのなら──これから先もずっと、あなたの番人を、
茶化すような口調とは裏腹に、光る君の黒目がちの
その癖、自分を売り込むプレゼン自体はあざといものだから、何ともタチが悪いなと脩子は思う。
「あなたが僕を、自分への抑止力となるように望んだんです。きっと、
脩子は光る君のその
「三途の川、ね……。それって、もしかしなくても、
「えぇ、まぁ。僕は宮さまと違って、無自覚に思わせぶりなことは言いません。それに、露骨すぎるくらいあけすけに言わないと、あなたには全く伝わらないみたいなので」
「……さてはきみ、結構いろいろなことを、根に持っているな?」
「いえ、それほどでも? 今まで随分と振り回されてきたなぁ、なんて、これっぽっちも思ってませんから」
光る君はそう言って、にっこりと笑う。
だが、その目はちょっと笑ってはいなかった。
脩子はといえば、
その顔のほてりは、
そこから先はもう、なすがまま、流されるままだった。
【3章 7/7】fin.
>>>『終章/あとがき』 本日 11:00ごろ投稿します。
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