其の陸
「えぇ、左様……。たとえその姫君が生きていたとしても、なのですよ。彼女を背負った下男は、雪上に足跡を残しながら、どうやって
◇◆◇
「そうだ、それがありましたね……」
「結局、それを解決しなければならないのよね」
もしも仮に、
それでも、夜警の検非違使たちに姿を見られることなく、この廃院を脱出する困難さは、
さてどうしたものかと、
今までの仮説も、完全に
何しろ、少なくとも邸内で遺体を
ただ、そうだとすると。男は夕顔を背負い、どうやってこの廃院を出て行ったのかという謎が、再び浮上してくるというわけだった。
「それに……雪上の足跡は、
「そう、それもおかしいのよね」
光る君の言葉に、脩子も頷いた。
そうなのだ。犯人が出て行ったとするならば、では戻る足跡は何だという話になる。そして、戻ってきた人物と夕顔は、一体どこへ消えたのかという話にもなるわけだ。
「
光る君にそう問われた
「というのも、雪が降り始めてからは、夜警の者たちも、寒さでじっとしてはおれんかったようで。時折、門前の通りをうろうろと歩いていたというのですよ」
「つまり、足跡が門から外に続いていたかどうかは、不明だ、と?」
「まぁ、そういうことになりますな。門より外は、それなりに踏み荒らされていて、判然としなかったというわけです」
光る君は「なるほど……」とだけ呟いて、再び思案に
だが、脩子としては、どうにも情報が足りないような気がしてならなかった。
「……そういえば。その
脩子に、橘の少尉は「あぁ」と思い出したように頷いた。
「ちょうど昨日、右大臣邸で
「藻塩焼き……?」
藻塩焼きというのは、古くは万葉集にも登場する、伝統的な製塩方法である。
塩焼きの風景は、田舎の
貴族たちはこの藻塩焼きよく好み、たびたび和歌の題材にも詠み込んでいるほどだ。
もっとも有名な和歌は、
海が遠い都であるからこそ、当時の貴族たちには
「こんな時期に?」
「こんな時期だからじゃないですか?」
「……あぁ、それもそうかしらね」
光る君の言葉に、なるほど一理あるかと頷いた。
橘の少尉は、話を続ける。
「何でも、
「……これでも僕、ひと月の間、
「そういう風流な流行ごとを教えてくれる友人は、あいにくと持ち合わせていないの」
肩を竦める光る君に続き、脩子もおどけたようにそう返す。
橘の少尉は、そんな二人の様子に苦笑してから、おもむろに口を開いた。
「その鷲男という下男は、どうやら
光る君が、ちらりとその目を脩子へ向ける。
脩子はひとつ頷いてから「ぜひ」とだけ小さく答えた。
◇◆◇
日に焼けた浅黒い肌に、濃い
がっしりとした体つきの、いかにも無骨な武人といった風体である。
検非違使の中でも下級のものは、
男もまた、光る君の
およそ、自分の所属する組織の長に対する扱いではなかったが、光る君は慣れた様子で苦笑いしている。
おおかた、彼も古参の検非違使で、身分を明かす前からの付き合いなのだろう。
「それで? 坊が名指しで個人を呼び出すたぁ、一体どういうご用件で?」
小野の大志というらしい髭面の男は、橘の少尉よりもずっと
対して、光る君は落ち着き払った様子で口を開く。
「えぇ。昨日の、右大臣邸での
だが、光る君の言葉は、何とも尻切れ
「……右大臣、だぁ?」
大志が、とつぜん光る君の肩をがしっと掴み、その体をがくがくと揺さぶったからだ。
「なぁ、どうして高位のお貴族さまってぇのは、あぁも下々の人間の命を軽んじるんですかい!」
「え? いや、ちょっと」
「そりゃあ、坊に言ったところで、
「いやだから、ちょっと落ち着いてくださ──」
「これが落ち着いていられるかってんだっ! 奴らときたら、貴族以下の人間なんざ、虫ケラ同然に思っていやがる。どうにかならんもんですかい!?」
「あぁもう、落ち着いてくださいってば!」
するりと大志の腕から抜け出した光る君は、男の眼前でパン! と大きく
その音に我に返ったらしい大志は、ばつが悪そうに頭を
光る君が疲れたように、ひとまず座るように
それから「……昨日の藻塩焼きの様を、喋ればいいんですかい」と
「俺はその、
大志の言葉に、脩子と光る君は頷いて先を促す。
大志はため息をひとつ吐いてから、再び口を開いた。
その臨時就労に集まったのは、二十人前後であったのだと、大志はいう。
彼らが右大臣邸にやって来た時、庭にはすでに塩釜が設置されており、海水と
大志
そうして、海藻の表面に海水塩を凝縮させてから、その塩が付着した海藻を
その鹹水だけを、土器で煮詰めて塩を作る製塩法が、藻塩焼きなのだという。
「とまぁ、本来の
実際のところは、天日干しなどの丁寧な作業を経ずに、樽に生の海藻と、ひたすらに塩そのものを大量にぶち込んで、単純に塩分濃度を限界まで上げたものを都に持ち込んでいるのだと、大志は皮肉げに言う。
製塩という意味では本末転倒だが、まぁ、あくまでも
見えないところでの手間は惜しんだ上で、ひと樽ひと樽の塩分濃度を物理的に上げてしまえというのは、地方の裏知恵的で興味深いなと、脩子は小さく笑った。
ところが、である。
その惜しんだ手間が
それは、送られてきた
その男は「ぎゃっ」と
「その樽にゃあ、エボシの
「
日常的に、聞き馴染みのある単語だったからこそなのだろう。
思わずといった調子で聞き返した光る君に、大志は深く頷いていう。
「カツオノエボシという、猛毒の、
あぁ、それなら聞いたことあるぞ、と脩子は内心で呟いた。
令和の世でも、海水浴場に打ち上げられては、ニュースで注意喚起されるアレである。
青く透き通った、目にも鮮やかなグラデーション。半透明のゼリー状にも見える、美しい見た目とは裏腹に、その毒性はひどく恐ろしい。
刺されると「電気クラゲ」の俗称の通り、
また、その毒性は、カツオノエボシ本体の生死にも関係がないらしい。要するに、浜に打ち上げられた死骸であっても、その毒性は健在であるというわけだった。
「本来の
平安時代、貴族が体調を崩した時の第一選択肢は、
とはいえ、そんな民間療法的な薬を飲みたいかと言われれば、それはまた別の話だ。
彼らにとっては、まだ毒性が残っていようと、
さて、激痛にもんどり打つ男に対し、海辺出身の男たちは初対面ながらにも心配し、駆け寄ったという。
カツオノエボシの恐ろしさを知らぬ者など、浜育ちの人間にはいないからだ。
「遠巻きに見ていたお貴族さまの中にも、こちらに何事だと問う人間がおったんですよ。そんで、自分が『毒を持った生き物に刺された』と答えたわけです」
するとその貴族は、さらに『死ぬのか』と問うたらしい。
「俺ぁね、貴族の中にも心配してくれる者があるのかと、ちぃとばかり感動したもんです。だから正直に『死ぬこともある』と答えた。……すると、その貴族は何と言いやがったと思います?」
大志は忌々しそうに舌打ちをして、吐き捨てるようにこう言った。
「『死ぬ前につまみ出せ、今すぐ遠くへ打ち
大志は
どうやらこの貴族こそが、右大臣その人であったのだという。
脩子はといえば、あぁ、貴族特有の
光る君は、そんな脩子の様子に気づいたのか、苦笑して「その原因には、ちょっと心当たりがあるかな」と呟いた。
「父上の
東宮といえば、
弘徽殿の女御の実家というのは、右大臣家である。
光る君は、指折り数えながら「一度目は、兄上の飼っていた猫が、老衰で死んでしまったことで──」と言葉を続ける。
「二度目は、先月の六の君殺しです。あの日の宴は、参加者も多かったですからね。主だった祭祀の列席者が、
光る君は眉尻を下げ、困ったように小さく肩を竦める。
「たぶん右大臣どのは「三度目こそは」と考えているんだろうな、と。何故ならそろそろ父上が、名代を僕に変更しようとしかねないから……」
名代ということは、帝の代理に立つということだ。
今のところは、次期帝として東宮を名代に立ててはいるが、それが三度も延期ともなれば、名代をお気に入りの息子に変える大義名分が出来てしまう。
露骨に光る君を溺愛する桐壺帝であれば、そういうことをやりかねないというのは、脩子のような者でも分かった。そりゃあ、右大臣も危機感を持つはずである。
小野の大志はぽかんと口を開けて「お貴族さま方の考えるこたぁ、やっぱりこれっぽっちも理解できねえや」と呟いた。
彼からすれば、穢れ観念というのも、政治闘争というのも、二重に理解の
光る君は、大志の反応に苦笑いして「それで、その後はどうなったんですか?」と話の続きを促した。大志は一つ咳払いをすると、話を再開する。
結局、浜育ちの男たちで話し合い、一人を男の介抱に割き、右大臣邸から離れさせることにしたのだという。
そうして、残った人間たちで、他の大樽を使って藻塩焼きを行ったらしい。
「だいたい、なんだってこんな寒い季節にやるんだかってぇ話ですよ。こちとら、手も足も
吐き捨てるような口調の大志に、光る君は反論するでもなく、ただただ苦笑するばかりだった。
やがて、藻塩焼きが終わった後のこと。
臨時就労の報酬に対して、酒も上乗せして振る舞われたのだと、大志はいう。
曰く「右大臣邸内で死者が出かけたことは、決して口外するな」とのことだったらしい。
大志は「いやぁ、坊が尋ねてくれて良かった良かった。こちとら、誰かに
「以上が、俺の知っとる昨日の藻塩焼きの様子です。あぁ、いや、そういえば──」
そこで言葉を切った男は「坊たちはもう、
二人して首を横に振れば、大志は「そいつはいい。ありゃあ、見る価値もないってもんですよ」とけらけら笑う。
「俺ぁ、出来上がった藻塩を献上するときに、あの絵がちらっとばかし、目に入ったんですがねぇ。確かに海の青の
大志の言葉に、脩子と光る君は無言で視線を交わし合う。
光る君が小さく頷くので、脩子は彼に質問を
「大志。藻塩焼きが終わったあと、あなたの手足や
光る君の問いに対し、大志は「そうですなぁ……」と
「どんなと言われても、そりゃあ、乾けばびっしりと塩を吹きましたよ。それこそ、
去っていった小野の大志の背を見送りつつ、脩子は光る君と顔を見合わせる。
「そりゃあ、検非違使たちの目に留まらないはずよね……」
「えぇ。だけど、それでも雪の上には足跡が残ってしまった、と……」
これで、全てピースが揃ったどころか、もはや完全にアンサーだった。
砂浜に雪が積もりにくいのは、海岸の砂に塩分が含まれているからだ。
塩化ナトリウムは、
右大臣がこんな時期に藻塩焼きを思い立ったのも、風流ついでに、積雪対策の足しにもなるという
「事件に関しても、ちょっと野蛮な『
光る君が、そう確認するように問う。
脩子が頷くのを見届けてから、光る君は言葉を続けた。
「下男は藻塩焼きの後に、腕を調達して、
脩子もまた、これを受けて、続きを引き取る。
「宴会のあと、夕顔が床についたのは、
そして、検非違使たちが夜警に立ち始めた
これらの簡易な工作をして出ていくのにも、十分すぎる余裕があったと思われた。
一方で、確かにその時間には、雪は積もるどころか、降り始めてすらいない。
雪が降り始めたのは
だが、藻塩焼きを行った鷲男の
その上、乾燥した後には、びっしりと塩を吹くほどだったというのである。
鷲男はそんな
その足跡には、当然ながら、多量の塩が付着していたに違いない。
結晶化した塩は、踏みしめるたびに
そうして、彼が廃院を出ていった後のこと。
丑の刻ごろに薄っすらと積もった雪は、残された足跡の形に溶けてしまったという図式ではなかろうか。
つまり足跡は、雪上にひとりでに浮かび上がったというわけだ。
そう考えれば、一往復分の足跡も、検非違使たちが足跡の主の姿を視認できなかった理由も、説明がつくというわけだった。
「これ、夕顔の君も同意の上だと思いますか?」
「どうだろう。でも、娘まで置いていくことになっているあたり、下男の一方的な暴走のような気もするけれど……」
「同意の上でないのなら、鷲男を
光る君と、そんな意見を交わしていた折のことだった。
席を外していた橘の少尉が、何やら神妙な面持ちで戻ってきたのである。
「いやはや、どう報告したものですかな……」
「何かあったんですか?」
「……いえね、先ほど部下が、この辺りをうろつく不審な者を捕らえたというんですがね。それがどうやら、
橘の少尉曰く、鷲男は大貴族の屋敷が居並ぶ通りを、何かを探すように
では、何を探していたのだと問われれば。
男はこう答えたのだという。
女の
(続く)
【3章 6/7】
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