其の伍
「足跡の主は、一体どうやって……誰の目にも留まることなく、廃院を出入りしたっていうのかしらね」
◇◆◇
「いっそ、廃院に
そう締めくくった
だが、
「だからって、鬼、ねぇ……」
「でも、姿が見えないからこそ、鬼の仕業だっていうのは、確かにちょっと言い得て妙というか。そう思いません?」
「……それはまぁ、そうだけれども」
光る君の言葉に、
鬼というのは古くから、人を喰らうモノで、そして姿なきモノではあるからだ。
たとえば平安時代に成立した、最古の漢和辞書『
〔和名於爾〕或説云隠字〔音於乍訛也〕鬼物隠而不欲顕形 故俗呼日隠也
つまり『鬼』は『隠』の字が
他にも『
「人の見及ばぬ
これは雨夜の品定めの中で、
ここでは「目に見えぬ」とあることから、鬼はやはり「見えないもの」として認知されていたことが
その上で、いざ絵に描かれるとなると「おどろおどろしく」
目に見えぬ、姿なき鬼が、夕顔の
そう解釈してしまえば、
「でも、宮さまはそんな決着じゃあ、納得しませんよね」
「えぇそう、しない。したくない」
「それじゃあ、最後まで人の仕業を、疑ってかかりましょう」
きっぱりと言う脩子の言葉に、光る君は苦笑混じりの表情で頷いてみせる。
そんなやり取りを交わす二人に対し、橘の少尉はといえば「つくづく物好きなことで……」と呆れたように呟いた。
「えぇ、えぇ。こちらもとことん付き合ってやりましょう。あなた方のその
橘の少尉は、皮肉交じりにそう
「いえね、不可能性をいったん
橘の少尉は、眠たげな
「何しろこの廃院から消えたのは、残りの遺体だけではない。実のところ、雇っていた下男も一人、
少尉が語ったところによると。
昨夜未明、女房が他の使用人たちを起こした時点で、その下男の姿はすでに無かったというのである。
現状、その下男の行方は、
おまけにいえば、その下男は、昨夜の酒の提供者でもあるとのことだった。
「
下男ら曰く、
いよいよもって、いかにも怪しい。
脩子と光る君は、横目に視線を交わし合う。
だが、橘の少尉は「えぇまぁ、言いたいことは分かるんですがねぇ」と、どこか歯切れの悪い調子で言葉を続けた。
「とはいえ仮に、この鷲男が犯人であったとして、ですよ。この男が、邸内で左腕を切断した上で、残りの遺体を背負い、雪上に足跡を残しながら門まで歩いて行ったとして──」
「やっぱり、夜警の
光る君が、少尉の言葉を引き取ってそう呟いた。
脩子もまた「そして、廃院を出ることが出来ずに、廃院に戻ったとして──」と言葉を継ぐ。
「結局のところ、鷲男と残りの遺体は、この邸内にないとおかしい、ということよね?」
「えぇ。この鷲男が、目に見えぬ鬼ではないのなら。そして、残りの遺体を喰らったのでもないのなら、ということにはなりますがねぇ」
少尉はそう答えつつ、ガシガシと頭を掻いたのだった。
◇◆◇
「駄目だ、
「それじゃあ、どうして犯人は、
自分だったら、どういう動機をもって、遺体の腕を切り落とそうなどと考えるだろうか。
脩子はそう自問しながら、ゆっくりと思考の海に
個人的には、犯人の思考をトレースするようなやり方は、あまり好きではないのだが。背に腹はかえられないと、今は割り切るしかない。
「僕なら、物の怪のせいに出来るから、ですかね」
光る君は、そう答えながら小首を傾げる。
「ほら、手法が不可解な事件と同じくらい、
宮さまだって、同じことを考えるでしょう?
そう問われてしまえば、脩子としても苦笑するしかない。
物の怪という存在を、全く信じていない人間の思考回路としては、至極
ほんの少しの不可能性や、ちょっとした猟奇性。
それらを演出してみせれば、この社会はすぐに〝物の怪の仕業〟だと解釈してくれるである。そのことを知ってさえいれば、
「そりゃあ、私やきみのような人間なら、そう考えるだろうね。だけど、たとえば
脩子はそう言って、ゆっくりと
光る君は小さく肩を竦めて「そうなんですよね」と軽い調子で頷いた。
「うーん。可能性としては、皆無じゃないんだけど、ちょっと
「まぁ、そういうことよね」
光る君の呟きに、脩子は同意を示す。
そんなやり取りを見ていた橘の少尉は「つくづく恐ろしいことを考えるものだ」と呆れたように呟いた。
「物の怪を、利用しようなどとは……。そんなことをすれば、
そう言って、少尉は「おぉ、怖や怖や」と大仰に首を竦めてみせる。
だが、結局のところ、こうなのだ。
その時代の医学や科学の中で、まだ理解できない現象を〝物の怪のせい〟だと解釈することに慣れている、この時代の彼らにとって。
物の怪というのは〝確かに実在する、生命を
理解できない現象を、分からないなりに解釈して、折り合いをつけること。
それを、脩子は悪いことだとは思わない。
ただ、そういう彼らだからこそ、『物の怪を利用する』という選択肢は、なかなか出てこないというわけだった。
「でも……じゃあ、物の怪の仕業に見せかけるため以外の、腕を切り落とす理由ってなんだろう。何かありますかね?」
光る君の問いに、脩子は
蓋然性を考えるのであれば、腕を切り落とすことに、何かしらの利点や目的があったと見るべきなのだろうが。
「そうだね……たとえば、軽量化とか?」
「あぁ、なるほど……。ということは、遺体をどこかへ運ぶ必要があったってことですかね? でも、うーん。片腕の肘から下を切り落としただけじゃあ、そんなに軽くはならないと思うんだけどな。無くなっているのは、肘から上の方であるわけだし……」
「じゃあ、体積を減らすとか? 遺体をどこかに押し込んで隠そうとして、片腕がはみ出ちゃったから、切り落とした……? いや、それもどうなのかしらね……」
二人して首を
光る君は「あ」と小さく呟いて、脩子の顔を覗き込む。
「じゃあ、少し観点を変えてみて。『確実に死んだと思わせることが出来る』っていうのは、どうです?」
「あぁ、それはあるかもしれない。現に私たちは皆、ずっと夕顔の君が亡くなっている
そこまで言って、脩子ははたと動きを止めた。
光る君もまた、ハッとした様子で目を見開く。
もしも、腕を残すことで、夕顔を死んだように見せかけたかったとするならば。
転じて夕顔は、
たとえば、腕を切り落としたことによって、夕顔が死んでしまったならば。
死んだように思わせるも何も、あったものではないからだ。
「そうなると、軽量化や、体積を減らして隠しやすくするっていう意味合いも、変わってくるわよね……」
「えぇ……ちょっとこれは、
脩子と光る君は、
宴席の最中から、すっかり人だけを消し去ってしまったような母屋は、物音ひとつなく静まり返っていた。
光る君はぐるりとあたりを見回してから、やがて床に転がる二つの
脩子はといえば、無言で
「多分……手首を曲げたり、こぶしを握った状態であれば、女性の肘から下なら納まったでしょうね」
脩子は指の腹で、
甕の中は綺麗さっぱり乾いたもので、その内側に酒特有のベタつきは一切ない。匂いを嗅いでみても、
光る君を仰ぎ見れば、もう一方の甕の中身をこちらに見せてくる。
中にはとろみのある液体が、まだ二割ほど残っているようだった。
確かに、片腕の肘から下だけを切り落としたとしても、遺体全体はたいして軽くはならないだろう。
肘から上の遺体といえば、ほとんど人ひとり分と大差ない。左腕の肘から下を切断したところで、遺体はそれほどコンパクトにはならないのである。
けれど、切り落とした側の腕はといえば。
確かに軽くなり、体積も減り、隠しやすくもなるというわけだ。
この時代、死体はその辺に転がっているのである。
代わりの腕は、いくらでも調達できるというわけだった。
「これは、僕の仮説なんですけど。この事件って、かなり野蛮な『
光る君はそう言って、苦りきった表情で脩子を見遣る。
「あぁ、
「えぇ」
光る君は短く
脩子はといえば、甕の中に突っ込んでいた手を引き抜いて、
『伊勢物語』とは、『源氏物語』以前に成立した歌物語だ。
平安初期に実在した貴族、
『芥川』は、古典の教科書に取り上げられることも多い、とりわけ人気のエピソードの一つである。その内容は、次のようなものだった。
昔、とある男が、自分とは身分の釣り合わない姫君を、やっとのことで盗み出すことに成功する。
ところが、その逃避行の最中のこと。夜も
そうして、男は荒れ果てた小屋に姫君を押し込み、自分はいつ追手がきても迎え
小屋には鬼が
要するに光る君は、姫君が鬼に喰われたオチとかけて、冒頭の部分を、犯人の動機ではないかと言いたいのだろう。
実際、下男も一人、姿を消しているわけである。
脩子は「そうかもね」とだけ答えて、小さく肩を竦めるのだった。
これは余談だが。
奇妙なことに、この世界には、かつては
一見すると不可思議にも思えるが、それも『源氏物語』の大前提を思えば、
何故なら『源氏物語』は、あくまでも
だからこそ〝いづれの御時にか〟という冒頭文は『具体的には明言しないけれど、過去に実在したとある帝の時代のことですよ』という語り出しになっているのである。
おまけに初巻『桐壺』からして、
要は、そういう歴史の延長線上に、光源氏たちも生きていたんですよ、というのが『源氏物語』の基本スタンスなのである。
脩子が最初、この世界を物語だと気づかなかった
だが、そんな懐かしい過去を思い出していれば。
見れば、橘の少尉が重たげな二重瞼をさらにぐっと
脩子と光る君はぱちくりと目を
橘の少尉は、
「……よろしい、腕を切断する理由に、妥当性はあるでしょう。なるほど、外で切断した腕を持ち込んだのであれば、この廃院内で残りの遺体が見つからないのも、遺体を
「あ」
「あ」
「えぇ、左様……。たとえその姫君が生きていたとしても、なのですよ。彼女を背負った下男は、雪上に足跡を残しながら、どうやって検非違使たちの目を
淡々とした調子でそう問われて、二人は再び顔を見合わせた。
言われてみれば、確かにその通りである。
(続く)
【3章 5/7】
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