其の肆


「何でも彼女は、まるで鬼に一口で喰らわれてしまったかのように、片腕だけの状態で見つかったそうですよ」



     ◇◆◇



「──片腕といっても、見つかったのは、左腕のひじから下だけ。それが、彼女がその日身にまとっていた、枯野かれのうちぎ表着うわぎくるまれた状態だったんだとか」

「それはまた、随分と猟奇的な……」


 枯野というのは、晩秋や冬の入口を表現するかさねの色目である。

 確か、表に黄色を、裏に淡青色を重ねるのだったか。表着うわぎというのは、重ねた着物の中で、最も上に着るころものことだった。


「ちなみに、肘から上は?」

「残念ながら。まだ見つかってはいないみたいですね」


 少なくとも、僕のところに姫君が預けられた、明け方の時点では。

 そう付け加えた光る君は、眉をひそめて肩を竦める。二人が立っているのは、まさにくだんの廃院の門前だった。

 門に連なる築地塀ついじべいは、ひび割れている箇所かしょは所々あれど、存外にしっかりとした造りに見える。当然ながら、五条の屋敷の檜垣ひがきなどよりは、よっぽど堅牢けんろうな造りに見えた。

 門扉もんぴは開け放たれており、しきりと検非違使けびいしたちが出入りするさまは、いかにも物々しげな様相を呈している。

 そんな中を、光る君は物怖ものおじする様子もなく、堂々と進んでいった。


たちばな少尉しょういはいますか?」


 門をくぐったところで、光る君がそう声を掛ければ。検非違使たちの中から、一人の男がこちらに歩み寄ってくる。

 年の頃は、四十路の手前といった頃だろうか。背は高いが痩身そうしんぎみで、半分閉じたようなくっきりとした二重瞼ふたえまぶたが、何とも気だるげな男だった。


「おやおや、覆面ふくめん姿とはまた、随分と懐かしい出立ちで。このような場所においでになるとは、もしや、さらに物忌ものいみを延長させるおつもりですかな?」


 橘の少尉と呼ばれた男は、光る君の覆面姿を目にとめるなり、そんな軽口を叩く。

 だが、その声音には揶揄からかいの色がにじんでいて、悪意の類は感じられなかった。


「冗談はやめてください。そんなわけないでしょう」

 光る君は、ため息交じりに肩を竦める。


「現場を見にきたのは、あくまでも覆面、、何者、、であって、左衛門督さえもんのかみじゃありません。僕の物忌は、ちゃんと今日までですよ」

「ほう、そいつは重畳ちょうじょうなことだ。これ以上、あなたの物忌に長引かれては、回るものも回りませんからな」

「……急ぎのものに関しては、屋敷に届けさせていたはずなんですけど」

「えぇ。ですから、それほど急ぎではない、未決の書簡がたんまりと溜まっているというわけだ。休み明けを、覚悟しておくことですな」


 からからと笑いながら、男は光る君の背中を気安く叩く。

 光る君はといえば、憮然ぶぜんとした様子で、恨みがましそうに少尉を睨んだ。


「だいたい、あの姫君を僕のところへ押し付けたのは、あなたたちでしょう? もしも誰かに見られていたら、それこそさらに物忌が長引いていましたよ」

「おや、そういえば。けがれというものは、伝染するものでしたかな? このような仕事をしていると、ついつい軽んじてしまう観念なもので、忘れがちなのですよ」


 我々のようなものまで、そんなことを言い出してしまうと、仕事になりませんからな──そううそぶいた男は、芝居がかった様子で片眉を上げる。


 確かに平安時代において、穢れというものは、伝染するものだった。

 穢れに触れた人物Aに対し、Aに接触した人物Bも、穢れを受けたと見なされるわけである。

 だが実際のところ、下々の生活に近い者ほど、穢れの観念は薄かったのだろう。あいにくと庶民たちにとって、死体は身近なものであるからだ。

 京域内の警察組織たる検非違使たちにとっても、穢れといった観念は形骸化けいがいかしているのだろうなと、脩子ながこは遠い目をして思うのだった。


 では転じて、仮にも帝の寵児ちょうじたる光る君が、穢れをどのように捉えているのかといえば。彼もまた「穢れが怖くて、事件に首を突っ込めるか」という境地に、いつの間にか至っていたというわけだ。まぁ、ごもっともである。

 これに関しては、脩子が育て方を間違ったと言う他ないのだろう。

 いや、育てたつもりは毛頭ないのだが、結果として、そうなってしまったというべきか。何とも複雑な心境の脩子は、小さくため息をつくのだった。


「それにしても、覆面をつけている上に、おひぃさままで連れ立って来るとは。重ね重ねにも懐かしいことだ。まるで、まだわらべであった頃のようではありませんか」


 光る君の背後に控えた脩子を見遣りながら、少尉はくつくつと笑って言う。


「さしもの左衛門督さえもんのかみどのも、今回の事件はお手上げというわけですかな?」

「お手上げも何も、まだ情報が何もかも足りないんですよ。だから、こうして現場までやって来たんです」


 光る君は、軽く肩を竦めてそう答える。

 それから、改めて少尉に向き直ると、本題を切り出した。


「だから、現状で分かっていることを、全て教えてください」




      ◇◆◇



 橘の少尉によれば。

 夕顔の左腕、肘から下は、廃院の塗籠ぬりごめで見つかったとのことだった。

 塗籠というのは大抵の場合、母屋もやに隣接する小部屋である。

 塗籠は三方を壁で囲まれており、一方のみが妻戸つまどという両開きの板戸になっているのが、一般的な造りだった。

 この、唯一の出入り口にあたる妻戸が、母屋との境になっているのである。

 要するに、母屋側からでなければ、この塗籠には入ることが出来ない構造であるというわけだった。


「何でも下男のうちの一人が、他所よそでの臨時就労によって、酒を手に入れてきたんだとか。そのため昨夜は、その酒が家人たちに振る舞われたそうで……」


 酒を手に入れてきたその下男は、日頃の感謝をこめて、それを雇い主である夕顔に献上したというのである。

 夕顔もこれを受けて、普段世話になっている女房や下男たちをねぎらうため、内々の宴席ということにしたらしい。

 そうして、几帳きちょうによって主人と使用人たちとを形ばかりはへだてた上で、一同は母屋に集い、酒をみ交わしたとのことだった。


 やがて、主人である夕顔は、使用人らよりも先に床についたという。

 それが、だいたいの刻より少し前のことだったそうだ。

 亥の刻とは、現代で言うところの二十一時〜二十三時までのことだから、夜九時前には寝所しんじょへ入ったのだろうなと、脩子ながこは脳内で変換をする。

 そうして、夕顔は幼い娘とともに、寝所と定めた塗籠ぬりごめに引っ込んだというわけだ。


 一方で夕顔は、「日ごろ世話になっている者たちを労うためなのだから、皆は心ゆくまで楽しんでほしい」と、使用人たちに言い置いていたともいう。

 そのため、使用人たちはその厚意に甘え、声をひそめつつ酒宴を続けようとしたとのことだった。

 ところが、使用人たちにはそこから先の記憶がないのだと、橘の少尉は言う。


「宴がお開きになったという記憶は、彼らには一切ないそうで……。気づけば全員が、母屋で寝こけていたのだという。それだけ聞けば、何かしらの薬を盛られた可能性も、考えられるわけですがね」


 そうして、さらに数刻が経過した未明のこと。

 一人の女房が、寒さに目を覚ましたところ、何故か塗籠ぬりごめの妻戸が開け放たれているようだった。

 不審に思ってその奥を覗き込んで見ると、そこにはころもから覗く白い腕だけが、眠る幼子のそばに転がっていた──というのが、遺体発見までの次第であるらしい。


「その腕や、塗籠を見ることは?」

「そう言うと思いましたよ。こちらです」


 少尉の案内に従い、脩子と光る君は、門から庭を最短距離で突っ切って進んでいく。

 廃屋はいおくといえど、やはり元が立派な造りだったのだろう。

 庭から正殿へ上がるためのきざはしをのぼり、簀子すのこの上に立ってみれば。ぎしぎしと音は鳴るものの、沈み込むほどの感覚はなく、踏み抜いてしまうようなこともなさそうだった。


 少尉の先導に従って、脩子と光る君はすぐに母屋へと辿り着く。

 母屋は、宴会の形跡がそのままになっているようだった。

 酒が入っていたのか、大きなかめが二つほど転がっていて、柄杓ひしゃくもその側に落ちている。料理や食器も、どうやらそのままになっているようだった。


「左腕の発見時には、この妻戸は開いていたそうですがね。まぁ今のところ、ご遺体を動かしてはおらんので、いったん封鎖しているというわけです」


 そう説明しながら、橘の少尉は脩子たちをちらりと振り返った。

 つまり、眼前の妻戸の向こうには、まだ遺体の一部があるというわけだ。

 脩子と光る君は、互いに顔を見合わせて、頷き合う。


「どうぞ。開けてください」

「……まったく、肝の据わったお貴族さまたちだことで」


 少尉は呆れたようにそう言って、妻戸を静かに引き開ける。

 開かれた妻戸の先には、四方八方に血飛沫ちしぶきが飛び散った、凄惨せいさんな光景が──と思いきや。塗籠ぬりごめの中は思いのほか、綺麗なものだった。

 ただ、部屋の中央には黄色の衣がくしゃりと落ちていて、その中から、白く細長いものが覗いている。おそらく、左腕だろうと思われた。

 切断面こそ隠れているものの、場違いにも鮮やかな山吹色と、その袖口から覗くろうのような青白さとの対比コントラストが、いやに目につく。いっそ冒涜ぼうとく的ともいえる光景だからこそ、どこか作り物めいていて、あまり現実味がない。

 冬だということもあるのだろうか。覚悟していた死臭も、鉄錆てつさびの匂いも、ほとんどなかった。腕をくるむ衣には、ところどころに茶色いシミこそにじんでいるが、逆にいえば、元の衣の色が分かる程度の汚れ具合であるといえる。


「これは、どう見ても……」

「この場所で殺されたわけではなさそそう、というか……」


 二人して顔を見合わせながら、眉をひそめる。


「いや、殺し方によっては、ここが殺害場所である可能性も、なくはないのかな。でも──」

「少なくとも、腕を切り落としたのは、この場所ではないわよね、さすがに」


 光る君の言葉を引き取ってそう呟けば「ですよね」と相槌あいづちが返ってくる。

 そりゃあ、死後切断か生体切断かによっても、流血量は大きく変わってくるだろうが。そのいずれにせよ、この塗籠ぬりごめ内で腕を切り落としたというには、あまりにも現場が綺麗すぎるのである。

 やはり、ひじから下を切り落としたのは、別の場所だと考えるのが自然だった。


「えぇ。我々としても、もちろんこの場で切断したとは、考えちゃあいないんですがね。じゃあ一体どこで、腕を切り落としたのかという話になるわけです」


 橘の少尉も頷いて、ひょいと肩を竦めてみせる。


「だからこそ、邸内ていない全域を虱潰しらみつぶしに探させてはいるんですがね……。肘から上のご遺体も、切断したとおぼしき痕跡も、これがとんと見つからない」


 彼はガサゴソと音が鳴る床を見下ろしながら、「床下も、池の中も、くまなくさらわせてはいるんですがねぇ……」とため息まじりに呟いた。


「この分じゃあ、廃院にむ鬼が、肘から上をぱっくり喰らっちまった──なんて説も、あながち冗談じゃ済まなくなるってもんです」


 とうとうそんなことを言い始める少尉に、脩子と光る君は無言で顔を見合わせる。

 少尉に向き直った光る君は「もうすでに、そんな話まで出ているんですか?」と苦笑混じりに問いかけた。

 光る君は「それに──」と、言葉を続ける。


「どうして、探す場所を邸内に限定しているんです? 残りの遺体の捜索に関しては、廃院の外にまで範囲を広げても、良さそうなのに」


 光る君の、至極しごく真っ当なその問いに。

 橘の少尉は、ポリポリとほおく仕草をしながら、こう答えた。


「いやはや、そもそもの大前提として、人間業とは思えない状況があるのですよ」と。




      ◇◆◇



 それは、昨夜未明の、遺体発見直後のこと。

 起き抜けに左腕を見つけてしまった女房は、それはもう魂消たまげながら、何とか他の使用人たちを起こしたという。それから下男のうちの一人に、ひとまず検非違使けびいしを呼びに行くよう命じたらしい。

 大貴族の屋敷が集合しているこの区画は、五条のあたりとは違い、検非違使の夜警も多いはず。そう考えてのことだったそうだ。


 さて、命じられた下男は、すぐさま簀子すのこから庭へと降り立った。

 だがそこで、下男はある光景を目にしたという。

 庭には雪が薄っすらと積もっていたのだが、その処女雪の上には、母屋と門とを往復するような足跡がひとつ、確かに残っていたというのである。

 下男はその足跡を不審に思いつつも、ひとまずは検非違使を呼ぶために、廃院の外へと駆け出したとのことだった。


「検非違使自体は、すぐに呼ぶことが出来たそうですよ。何故なら昨夜は、この廃院が面している通りに、たまたま夜警の者が配置されていたからです」


 東西に走る三条大路と、南北に走る西洞院にしのとういん大路の交点に一人。

 同じく南北に走る西洞院大路と、東西に走る四条大路との交点に一人。

 その日は偶然にも、この廃院の門が面する通りを南北で挟むような形で、検非違使の夜警が配置されていたというのである。


の刻からうしの刻あたりまで、彼らは松明たいまつを持って、四辻よつつじで立ちん坊をしていたというわけですな」


 そうして、呼びにきた下男から事情を聞いた検非違使二人のうち、一人はそのまま見張り番として残り。

 もう一人も、周囲で同じく夜警の任に当たっていた者たちをかき集めて、すぐに廃院へと駆けつけてきたとのことだった。


「夜警に出ていた検非違使たちが、この廃院に立ち入った時……。薄っすらと積もった雪の上には、確かに母屋と門との間を往復する足跡がひとつと、検非違使を呼びに走った下男の足跡があったというのです。いやはや、しかしですよ──」


 そこで言葉を切った少尉は、苦々しげな表情で、脩子と光る君の顔を交互に見やる。二人して無言のまま続きを促せば、少尉は大仰に肩を竦めて見せた。


「実は、昨夜雪が降ったのは、極々ごくごく短い間のことなのです。短期間に吹雪ふぶくほど降って、すぐに止んだというわけですな。彼らによれば、雪が降ったのはうしの刻に入ってからのことであり、しかも丑の刻の中頃には止んだという」


 検非違使たちが夜警に立ち始めた子の刻というのは、二十三時〜一時までを指し、丑の刻は一時〜三時までの時間を指す。

 要するに、雪が降り始めたのは、午前一時を回って以降のこと。そして二時ごろには、すぐに降り止んだというわけだ。

︎︎ つまり、雪が降り始める前から、降り止んだ後にかけても、検非違使たちは門戸を見渡せる場所に立っていたということになる。

 少尉は苦虫を噛み潰したような表情のまま、重々しく言葉を続けた。


「……にも関わらず、四辻よつつじに立っていた夜警の者たちは、廃院を出入りする人間の姿を、全く見ていないというのです」


 その口調は、すっかりと自棄じきになったような響きを持っていた。

 光る君も思案げに「だから、遺体を捜索している範囲は、この邸内に限定してるんですね」と小さく呟く。


「肘から上の遺体なんて、ほとんど人ひとり分だ。そんなものをかついで出ていく人間がいれば、さすがに夜警の者たちも、見落とすはずがないから、と……」

「まぁ、そういうことですな。廃院を出ていないのなら、残りの遺体もまだ邸内のどこかにあるはずなんですがねぇ。一体どこに消えたというのやら……」


 光る君の言葉に、少尉はくたびれた様子で頷いてみせる。

 一方で、脩子は腕を組みながら、頭の中で情報を整理していた。


 薄っすらと積もった雪に残った、母屋と門とを往復する足跡。

 それでいて、雪が降り始めてからも、止んでからも、廃院に出入りするものはいなかったという、検非違使たちによる証言。

 静かな塗籠ぬりごめの中で、ぽつりと落ちた呟きは、やけに響いて聞こえた。


「足跡の主は、一体どうやって……誰の目にも留まることなく、廃院を出入りしたっていうのかしらね」




(続く)

【3章 4/7】

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