其の参




 着丈の長いひとえうちぎを、浴衣ゆかた御端折おはしょりのように折り込んですそ上げした、壺装束つぼしょぞく

 これに、市女笠いちめがさに虫のぎぬという、笠のまわりに薄い布を長く垂らしたかぶりものを被るのが、貴族女性の外歩き姿だった。


 動きやすさという点では、やはり狩衣かりぎぬに劣るものの、これはこれで悪くはないかと脩子ながこは思う。貴族女性が顔を隠すための虫の垂れ衣だが、疫病えきびょうへの感染対策としても、有効ではあるのだ。

 何しろこの時代、大貴族の邸宅が集中するエリアを一歩出れば、その辺に死体が転がっていることも、さして珍しくはないのである。

 庶民の埋葬スタイルは風葬のざらしなのだから、これはもう仕方がなかった。



 そうして、一通りのものを身につけて、屋敷の門を出てみれば。

 築地塀ついじべいもたれかかるようにして、すでに光る君が待っていた。

 その顔には、今となっては懐かしい覆面ふくめんが付けられており、目から下はすっかりと布で覆われている。

 物忌ものいみ中であるはずの人間が、ホイホイ外を出歩いているというのは、さすがにはばかりがあるということなのだろう。

 その身なりも、彼の本来の身分からすれば、あり得ないほどに質素なものだ。

 この様子では、二人連れ立って市井しせいを歩いても、どこかの屋敷の女房と下男にしか見えないに違いない。


「それじゃあ、行きましょうか」

「いや……その手はなにさ」

「なにって、手を繋ごうと思って」


 まるで犬に「お手」とでも言うように差し出された手に、脩子は思わず半眼になる。

 だが、光る君はといえば。そんな脩子の反応などお構いなしに、脩子の手をとって、すたこらさっさと歩き出してしまう。


「あ、こら──」

「これ、あなたが昔、僕にしたのと同じことですからね。やれ、ぬえを捕まえに行こう、証拠を探しに行こうって、僕の手を引いて、あちこち連れ回して……」


 その都度どぎまぎしていた、こっちの気持ちも知らないで。

 そうぼやく光る君の声には、何やら恨みがましい響きがある。

 何だかそう聞かされると、純情な少年の心をもてあそぶ悪女のようだった。


 だが、脩子としては、完全に恋愛対象外の存在だろうと思い込んでいたからこその、所業だったのである。

 だって、どう考えても脩子は、この時代でいうところの『論外の女』なのだ。

 それを包み隠さず見せつけてきた相手から、まさか恋情を抱かれていようなど、想定しうるわけがなかった。


「……私は、どこに出しても恥ずかしい宮姫だと思うのだけど」


 そう、ぼそりと呟けば。

 光る君は振り返ることなく「まぁ、世間一般でみれば、そうなんでしょうけどね」と言葉を返す。


「だったら、何だってこんな……」

「そりゃあ僕だって、最初はおかしな人だなぁ、と思っていたんですよ」


 でも、と光る君は言葉を続ける。

 その声音は、どこか懐かしげだった。


「あなたの物の考え方は、面白いから。それに、ずっと子ども扱いされるのも、なんだかくやしかったし。そうしたら、いつの間にか、何を見ても聞いても『宮さまなら、どう考えるかな。どんなことを思うだろう。どんな感想をいうのかな』と、思うようになりました。気づいたらもう、頭の中は、宮さまのことばっかり」


 光る君は振り返ると、こちらの顔を覗き込みながら苦笑する。

 脩子はその言葉に、咄嗟とっさに返す言葉が見つからなかった。

 そんなつもりは微塵みじんもなかっただけに、どう反応して良いか分からなかったのだ。


「……代筆の件は、意図的だったの」


 結局、絞り出した言葉はそれだった。

 脩子は当初、光る君との縁は、彼の元服げんぷくと共に途絶えるものと思っていたのだ。

 それが今なお続いているのは、ひとえに代筆の一件のせいだった。

 光る君はといえば「あぁ、あれですか」とくつくつ笑う。


「えぇ。そうですよ、意図的でした。一番初めの代筆は、わりと渾身こんしんの力作だったんですよ? だって宮さまは、僕が元服すれば、縁を切るつもりなんだろうなって、分かっていたから。これはもう、なりふり構っていられないなー、と」


 光る君はあっさりと白状して、悪びれることなく肩を竦める。

 結局〝藤の宮〟の筆跡は、すっかり光る君の手によるもので定着してしまったのだ。

 脩子は何も知らずに、元凶である光る君を頼る羽目になり。

 光る君はといえば、ちゃっかり脩子の元に届く恋文を、全てはたき落とせる立場を手に入れたというわけだ。

 正直いって、まあまあ悪質なマッチポンプである。


小癪こしゃくな真似を……」

小洒落こじゃれた真似の間違いでしょう?」


 思わず悪態をつけば、光る君からはそんな小憎らしい言葉が返ってくる。


「僕はただ、元服した後にも、あなたに会いに行ける口実が欲しかったんです」


 光る君は、そんな健気けなげなんだか図々ずうずうしいんだかよく分からない台詞せりふを、臆面おくめんもなく言ってのける。

 そりゃあ、その〝会いに行ける口実〟とやらが存在しなかったからこそ、『源氏物語』の光源氏は、色々とこじらせてしまったのだろうけれど。

 脩子は自由に動かせる片手で顔を覆うと、深く深くため息をつく。


「策士め……」

「お褒めにあずかり光栄です」

「褒めてない」

「知ってます」


 苦々しい呟きは、軽やかな笑い声と共に受け流されるばかりだ。

 その横顔が、いやに上機嫌で憎たらしいものだから、脩子は彼の脇腹をひじで小突いてやるのだった。




「……それにしても、寒いわね」


 そでたもとから入り込む冷気に、脩子はぶるりと身を震わせる。

 吐く息の白さは、その寒さを物語るようだった。


「あぁ、昨夜はとうとう、雪が降ったそうですよ。そう長くは降らなかったようですけど、一時は薄く積もったんだとか」


 言われてみれば、碁盤ごばんの目を形成する大路の足元は、わずかに泥濘ぬかるんでいる。

 左右に立ち並んでいた、立派な築地塀ついじべいは少しずつまばらになっていって、辺りはだんだんと、庶民たちも入り混じる生活圏へと入りつつあるようだった。


「それで、目的地は?」

「えぇ。事件が起きたのは、所有者の途絶えてしまった廃院なんですけど……でも、そこへ行く前に、寄っておきたい場所があって」

「寄っておきたい場所?」


 光る君は、ちらりと脩子を見遣りながら頷く。

 そのあたりは、下級貴族のこぢんまりとした屋敷と、小綺麗めな庶民の長屋が並立する区画であるようだった。


「昨夜、廃院で亡くなったのは、中級貴族の姫君らしいんですけど……。その女性がもともと住んでいた屋敷を、一応、確認しておきたくて」

「え、中級貴族の女性が、なんでまた廃院なんかで……」


 院と称されるからには、元は大貴族の邸宅であったのだろうに。

 その所在地は、どちらかといえば、上級貴族の屋敷が集合するエリアにあるはずだった。間違っても、こんな長屋の入り混じる区画になどあるはずもない。

 それに、中級貴族の女性が廃院で亡くなっていたというのも、奇妙な話だ。

 いぶかしげに目をすがめる脩子に、光る君は淡々とした口調で説明を続けた。


「最近、たちの悪い野盗の集団が、京域内に出没しているんですよね。その、亡くなった姫君が廃院にいた理由というのも、どうやらその野盗騒ぎに起因しているらしくて」


 いわく、亡くなった姫君は、もともとは六条大路の北側、五条のあたりを仮住まいとしていたのだという。

 かつては通ってくる男もいたらしいが、その男の正妻にしいたげられて、逃げ出してきたのだそうだ。

 だが、身を寄せていた五条の屋敷は、お世辞にも立派とは言えない造りであったらしい。その折に、近隣での野盗の出没である。


 幼い娘もいるというのに、防犯面で心許こころもとない屋敷に身を寄せているというのも、不安なもの。

 どうにも心細げにしている主人を見かねた女房が、伝手つてを辿って行き着いたのが、なにがしの廃院だったのだという。


「その廃院は、かつては名のある大貴族の邸宅だったようなんですけど。流行病はやりやまいのために、血族も完全に途絶えてしまい、以後は放置されていたそうです」


 形ばかりの院の預かり役、管理人のような老人はいたものの、その女房は「野盗たちが捕縛されるまでの間だけで構わないから」と、必死に頼み込んだらしい。

 一方で、老人としても、その屋敷を管理するように命じた主君はもういない。

 ただ、形ばかり預かっているだけの廃院なのだ。とがめる人間も、もう存在しないというわけである。

 幼い娘を抱えながら、苦労をしている様子の姫君に同情した老人は、その女房の頼みを聞き入れることにしたとのことだった。


「僕としても、検非違使けびいしたちの夜警やけいを増やしたりはしてはいるんですけどね。それもなかなか行き渡らなくて。それに、夜警はどうしても、貴族の邸宅周りを優先せざるを得ないというか……」


 光る君は、苦々しいため息をつきながらそう語る。

 貴族というのは、夜ごと出歩いては、妾妻しょうさいたちの元を渡り歩くもの。

 その一方で、治水灌漑かんがいの計画立案や租税分配・法整備など、国を動かす政治家としての一面も、確かにになってはいるのである。

 やれ、死穢しえだ血のみだと何十日も物忌にもられてしまっては、国政がとどこおってしまうというわけだった。

 そういう事情もあって、上級貴族の屋敷街まわりは夜警を手厚くせざるを得ないのだと、光る君は皮肉げに説明する。


 要するにくだんの廃院は、五条の寄宿先よりも建物自体が堅固で、そのうえ周囲には夜警をする検非違使たちの存在もある、二重の意味で安全な場所だったというわけだ。

 仮住まいの場所を移したくなるのも、頷けるというものだった。


「それで、その姫君がもともと身を寄せていたのが、僕の乳母めのとだった人が住む屋敷の隣家だというから、先に見ておこうと思ったんです──あぁ、ここですね」


 光る君に手を引かれるまま、辻を曲がった先には。

 こぢんまりとした、質素な門構えの家が、ひっそりとたたずんでいた。

 周囲には檜垣ひがきの外囲いこそあるものの、動きやすい格好をしていれば、脩子の身でも乗り越えられそうな高さである。

 その奥に見える屋敷も、とても中級貴族の姫君が仮住まいをしているとは思えないような、簡素なつくりのように見えた。

 これで、近くにたちの悪い野盗が出たとあれば、確かに不安を覚えるのも無理からぬことだろう。

 そう納得しかけて、脩子はふと首を傾げる。光る君の言葉の中に、何やら聞き捨てならないものがあったような気がしたからだ。


 彼は今、自分の乳母めのとが住む屋敷の、隣家であると言ってはいなかったか。

 六条にほど近い、乳母の隣家に身を寄せていた中級貴族の姫君といえば、それはすなわち──。


「僕の乳兄弟ちきょうだいいわく、夏には夕顔という花が咲く家なんだそうですよ。亡くなった姫君と呼び続けるのも可哀想だし、仮に、夕顔の君とでもしておこうかな」

「わぁ、やっぱり夕顔だった……!」


 きょとんと目を瞬く光る君をよそに、脩子は顔を覆ってそううめく。

 夕顔とは、『源氏物語』の第四じょう『夕顔』に登場する、中流階級の女君だった。

 光源氏は、病にせった乳母を見舞ったことをきっかけに、この夕顔と知り合い、やがては彼女のもとに通うようになる。

 だが、彼女の仮住まいは市井しせいの中にあった。そのため庶民たちの生活音もよく聞こえ、なかなか心安らぐことが出来ない。

 結果として、より水入らずで落ち着ける場所を求めた源氏は、彼女をなにがしの院に連れ込むのだが。

 彼女はその晩、あわれにも物の怪にとり殺されてしまう──というのが、第四帖『夕顔』の内容なのだった。


「きみ、その夕顔の君とやらに、面識は?」

「いえ? 特にはありませんけど……」


 光る君はぱちくりと目を瞬いて、不思議そうに首を振る。

 脩子は「……そう」とだけ相槌あいづちを打って、そっと静かに目を伏せた。

 光る君と面識があろうとなかろうと、彼女が廃院におもむく羽目になったというのは、何とも因果なものである。


「……それで? 夕顔の君は廃院で、どんな風に亡くなったの」


 気を取り直して、光る君に向かってそう問えば。

 光る君は、形の良い眉をひそめながら、脩子を見遣る。

 その口から語られたのは、何とも凄惨せいさんな姫君の最期だった。


「えぇ。何でも彼女は、まるで鬼に一口で喰らわれてしまったかのように、片腕だけの状態で見つかったそうですよ」




(続く)

【3章 3/7】

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