其の参
着丈の長い
これに、
動きやすさという点では、やはり
何しろこの時代、大貴族の邸宅が集中するエリアを一歩出れば、その辺に死体が転がっていることも、さして珍しくはないのである。
庶民の埋葬スタイルは
そうして、一通りのものを身につけて、屋敷の門を出てみれば。
その顔には、今となっては懐かしい
その身なりも、彼の本来の身分からすれば、あり得ないほどに質素なものだ。
この様子では、二人連れ立って
「それじゃあ、行きましょうか」
「いや……その手はなにさ」
「なにって、手を繋ごうと思って」
まるで犬に「お手」とでも言うように差し出された手に、脩子は思わず半眼になる。
だが、光る君はといえば。そんな脩子の反応などお構いなしに、脩子の手をとって、すたこらさっさと歩き出してしまう。
「あ、こら──」
「これ、あなたが昔、僕にしたのと同じことですからね。やれ、
その都度どぎまぎしていた、こっちの気持ちも知らないで。
そうぼやく光る君の声には、何やら恨みがましい響きがある。
何だかそう聞かされると、純情な少年の心を
だが、脩子としては、完全に恋愛対象外の存在だろうと思い込んでいたからこその、所業だったのである。
だって、どう考えても脩子は、この時代でいうところの『論外の女』なのだ。
それを包み隠さず見せつけてきた相手から、まさか恋情を抱かれていようなど、想定しうるわけがなかった。
「……私は、どこに出しても恥ずかしい宮姫だと思うのだけど」
そう、ぼそりと呟けば。
光る君は振り返ることなく「まぁ、世間一般でみれば、そうなんでしょうけどね」と言葉を返す。
「だったら、何だってこんな……」
「そりゃあ僕だって、最初はおかしな人だなぁ、と思っていたんですよ」
でも、と光る君は言葉を続ける。
その声音は、どこか懐かしげだった。
「あなたの物の考え方は、面白いから。それに、ずっと子ども扱いされるのも、なんだか
光る君は振り返ると、こちらの顔を覗き込みながら苦笑する。
脩子はその言葉に、
そんなつもりは
「……代筆の件は、意図的だったの」
結局、絞り出した言葉はそれだった。
脩子は当初、光る君との縁は、彼の
それが今なお続いているのは、ひとえに代筆の一件のせいだった。
光る君はといえば「あぁ、あれですか」とくつくつ笑う。
「えぇ。そうですよ、意図的でした。一番初めの代筆は、わりと
光る君はあっさりと白状して、悪びれることなく肩を竦める。
結局〝藤の宮〟の筆跡は、すっかり光る君の手によるもので定着してしまったのだ。
脩子は何も知らずに、元凶である光る君を頼る羽目になり。
光る君はといえば、ちゃっかり脩子の元に届く恋文を、全て
正直いって、まあまあ悪質なマッチポンプである。
「
「
思わず悪態をつけば、光る君からはそんな小憎らしい言葉が返ってくる。
「僕はただ、元服した後にも、あなたに会いに行ける口実が欲しかったんです」
光る君は、そんな
そりゃあ、その〝会いに行ける口実〟とやらが存在しなかったからこそ、『源氏物語』の光源氏は、色々と
脩子は自由に動かせる片手で顔を覆うと、深く深くため息をつく。
「策士め……」
「お褒めに
「褒めてない」
「知ってます」
苦々しい呟きは、軽やかな笑い声と共に受け流されるばかりだ。
その横顔が、いやに上機嫌で憎たらしいものだから、脩子は彼の脇腹を
「……それにしても、寒いわね」
吐く息の白さは、その寒さを物語るようだった。
「あぁ、昨夜はとうとう、雪が降ったそうですよ。そう長くは降らなかったようですけど、一時は薄く積もったんだとか」
言われてみれば、
左右に立ち並んでいた、立派な
「それで、目的地は?」
「えぇ。事件が起きたのは、所有者の途絶えてしまった廃院なんですけど……でも、そこへ行く前に、寄っておきたい場所があって」
「寄っておきたい場所?」
光る君は、ちらりと脩子を見遣りながら頷く。
そのあたりは、下級貴族のこぢんまりとした屋敷と、小綺麗めな庶民の長屋が並立する区画であるようだった。
「昨夜、廃院で亡くなったのは、中級貴族の姫君らしいんですけど……。その女性がもともと住んでいた屋敷を、一応、確認しておきたくて」
「え、中級貴族の女性が、なんでまた廃院なんかで……」
院と称されるからには、元は大貴族の邸宅であったのだろうに。
その所在地は、どちらかといえば、上級貴族の屋敷が集合するエリアにあるはずだった。間違っても、こんな長屋の入り混じる区画になどあるはずもない。
それに、中級貴族の女性が廃院で亡くなっていたというのも、奇妙な話だ。
「最近、たちの悪い野盗の集団が、京域内に出没しているんですよね。その、亡くなった姫君が廃院にいた理由というのも、どうやらその野盗騒ぎに起因しているらしくて」
かつては通ってくる男もいたらしいが、その男の正妻に
だが、身を寄せていた五条の屋敷は、お世辞にも立派とは言えない造りであったらしい。その折に、近隣での野盗の出没である。
幼い娘もいるというのに、防犯面で
どうにも心細げにしている主人を見かねた女房が、
「その廃院は、かつては名のある大貴族の邸宅だったようなんですけど。
形ばかりの院の預かり役、管理人のような老人はいたものの、その女房は「野盗たちが捕縛されるまでの間だけで構わないから」と、必死に頼み込んだらしい。
一方で、老人としても、その屋敷を管理するように命じた主君はもういない。
ただ、形ばかり預かっているだけの廃院なのだ。
幼い娘を抱えながら、苦労をしている様子の姫君に同情した老人は、その女房の頼みを聞き入れることにしたとのことだった。
「僕としても、
光る君は、苦々しいため息をつきながらそう語る。
貴族というのは、夜ごと出歩いては、
その一方で、治水
やれ、
そういう事情もあって、上級貴族の屋敷街まわりは夜警を手厚くせざるを得ないのだと、光る君は皮肉げに説明する。
要するに
仮住まいの場所を移したくなるのも、頷けるというものだった。
「それで、その姫君がもともと身を寄せていたのが、僕の
光る君に手を引かれるまま、辻を曲がった先には。
こぢんまりとした、質素な門構えの家が、ひっそりと
周囲には
その奥に見える屋敷も、とても中級貴族の姫君が仮住まいをしているとは思えないような、簡素なつくりのように見えた。
これで、近くにたちの悪い野盗が出たとあれば、確かに不安を覚えるのも無理からぬことだろう。
そう納得しかけて、脩子はふと首を傾げる。光る君の言葉の中に、何やら聞き捨てならないものがあったような気がしたからだ。
彼は今、自分の
六条にほど近い、乳母の隣家に身を寄せていた中級貴族の姫君といえば、それは
「僕の
「わぁ、やっぱり夕顔だった……!」
きょとんと目を瞬く光る君をよそに、脩子は顔を覆ってそう
夕顔とは、『源氏物語』の第四
光源氏は、病に
だが、彼女の仮住まいは
結果として、より水入らずで落ち着ける場所を求めた源氏は、彼女を
彼女はその晩、
「きみ、その夕顔の君とやらに、面識は?」
「いえ? 特にはありませんけど……」
光る君はぱちくりと目を瞬いて、不思議そうに首を振る。
脩子は「……そう」とだけ
光る君と面識があろうとなかろうと、彼女が廃院に
「……それで? 夕顔の君は廃院で、どんな風に亡くなったの」
気を取り直して、光る君に向かってそう問えば。
光る君は、形の良い眉を
その口から語られたのは、何とも
「えぇ。何でも彼女は、まるで鬼に一口で喰らわれてしまったかのように、片腕だけの状態で見つかったそうですよ」
(続く)
【3章 3/7】
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