其の弍



 飼っていたすずめの子が、逃げてしまったの。

 そう言って、まだあどけなさの残る少女が、脩子ながこの膝上でめそめそと泣く。

 彼女はつい昨日から、この屋敷に居候いそうろうを始めた住人だった。

 その容姿は、幼いながらにも、不思議と脩子によく似通っている。

 だが、それもそのはず。脩子と少女の間には、確かな血縁関係があるのだから、仕方がない。


 少女の父親は、先帝の息子のうちの一人、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやなのだ。

 脩子とは母后ぼこうを同じくする、同母兄である。

 つまり、実兄の娘にあたるその少女は、脩子にとって、めいっ子という間柄になるのだった。


「……だいたい、私の実子である訳がないだろうに」

「いやでも、あまりにも宮さまに似ていらっしゃるものだから……」


 胡乱うろんな目で光る君を見遣れば、彼はきまり悪そうに、そっと視線を逸らす。

 脩子はため息まじりに肩を竦めた。


「私の姪っ子と、この子の母方の祖母である尼君あまぎみを、しばらく西の対屋たいのやに住まわせることになっただけだよ」

「あぁ、なるほど……」


 この少女の母親は、脩子の兄──兵部卿宮の妾妻しょうさいであったらしい。

 だが、残念ながら、彼女は産後すぐにはかなくなってしまったのだという。

 少女はその後、母方の祖母である尼君に育てられているそうなのだが。

 この祖母と孫は、折に触れて、兄の正妻から嫌がらせ行為を受けているようだというのである。

 自分の正妻が陰で行なっている仕打ちを知った兄は、彼女たちの一時的な避難場所として、自分の妹が住む屋敷へと目をつけたというわけだった。


 いわく「お前は独り身のくせに、立派な旧邸を与えられているだろう。どうせ場所を余らせているのなら、間借りさせてやってくれ」とのことである。


 まぁ脩子としても、使用していない対屋たいのやはいくらでもあるし、その打診を断る理由も特にはなかった。

 人が住んでいない離れというのは、相応に朽ちるのも早いのだ。使ってくれる人がいるのなら、それに越したことはない。

 一時的といわず、ずっと居着いてもらっても、一向に構わないくらいである。

 そんな心積もりでもって、脩子は彼女たちの居候を快諾かいだくしたというわけだった。


 さて、そんな事情を聞いた光る君はといえば、露骨に安堵あんどした様子だった。

 その上「今後は宮さまが後見になって、その子を養育するおつもりなんですか? もしも僕に手伝えることがあれば、言ってくださいね」などと申し出る始末である。


「ほら、手習てならいや楽器なら、僕にも教えられることがあるだろうし」


 そう付け足した光る君の声色は、随分と弾んでいて。

 ちゃっかりと、養育する側に名乗りを上げるつもりでいるのが分かる。

 だが、そんな光る君に反して、脩子はというと。

 酢を丸ごとひとびん飲まされたような、何とも言えない表情になるばかりだった。


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの娘にして、藤壺の宮の姪。

 何故ならその少女は、『源氏物語』でいうところの若紫だ。

 つまりは、のちの紫の上なのである。


(人に告白なんかしておきながら、結局は、理想の女というものを育て上げたいんじゃないか)


 脩子はつい、そんな苛立ちを込めて、光る君をじっとりと睨む。

 だが、当の光る君はと言えば、至って涼しい顔で小首を傾げてみせた。

 それから「何だか妙な勘違いをしていそうだから、一応言っておきますけど」と、困ったように苦笑する。


「全体的には、あなたによく似ていらっしゃる姫君だけれど。不思議と僕にも、似たところがあるようだから」


 そりゃあ、光る君にも似ているところはあるだろう。

 若紫は藤壺の宮に瓜二つで、藤壺の宮は桐壺の更衣と生き写しなのだ。

 A=B かつ B=C であれば、A=C であるのも道理である。

 桐壺の更衣の血を引いている光る君にも、若紫と似通にかようところがあるのは、半ば当然のことだった。


 まぁ、そもそも彼は、脩子と自分の母・桐壺の更衣が似ていることを知らないからこそ、不思議に思っているのだろうが。

 光る君は、少し首を斜めに傾けながら、こちらの様子をうかがうように視線を送る。


「だから、いつか、宮さまと僕との間に子どもが生まれたとしたら、きっとこんな感じなのかな、と。つい、想像してしまって」


 そう言って、照れたように笑う彼の姿は、どうにもあざとい。

 脩子はといえば、大人気なく耳を塞いで、くしゃりと顔を歪めるばかりだった。


「あーあーあー、聞こえない。私はなんにも聞こえないぞ! きみ、私を揶揄からかうために、わざと言っているな!?」


 すると、光る君は「ばれました?」と悪戯いたずらっぽく笑う。


「まぁでも、宮さまにはこれぐらい直截な言い方をしないと、まるで意識してもらえないみたいだから。まぁ、仕方がないですよね」


 僕だって本当は、こういう露骨にあけすけ、、、、なのは、趣味じゃありませんけど。

 開き直った物言いの光る君は、いけしゃあしゃあと、そんなことを言う。

 脩子はぐぬぬ、と歯噛みするばかりだった。


 気付けば、つい先ほどまで泣いていた少女も、すっかり泣き止んでいて。

 だが、その少女からも、ひどく残念なものを見るような目を向けられていることに気付いてしまって、どうにも居たたまれない気持ちになる。脩子は顔をそむけて、ふんと鼻を鳴らした。

 それから、姪っ子よりもさらに幼い女の子を抱きかかえる青年を、ちらりと横目に流し見る。


「……すでに、他所よそで子どもをこさえているような相手に、なんと口説くどかれたところでね」

「えぇ。だから、いちばん誤解をされたくないお方のところへ、真っ先にやって来たんじゃないですか。きちんと事情を説明するために」


 にっこり。

 そう擬音がつきそうな、それはそれは綺麗な笑みだった。

 その笑顔は、まさに有無を言わさぬといった風である。

 何やら、ずももも……と黒いものを背負って笑う青年を前に、脩子は大人しく居住まいを正す他なかった。


「でも、とはいえ何から話したものかな……ここから先は、あまり愉快な話じゃないんですけど」


 そう前置きした光る君は、一転して、神妙な面持ちになる。


「この子の母君は、昨夜、何者かに殺害されてしまったそうですよ……それも、かなり異様な状態で」


 抱えていた幼女をそっと床に下ろしながら、青年は静かに目を伏せる。

 脩子も小さく目をみはり、それから無言で思考を切り替えるのだった。




      ◇◆◇



 さて、その事件が明るみになったのは、昨夜未明のこと。

 したがって、現在進行形で、捜査が行われているとのことである。


「関係者は皆、女房から下男まで、事情聴取のために勾留こうりゅう中みたいです」


 あやふやな記憶も、他人の証言を聞いてしまえば「そうだったかもしれない」と思えてしまうもの。

 そのため、関係者はひとところに集めず、個別に事情を聴取している最中であるのだと、光る君はいう。


 だが、そうなると必然的に、誰かがこの幼い姫君の面倒を見なければならないということになる。

 まだ三歳ほどの幼女は、強面こわもてばかりの無骨な検非違使けびいしたちに囲まれて、案の定、手が付けられないほどに大泣きしたらしかった。

 そうして、対応に苦慮くりょした現場の役人たちは考えた。

「そういえば、強面ではない長官どのが、ちょうど物忌ものいみで暇を持て余しているではないか。押し付けてしまえ」と。


 覆面ふくめん殿上童てんじょうわらわだった頃から付き合いのある、古参の検非違使たちの中には、そういう怖いもの知らずの発想をする者もいるらしい。

 まだ身分を明かしていなかった時分には、彼も随分と可愛がられていたようなので、その名残なごりのようなものなのだろうか。


 そういうわけで、今朝方のこと。

 幼い姫君は、光る君のいる二条院へと預けられるに至ったのだそうだ。




 だが、とはいえ光る君としても、その対応には困ったもの。

 正妻を持たない男性貴族が、まだ幼いとはいえ、女性を自分の屋敷に連れ込むということ。それは、とりもなおさず、そういう意味、、、、、、として受け取られかねないことであるからだった。


 たとえば『源氏物語』において、北山で若紫を垣間見かいまみた光源氏は、さっそく「後見役となって、姫君を二条院へ引き取りたい」と持ちかけるのだが。

 それを受けた尼君らは「源氏、、結婚、、相手、、する、、には、、、孫娘はまだあまりにも幼いから」と、本気にしなかったとあるくらいだ。

 当時としては、やはりそのように受け取られるのが一般的だったのだろう。


 光る君からすれば「いずれめとるつもりで、幼女を屋敷に迎え入れた」などと妙な噂を立てられるのも厄介だし、それを脩子に誤解されてしまうのも困るというわけだ。

 そういう事情から、ひとまず幼女ごと、人目につかないよう脩子の屋敷へとやって来た、とのことだった。


「この姫君は、事件が解決してしまえば、乳母めのとや使用人たちのもとへ返してあげることが出来るはずでしょう? だから、これから検非違使たちのところへ行ってみようと思うんですけど……。その間だけ、この姫君を預かって頂けたなら、と」


 光る君の腕から下ろされた幼女は、まだ母親の死を理解してはいないのだろう。

 脩子の姪っ子も、逃げた雀のことなどすっかり忘れてしまった様子で、自分よりずっと幼い姫君に対し、興味津々であるようだった。

 年上ぶりたい年頃なのか、それとも単に面倒見のいい性格なのか。姪っ子は初対面の幼女に対し、さっそくあれこれと話しかけて、あやそうとしている。

 そのかたわらでは、王の命婦が二人の様子を微笑ましげに見守っていた。彼女たちの相性も、特に問題はなさそうである。


「まぁ、この屋敷で預かる分には、別に構わないけれど」

「宮さまは、どうされますか? 一緒に行きますか?」


 ちらりとこちらを見遣った光る君は、脩子の反応をうかがうように、小首を傾げる。

 確かに、脩子が屋敷に残ったところで、幼児をあやす戦力にはなるまい。

 脩子は小さく肩を竦めると「そうだね。久しぶりに、行ってみようかな」と言葉を返した。


「ねぇ命婦。私の狩衣かりぎぬは、どこに仕舞ってあるかしら」


 そう尋ねてみるも、命婦は「そんなもの、どこにもありやしませんよ」とにべもない。

 その昔、光る君の仕入れてくる情報が不十分だった頃には、よく狩衣を着て、情報収集に繰り出したものだった。その頃に着ていたものが、まだどこかにあるはずなのだが。


「ねぇ命婦、一生のお願い」

「おや、これは異なこと。その一生のお願いとやらは、もう何回目でございますか。あなたさまの一生は、いったい何度あるのです」

「そりゃあ、六道輪廻を転生すれば、何回でも?」

「……いい加減、解脱げだつしてくださいまし」


 しれっとそう返した脩子に対し、命婦は呆れ果てた口調でため息をつく。

 それでも「……南のひさしの、二階厨子にかいずしの中でございますよ」と教えるあたり、彼女も何だかんだで、脩子に甘い。

 そんなことを思いながら、二階厨子の中身を改めてみれば──。


「いや、普通の壺装束つぼしょうぞくじゃん」


 出てきたのは、外歩き用の、貴族女性の装束一式だった。

 何だかしてやられた気分になって、脩子は小さく唇を尖らせる。


(……狩衣だったら、もっと動きやすいのに)


 脩子は渋々と、もそもそ壺装束に着替えるのだった。




(続く)

【3章 2/7】

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