第三章 花の夕顔、鬼はや一口に喰ひてけり

其の壱




「……いよいよ降り出しそうですね」


 脈絡みゃくらくのない呟きが聞こえて、脩子ながこは巻き物に落としていた顔をあげる。

 ついと視線を動かせば、簀子すのこの柱に背を預けて座る光る君が目に入った。


 簀子とは、半屋外の縁側だ。現代でいうところの、えんに近い。

 彼は読みさしの書物を膝の上に伏せて、ぐずついた空模様をぼんやりと見上げていた。曇天を背負っていても、物憂ものうげで絵になってしまうのだから、つくづく美形というものは得である。


 降って湧いた、三十日間の死穢しえみ。

 いとまを持て余した光る君は、脩子の屋敷を図書館がわりに入りびたる日々だ。

 それでいて、きちんと人目を忍んでやって来るものだから、世間の噂になってしまわない限りはと、脩子も好きなようにさせている。


 どうせ、三十日間の物忌ものいみも、もう終わりが近いのだ。

 あと数日もすれば、また宮中へ出仕しゅっしする日々に戻るのだろう。

 そう思えば、少しくらいは大目に見てやろうという気にもなるのだった。


「あ、ほら、降り出した」


 光る君の呟きにつられるように、曇天を見上げれば。

 確かに雨滴がひとつ、またひとつと落ちてきては、またたく間に乾いた地面を濡らしていく。

 季節はもう、紅葉もすっかり散り終わった頃合いだった。気付けば師走しわすも後半に差し掛かっている。

 空気は日に日に冷たさを増しており、冬の到来を如実に告げていた。

 このまま雪に、変わらないといいけれど。

 そんなことを思いながら、脩子はひさしの間から、重い腰を上げる。


「……格子こうしを下げて回るの、手伝ってもらうよ」

「えぇ。それを手伝ってから、帰ろうと思って。降り始めるの、待っていたんですよね」

「あらそう。それはどうも」


 脩子はこの屋敷に、必要最低限の使用人しか置いていない。

 その割に、屋敷の規模自体は大きいものだから、こういう気遣いは素直に有り難かった。

 ここはひとつ、光る君の厚意に甘えることにして。

 脩子は手拍子を打って、王の命婦みょうぶも呼び寄せることにする。

 屋敷は広しといえども、何だかんだで、母屋もやが一番大きいのだ。二人でのんびり下げて回っていたら、すっかり雨が降り込んできてしまう。


「命婦!」

「はいはい、分かっておりますとも。少しお待ちくださいな」


 いそいそとやって来た命婦も加わって、三人で手分けをしながら、格子こうしを下ろし始めれば。光る君が「そういえば──」と、思い出したように口を開く。


「あれは、いつだったかな……確か、五月雨さみだれの降る、宿直とのいの夜のことだったと思うんですけど」


 宿直とのいとは、宮中や役所に宿泊して勤務・警戒をする、当番制の夜勤業務だ。

 平安時代には、大臣おとど納言なごん蔵人頭くろうどのとう近衛大将このえのたいしょうといった高級貴族でも、この宿直の役を務めることがあった。


「その日は僕、宿直所とのいどころ頭中将とうのちゅうじょうに捕まってしまって。やれ、何か浮いた話はないのかと、散々にからまれたんですよね。わずらわしいったらなかったな」


 そのぞんざいな口ぶりからは、裏腹に、二人の気安い関係性がうかがえる。

 頭中将は『源氏物語』の通りに、彼にとって気の置けない友人になっているのだろう。

 光る君は格子こうしを下ろす手を止めることなく、何気ない調子で言葉を続ける。


「で、そうこうしている内に、左馬頭さまのかみどのや藤式部丞とうのしきぶのじょうどのまで、話に加わってきて。皆、それぞれの恋愛観を、ああでもない、こうでもないと語り始めるんですよね」


 光る君は苦笑しながら「僕、さっぱり話についていけなくって」と肩を竦める。

 それは五月雨の降る、宿直の晩のこと。

 おまけに、光る君・頭中将・左馬頭・藤式部丞という面子めんつ


 はて、脩子はその取り合わせに、何やら既視感きしかんを覚えて首を傾げる。

 何だったろうかと記憶をたぐり寄せてみれば。

 そう間を置くこともなく、既視感の正体へは思い至ることが出来た。


(……あぁ、雨夜あまよの品定めか)


 そういえば、そんな場面があったなと、脩子は一人納得する。

 雨夜の品定め。それは、第一じょう桐壺きりつぼ』に続く、第二帖『箒木ははきぎ』の大半を占める、有名なエピソードだった。

 源氏の出生と成長、初恋と元服までを描いた初巻『桐壺』の帖。

 これに続く第二帖『箒木』は、実は、何とも不自然な冒頭文から始まるのだ。



光る、、源氏というと、名前だけは大層で、非難されるような好色なところが多いように思われますが、実際はそれよりずっと質素な心持ちの青年であられました。

 後世に軽薄な浮き名を流されないようにと、内密にしていた事さえ今に伝わっているのは、世間の口が軽いからなのでしょう。

 たいそう世間を気にして、真面目になさっていた頃には、つやっぽく面白い話はないのでございますが……。

 源氏の君がまだ中将であられる頃は、内裏だいりにばかりいらっしゃって、左大臣の御邸(正妻である葵の上の屋敷)には、時々にしか、おいでになりません。

 浮気でもしておられるのかと疑われることもありましたが、源氏の君は、世にありふれた浮気な色恋沙汰は、お好きでないご性格のようでした。

 まれには風変わりな恋をして、たやすい相手でない人に心を打ち込んだりする癖はおありでした──〟



 と、それまでの『桐壺』の帖では、光源氏の好色ぶりなど一切語られていなかったにもかかわらず。

 続く『帚木ははきぎ』の冒頭では、突如として「源氏=有名な好色人」であることが大前提になっているのである。

 そして、その上で「でもこの時期には、まだ好色めいてはいなかったんですよ」と、読者に言い訳をしているようにも見受けられるのである。

 どうにも、読者側がすでに「好色人としての源氏像」を確信していることを前提に、話が進んでいる節があるのだ。

「あれ?『桐壺』で抱いた主人公像と、何だか違うぞ」と。

『桐壺』から順を追って読んでいくと、まず『箒木』の冒頭で、面食らってしまう羽目になるのである。


 そのため『源氏物語』は、第一帖の『桐壺』から巻数順に書かれたのではなく、先に第五帖『若紫』など以降から成立し、のちにいくつかの帖がさかのぼって挿入されたのではないか──といったような考察も、昔からなされていたりするのだが。

 各巻の成立順には様々な学説があり、定まっていないのが実情である。



 さて、そんな話は、ともかくとして。

 雨夜の品定めは、そんな『箒木』の帖を彩る、非常に有名な一幕なのだった。


 長雨の続く夜に、若い青年たちが寄り集まって、何やら盛り上がっている。

 では、何に盛り上がっているのかといえば、恋バナである。

 雨夜の品定めは、若手の男性貴族たちが宿直とのいの夜に、それぞれの女性観や結婚観、恋愛体験談などを語り合うシーンなのだ。

(とはいっても、この頃の源氏には浮ついた話もあまりなく。彼は終始、聞き役に徹してはいるのだが)


 彼らの会話は、男の本音トークといえば聞こえはいいが、要は女性の品評会である。ざっくり雑に要約すると、以下のような内容だった。


『完璧な女なんて、ほとんどいやしないんですよ、結局ね』

『上流階級に生まれた女は、大事にかしづかれて、欠点も隠されているもの。いざ結婚してみると、がっかりすることも多いんですよねー』

『それに、身分の高い女性が優れていても、それは良い教育を受けているのだから、当然であるというか。ぶっちゃけ、面白みがない』

『オススメは、中流階級の女ですよ。思いがけないところでイイ女に出会えると、その意外性に心を動かされるというものです』

『下流階級? そんなの論外ですよ。ないない。というか、相手にしたこともない』

『素直で幼く、聞き分けのいい妻は悪くないですが、主体性がないと面倒ですよ。こちらが全て決めてやらないといけないから、色々と任せきりにすることが出来ない』

『かといって、バリバリ効率重視の妻も困りものです。ひたすらテキパキ家の事をこなして、邪魔だからって髪の毛を耳に挟んで留めちゃうような、「ザ・主婦」みたいな妻には、お世話されたくないなァ』

『浮気な男に対して、不満を伝えるために、何かと『出家してやるー』みたいなのあるけど。そういうのって、フィクションだったらいいんですよ? でも、大人になって現実的に考えると、わざとらしくて軽率で、呆れません?』

『深く嫉妬しっとしすぎず、ちょっとヤキモチをいてくれるくらいが丁度いいんです』

『風流でモテる女は、すぐ浮気するし……!』

『賢すぎる女も、妻にするもんじゃないですよ。気疲れするし、心が休まらない』


 とまぁ、とにかく言いたい放題の内容なのだ。

 光る君が巻き込まれたという、その宿直とのいの晩の恋愛談義も、内容はおおむね物語の通りであるらしかった。


「頭中将や左馬頭どのなんかは、なかなか真に迫った物言いで。けっこう面白かったんですよ。あれは本当に、手痛い失敗がたくさんあるんだろうな」


 光る君は、思い出し笑いをこらえきれない様子で、くすくすと肩を揺らしながら言う。

 だが、残念ながら、脩子はその話をあまり笑えなかった。

 それこそ、研究者としての目線であれば。

「あぁ、源氏はこの品定めでの伝聞をきっかけに、中流階級の女性(空蝉うつせみ夕顔ゆうがお明石あかしなど)にも、興味を持つようになるのだなぁ……」と、冷静に分析していられたのだが。

 いざ、自分も品評される女性の側であると思えば、正直な所「やかましい」という一言に尽きるのだ。

 都合のいいことばかりを言う男どもに、ついつい物申したくなってしまうのである。


 とはいえ、ただ聞き役に徹していたであろう光る君に当たるのも、筋違いの話だと思えばこそ。脩子は仕方なく、溜飲りゅういんを下げることにする。

 命婦などは「私もあと三十歳ほど若ければ、中の品として見初みそめて貰えることもあったのでございましょうかねぇ……」などと、若い娘のように頬を赤らめているけれど。

 脩子はそれを横目に、ほんの出来心から、気になったことを尋ねてみる。


「それで? きみは、それを聞いてどう思ったの?」

「え? いや、どうと言われても……」


 光る君は、格子こうしを下ろす手を止めて、きょとんと首を傾げる。

 それから、少し考えるような素振りを見せたあと、彼は小さく肩を竦めてみせた。


「何というか……嗜好しこうは人それぞれでしょう? そういう見方もあるんだなぁ、としか思いませんよ」


 だが、返ってくる回答は、万人の反感をかわすことが出来そうな、何とも当たりさわりのないものである。

 そういう優等生じみた、面白みのない回答を聞きたいわけではないのだが。

 脩子は弟分の本音を聞いてみたくて、問うてみたのである。


 何しろ『源氏物語』において、光源氏の理想の女性は、生涯を通して藤壺の宮だ。それは、研究者でなくとも既知のこと。自明のことだった。

 だが、物語上で語られるような、才色兼備の完璧な女性としての『藤壺の宮』は、この世界のどこにも存在しないのである。

 代わりに居るのは、ろくに和歌もめない、楽器も弾けない、裁縫もできない、ないない尽くしの脩子だけ。

 平安時代の評価基準でいえば、脩子は誰がどう見たって『女として論外』以外の何者でもない。


 となれば、気になるのは弟分の、現在の理想像だった。

 要するに、脩子は自分の存在が引き起こしたバタフライエフェクトの、その先が知りたくなってしまったのである。


「ほらほら。どうせ頭中将には、どういう女性が好みか、根掘り葉掘り聞かれたんだろうに。それに対して、きみは何と答えたのかなーと。ほら、女性の好みくらい、多少はあるでしょう」


 脩子は、年長者の余裕をかもし出しつつ。

 けれども内心では、下世話にも興味津々で、矢継ぎ早に質問する。

 光る君は、わずかに瞠目どうもくしたかと思えば、逡巡しゅんじゅんするように沈黙した。

 それから、何とも居心地悪そうに視線を泳がせると、この上なく不本意そうに言葉をつむぐ。


「……いていうなら、好きになってしまったかたが、好みだって答えましたよ」


 好きになった人がタイプ。

 しかしこれもまた、何とも無難な返答である。

 むしろ、そんな当たり障りのない内容を言い淀む理由が分からなくて、脩子は「ほらほら、もう一声」と、光る君をせっついてみる。

 一方、光る君はといえば。素直に続きを白状するか、しばらく迷っているようだった。

 だが、やがては不貞腐ふてくされた様子で「あぁもう!」とぼやいて口を開く。


「……心から好いてしまった相手なら、世間一般でいうところの欠点だって、不思議と愛嬌あいきょうに思えてしまうものです、と……。それに、相手の不得手な部分を、自分がおぎなうことが出来るのなら。相手がそれを「助かる」と喜んでくれるのなら……。それに勝る喜びはないんだって、答えました」


 光る君は「……これで満足ですか」とでも言いたげに、じとーっとした目つきで脩子を睨む。一方、脩子は脩子で、ぽかんと口を開けていた。

 何故ならこの時代。和歌の贈答を交わさない限り、恋愛は何も始まらない。

 その割に「個人的な和歌の贈答は、出来る限り控えている」などと言うくらいだから、てっきり本命の恋は、まだなのだろうと思っていたのだ。

 それが、好みのタイプどころか、この言い草である。脩子はぱちくりと目をまたたいた。


「えっと、その……随分と具体的に、好きな人がいるのね……?」

「いや、あなたのことなんだけどな!?」

「えっ」

「えっ」

「えっ」


 脩子の頓狂とんきょうな声に、何故だか光る君や命婦の声も、次々と重なる。

 それから暫くの間、室内には異様な沈黙が落ちた。

 三者三様に固まったまま、誰も動かない。

 だが、それからたっぷり十数秒は経っただろうか。その沈黙を最初に破ったのは、光る君だった。

 彼は命婦の方に体を寄せると、何やらひそひそと耳打ちをするように言う。


「あの、命婦……。僕、結構分かりやすく、好意を示してきたつもりなんですけど……」


 命婦もそれに応じるように「えぇ、えぇ、それはもう……!」と相槌あいづちを打つ。


「それはそれは、明からさまでございましたよ。命婦はてっきり、宮さまはえてはぐらかしているのだと思っておりましたが……」

「えぇ。僕も、わざとはぐらかされているんだとばかり……」

「あぁ、何ということ……! うちの宮さまときたら、にぶいにも程がございましょうに……」


 脩子そっちのけで、二人はひたいを突き合わせ、そんな会話を交わし合うのである。

 目の前で繰り広げられる、完全に寝耳に水の話に、脩子は目を白黒させるばかりだった。


「え、ちょ、っと……ま、待って。……は? 私?」


 繰り返すが、脩子は平安時代の評価基準において、間違いなく『論外』以外の何者でもない。そうであるはずだった。

 命婦の言葉を借りるとすれば「どこに出しても恥ずかしい宮姫」なのである。

 それを、光る君も嫌という程に知っているはずなのだ。

 雨夜の品定めで言うところの『上流階級に生まれた女は、大事にかしづかれていて、欠点も隠されている』というのにも、当然ながら当て嵌まらない。


 それだというのに、誰が恋愛対象にカウントされるなどと思うだろう。

 そんなの、想定しうる訳がないではないか。

 思わず口を突いて出たのは、率直な感想だった。


「え、あの、正気……?」

「えぇ、まぁ。残念ながら」


 光る君は困ったように、眉尻を下げて苦く笑う。

 だが脩子からすれば、そんな馬鹿な話があってたまるか、という心地だった。


「いやその……きみ、女の趣味、悪すぎない?」

「それはまぁ、僕もちょっとは、そう思ってますけど」

「えぇ……しかも、告白しながらディスってくる……どういう感情なの」


 光る君が「泥洲でいす?」と首を傾げるので「そしり、けなし、ざまに言う、だよ」と言葉を返せば。

 彼は「さすがに、そこまで酷くは言ってませんよ。でも、事実でしょう?」などと開き直る始末である。何だかもう、情緒じょうちょを振り回されてばかりだった。


「じゃあいいです、分かりました」


 光る君は、カタンと最後の格子こうし戸を下げ終えると、脩子に向き直ってそう言った。

 それから、ずいっと一歩分、距離を詰めて口を開く。


「とりあえず、今までの会話はいったん全部、忘れてください」

「すごい無茶を言うな、きみ……まぁ、いいけれど」

「ありがとうございます」


 素直に礼を言う光る君に「え、何が?」と言葉を返してやれば。

 彼は「本当に、綺麗さっぱり忘れてくれるんですね」と苦笑する。

 だが、忘れていいと言ったのは、光る君の方なのだ。聞かなかったことにしていいと言うのであれば、脩子は全力でそうする所存だった。


 光る君は、そんな脩子を見て、小さく笑う。

 それから、まるで悪戯いたずらっ子のような表情を作ったかと思えば。

 そのいやに整った顔を近づけて「じゃあ今日、今この瞬間からでいいですから」と、脩子の耳元へと囁きを落としていく。


「僕のこと、ちゃんと男だって意識してください。だって僕はもう、一人前なんでしょう?」


 それだけ言うと、光る君は「じゃ、今日のところは帰ります」ときびすを返し、そのまますたすたと歩み去ってしまう。

 そうして、彼の後ろ姿もすっかり見えなくなった頃。

 やっとのことで我に返った脩子は、動揺のままに叫んでいた。


「いや、わざわざ忘れさせた意味は……!?」




 さて、そんなコントじみた応酬おうしゅうを繰り広げた雨の日から、ちょうど三日が経った頃。

 ふたたび脩子の屋敷を訪れた光る君は、三歳ほどの幼女を抱きかかえていた。

 一方で、脩子のかたわらにも、これまた九歳くらいの少女がいて。

 脩子の子ども時代に、不思議とよく似た容貌ようぼうであるその少女は、脩子のひざの上でしくしくと悲しげに泣いている。


「いやきみ、私に告白なんかしておいて! ちゃっかり他所よそで、子どもまでもうけているんじゃないか!」

「宮さまこそ、いつの間に!? 一体どなたとのお子なんですか!? 僕というものがありながら!」

「きみというものなどないが!?」


 脩子と光る君は、互いに相手を指さしながら、そんなことを叫び合う。

 何ともまぁ、つくづく混沌カオスな状況におちいっているのであった。



(続く)

【3章 1/7】

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