其の参


「そこからまた、どうして『狐狸こりが人に化けて殺した』だなんて話が出てくるのかしらね……」



     ◇◆◇


 一応、補足していうのなら。

 光る君もとい、覆面ふくめん殿上童てんじょうわらわの言葉が信用されなかった、というわけではないらしい。

 むしろ、検非違使けびいしたちは「一理ある」とさえ考えて、おいっ子の文章生もんじょうせいから元武官の男へと、疑いの比重を大きく傾けたのだという。

 そうなれば、取り調べる検非違使たちにも、自然と熱が入るもの。

 すると、元武官の男は、突然こんなことを言い出したのだという。


『恐ろしくて、ずっと言い出せずにいたのだが……。本当は昨日、おれはあの屋敷に行ってはいないのだ』

『おれが最後にあの屋敷を訪れたのは、もう二年も前のことだ。返済を迫られると分かっていたから、昨日の呼び出しには応じなかった』

『もしも、現場の付近でおれの姿を見たという者がいるのなら。それは狐狸こりのような化生けしょうたぐいが、おれの姿に化けていたのに違いない』と。


 これには命婦みょうぶが「まぁ、なんと恐ろしい……」と震え上がる。

 脩子ながこまぶたはぐぐっと下がって、しまいには半眼になった。


「……あー、念の為に聞くけど、それを証明できる人は、いたのかな」

「いいえ。自宅に一人でいたというので、証明できる人はいないそうです」


 その上、男はこうも主張したという。


『それに、あの池の飛び石の間隔は、広くも何ともないだろう。おれはこれでも、元は武官だぞ。いつか再び任官されることを願って、今でも体は動かし続けているし、あんな狭い間隔の飛び石を踏み外すほど、落ちぶれちゃあいない』

『きっと狐狸が化けていたから、人の身体での目算を見誤って、池に落ちたに違いない』と。


 全くもって、無茶苦茶な言い分である。

 脩子は痛むこめかみをみほぐしながら「さすがは平安時代というか、何というか……」と、小さく呟いた。


 古来、人は鬼や妖怪、神や怨霊おんりょうといった存在を、当たり前のように信じ、そして心の底からおそれていた。

 平安時代というのは、そういったモノ、、たちが、日常的に跳梁ちょうりょう跋扈ばっこしていた時代なのだ。


 それらは決して、現代のようなエンタメの中の存在ではなく、本当の意味で生活をおびやかす存在である。

 たとえば雷鳴。電気というものに理解がなかった時代であれば、それはさぞ不可解で、恐ろしい現象に見えたことだろう。

 たとえば、かまいたち、陽炎かげろう、逃げ水だって、原理原則を知らなければ、当然奇っ怪な現象として映るに違いない。


 原理が分からないからこそ、分からないなりに、正体不明のものに理由を求めた。

 それが鬼であり、妖怪であり、神で、怨霊といった存在なのだ。

 彼らはその漠然ばくぜんとした畏怖いふの対象を、総じて〝物の怪〟と称したのである。


(それを、前時代的とあなどることは、出来ないけれど……)


 たとえば令和の初頭に、コロナウイルスが猛威を振るったことがある。

 得体の知れないウイルスに、錯綜さくそうする情報。

 世間に広がる漠然とした不安に、恐怖感。

 正体不明の何か、、が日常を変えていき、名状しがたい閉塞感へいそくかんが世界を包んでいく。


 きっとあの感覚こそが、鬼で、妖怪で、神で、怨霊の正体だったのだ。

 その時代の科学や医学が敗北してしまえば、現象や病は、あっという間に物の怪のたぐいへと成り下がる。その程度の話だ。


 入郷而従郷、入俗而随俗。郷に入っては、郷に従え。

 この時代において、異質なのは脩子ながこの方なのである。感性をチューニングしなければならないのは、脩子の方だと分かってはいるのだが──。

 こと殺人事件なんかにおいても、そういったモノのせいにされるのはたまらない。

 そう思ってしまうのは、もうどうしようもなかった。


「あー、つまり、目撃された男は、狐狸が自分に化けた姿だった、と……。検非違使たちは、それを本気で信じたっていうのかな」

「うーん、どうだろう。今のところ、全員が信じたってわけではないとは思うんですけど。でも、その元武官は確かに、今も体をきたえていると一目で分かる、体つきではあるそうで……。それに、現場に行った検非違使たちも『確かに、あの飛び石を落ちるか?』と、首を傾げているんですよね」


 湯呑みをくるりくるりともてあそびながら、光る君は続ける。


「だから僕、つい気になって、実際にその池を見に行って来たんです」

「え、きみ、わざわざ見に行ったの?」


 目を丸くする脩子に対し、光る君はじとっとした目でこちらを見遣る。


「だって、しょうがないじゃないですか。僕の説明で足りない情報があると、宮さまは一人で確かめに行こうとするんだから」


 光る君のうらみがましい視線に、脩子は「そりゃあ、気になってしまったら、確かめたくもなるでしょう」と反論する。

 やる気というものは、生ものに似ているのだ。やる気は湧いてきた時にすぐ使わないと、あっという間に腐ってしまう。賞味期限があるのである。


「一応、僕が持って来たお話なんですし。せめて、僕もいる時に一緒に行きましょうって、いつも言っているのに……」


 そうぼやく顔には、『確かめに行くのを止めることは、もう諦めた』と書いてある。だが、脩子からすれば、不充分な情報を持って来る方が悪いのだ。


「だって、思い立ったが吉日なんだもの。たまたまその時きみが居れば、ちゃんと連れて行っているだろうに。たまたま居れば、ね」

「……宮さまがそんな風だから、気になることは先に確かめておかなきゃ、って。僕が躍起やっきになる羽目になるんですからね」


 不満げに呟く光る君は、大きな瞳を半分ほどまぶたに隠して睨んでくる。

 脩子はそれに苦笑で応じつつ「それで?」と話の先を急かした。


「その池、ちゃんと見て来たんでしょう。どうだった?」

「……はい。中級貴族の屋敷だし、池そのものは、中島があるほど大きな規模ではなくて。ゆるい瓢箪ひょうたん型の池が、庭の大半を占めているような形でした。飛び石の数は四つで、対岸まで渡されていたんですけど……」

「──けど?」

「飛び石同士の間隔は、確かに広くはないんです。むしろ狭いくらいというか……。大人であれば、大きく足を開けばなんとかまたげるくらいの間隔なんですよね」


 光る君は、手で幅を表現しながら言葉を続ける。


「それに、一つ一つの飛び石も、結構大きな物だったんです。一番小さな岩でも、大人が二人同時に並び立つことが出来そうなくらいには。こけが生えているわけでもなかったし、滑ることも、小さな足場だから体勢を崩した、なんてことも考えづらくて」


 光る君は、そこで一旦言葉を切ると、うーんと考え込みながら言う。


「いくら急いでいるからといって、大の大人がうっかり落ちるほどかな、というのは確かにその通りだな、と。ちょっと釈然しゃくぜんとしない気持ちも、分かるというか……」

「手足を不自由なく動かせる、しかも日常的に体を鍛えているような大の男が、果たしてその程度の間隔の岩から足を踏み外すだろうか、と?」

「そういうことですね。だから、現場を見た検非違使たちの中には『本当に狐狸が化けていたから、人の身体での目算を見誤ったんじゃないか』なんて言い出す者も、現れているみたいで」


 光る君の説明に、ふむ……と、脩子はあごに手を当て考える。

 それから湯呑みを啜って喉をうるおし、脩子は薄く笑った。


「それじゃあ、大の男でも飛び石から落ちてしまうことに納得できたのなら……。狐狸が化けた、なんて話を信じる人間もいないわけね?」


 すると、光る君はハッと顔を上げ、期待に満ちた眼差しでこちらを見る。

 そんな分かりやすい反応に苦笑しながら、脩子は再び口を開いた。




(続く)

【1章 3/4】

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