其の参
「私が〝藤壺の宮〟だということに、なってしまうじゃないか……」
◇◆◇
藤壺の宮。
彼女は光る君の初恋の女性にして、物語の最重要人物である。
むしろ、光源氏の
それは彼女が、桐壺帝の後宮へ
桐壺帝は、桐壺の更衣によく似た藤壺の宮と光る君を、まるで実の
入内の時点で、藤壺の宮は十六歳、光る君は十一歳。
結果として、光る君は年齢の近い彼女によく
けれど初恋の人は、出会った最初の瞬間から、父親の嫁という立場だ。
スタートラインからすでに、絶望的な恋である。
そりゃあもう、
やがて元服した光源氏は、藤壺の宮への恋心を忘れられないまま、彼女の面影を求めて様々な女性のもとを渡り歩くようになる。
おまけに藤壺の宮によく似た
ちなみに光源氏は(推定)二回だけ、藤壺の宮とも寝る。
とまぁ、源氏物語の根底にはいつだって、光源氏から藤壺の宮への根強い
(まぁ、元凶といえば、目の前の御仁も当て嵌まるのだろうけれど)
御簾越しにも分かるほどに、上機嫌な様子である。
聞かれてもいないのに、いかに若宮の
当然ながら、ここでいう若宮とは、亡き桐壺の更衣が産んだ第二皇子──光る君のことである。
これでは
そういうことをするから、桐壺の更衣は壮絶なイジメに遭ったのだろうに。ちっとも学習しない男である。
「母親も、養育していた祖母も、すでに亡くしてしまった御子なので、どうにも可哀想に思えてしまって……。つい、どこに行くにも連れ歩いてしまうほどですよ」
桐壺帝はそう言って、ほけほけと笑う。
挙句の果てには「あなたは亡き更衣に瓜二つであると聞くから、入内した
この男、すでに
まさか、脩子が本気で断りたいと思っているなどとは、夢にも思っていないのだろう。
確かに和歌というものは、初めはつれない対応を見せるのも、駆け引きのうち。
女房が代筆した、やんわりと断ろうとする返歌の数々も、その一環として捉えられてしまっているのだろう。
脩子は眉を寄せ、ぼそりと呟いた。
「……やっぱり私が直接、筆を取るべきだったよね。そうすれば、解釈の余地なんかないほどに、バッサリと断れたのに」
「おや、何かおっしゃいましたか?」
「いえ、何も?」
うっかり漏れ出た心の声を、しれっと誤魔化しながら、脩子は目を
さて、どうしたものだろうか。
自分が藤壺の宮の立場であることを自覚した以上は、脩子が入内しなければ、物語は進展しないだろう。それは百も承知のことだった。
けれど、だからといって、物語の展開のために人生を棒に振れるかと問われれば、答えは否である。
いっそ、物語に無関係の立場であれば、喜んで傍観者を気取れたのだろう。
だが、重要人物のポジションにいるからには、そうも言ってはいられない。
〝ジェネリック桐壺の更衣〟扱いされるのは真っ平御免であるし、誰だって我が身は可愛いもの。藤壺の宮と同じ末路を
光源氏と不義の子をこさえるのも、その罪の意識に
それに、よくよく考えれば、そもそも藤壺の宮の中身が脩子である時点で、物語の通りに話が進むはずもないのだ。
確かに脩子の容姿は整っているけれど、作中で言われるような、才色兼備の完璧な女性であるかといえば、決してそんなことはないのだから。
いっそ、初めからパラレルワールド、パロディのようなものだと考えてしまえば、自由に生きても問題はないだろう。
脩子はまたしても、あっさりと開き直った。
そうと決まれば、話は早い。
脩子は居住まいを正し、
「私の容姿が、亡き桐壺の更衣に似ているということ。それを
桐壺帝に仕える
そのため母后の所にもよく出入りしており、脩子も幼い頃に面識があった。
「けれど、典侍と最後にお会いしたのは、もう随分と昔のこと。人とは成長するにつれ、顔つきも変わるものですわ。私の現在の顔立ちは、果たして本当に、桐壺の更衣と似ているものでしょうか」
そう問えば、桐壺帝は
その隙を逃さず、脩子は畳み掛ける。
「ちなみに今の私の顔は、面長で垂れ目がち、鼻は低く、唇は薄めでございます」
適当に自分とは正反対の特徴をあげていけば、桐壺帝は
そりゃあそうだ。彼にとって価値があるのは、桐壺の更衣によく似た容姿だけ。
それを真っ向から否定されたのだから、彼が慌てふためくのも無理はなかった。
ここで「じゃあ
平安時代において、目合うは
高位の貴族、かつ妙齢の男女が互いの素顔を見るとは即ち、
顔見せのハードルが鬼のように高い以上、桐壺帝は脩子の自己申告を信じるしかない。
「そ、れは……どうやら少々、行き違いがあったようだ」
「誤解があったのなら、解消されてよかったですわ。私としても、
入内のお話は、なかったことにするのが双方のためかと存じますわ。
そう言ってにっこり微笑んで見せれば、桐壺帝はほっとしたような気配を見せた。
入内を求めた手前、自分から破談にしたいとは言い出しにくかったのだろう。
「すまない。気を悪くさせてしまっただろうか」
「いいえ。お気になさらないでくださいな」
そうは言っても、多少は気まずいのだろう。桐壺帝はそそくさと退散していく。
その後ろ姿を見送りながら、脩子はぺろりと舌を出した。
これで、入内話は完全に立ち消えたと思って良いだろう。完全勝利である。
桐壺帝は案内の女房たちを引き連れて、
口うるさいお目付け役である王の
脩子はぞろ引く
「よっし! 耐えた〜」
誰も見ていないのを良いことに、両腕を空に突き上げ伸びをする。
清々しい達成感に、脩子の気分は晴れやかだった。
やはり自分の人生は、自分の意思で選択してこそである。小躍りでもしたい気分だった。
「あー、久しぶりの太陽光!」
飛び飛びに配置された敷石の上を、脩子は
開放感から、心の
何だろうと視線を遣れば、そこにいたのは、みずら髪を結った少年である。
「あなたが、
まだ声変わりもしていない、高く透き通った声だ。
だがその簡単な問いに、脩子は
その少年の容姿に、思わず
「うわぁ……。これは
ここまで『美』が前面に押し出されている人間を、脩子は初めて見た。
年齢的には、どう見積もっても九つか十あたりだろう。だが、その幼さに見合わぬ、圧倒的な存在感がそこにはあった。
そりゃあ、脩子の今世の顔だって、場が華やぐような美形ではある。だがこの少年の容姿は、幼いながらにも、その一段階上を行くものだった。
一瞬にして、その場を支配するレベルの美貌とでもいうのだろうか。
長い
小さな顔にはパーツがバランス良く収まっており、その全ての配置が完璧に美しい。
もしも黄金律とやらが人の形をしているのなら、きっとこんな感じなのだろう。
確かにそう思わせるほどの
あぁ、名乗られずとも、嫌でも理解してしまう。
この少年こそが『光る君』なのだ、と。
脩子は片手で顔を覆いながら、ため息混じりに
「
確かに桐壺帝は『つい、どこに行くにも連れ歩いてしまう』と言っていたが、まさか、今日の
しかし、光る君はといえば、そんな脩子の動揺など知る
その大きな黒目がちの瞳を
「えっと、その、珍妙な舞、ですね……?」
「珍妙」
「はい」
「…………」
幼いながらにも、なかなかに歯に
脩子は壺庭の敷石の上、半端に浮いたままになっていた片足をそっと下ろした。
そりゃあ、壺庭で一人くるくると回っているなど、
そもそも御簾の内から出て来ないのが、奥ゆかしい姫君というものである。
脩子の振る舞いは、この時代において、はしたないことこの上ないのだろう。
と、そこまで考えて、はたと気付く。
これはこれで、いい機会なのではなかろうか、と。
ここで光る君の初恋フラグを、
光源氏が妙に初恋を
今ここで初恋フラグをへし折ったところで、いずれ光る君が成長すれば、その容姿に相応の浮き名を流すようになるのかもしれない。
けれど、現時点で恋愛対象から外れておけば〝藤壺の宮〟が彼の恋愛相関図に
脩子は晴れて、パロディ版『源氏物語』の傍観者となり、ひいては自分自身の人生を
なればこそ、ここで会ったが百年目だ。
脩子は早速、意識を切り替えた。
厄介な初恋の芽は、今ここで
それはもう、根っこも残さないほど、徹底的に。
「あらどうも。珍妙な舞で悪かったわね」
脩子は腰に手を当て、にっこりと満面の笑みを浮かべて少年を見下ろした。
「嬉しいことがあったから〝
平安時代において。女性が漢字を読めることは、あまり歓迎されない才覚である。
どのくらい
ましてや漢文の知識をひけらかすなど、もっての
それに、嬉しいことがあったからといって小躍りするというのも、普通に奇行と言って差し支えない。
おまけにそれを、誰の目に触れるかも分からない屋外でやってのけるというのも、平安時代の感覚でいえば痴女同然である。
恋愛対象になる女性として、さすがに論外のトリプルコンボだろう。
「もともと知っていたなら、ごめんなさいな。あら、知らなかった? ではきっと、二度と忘れないでしょう。良かったわね」
畳み掛けるように言葉を重ねれば、美少年の顔には次第に「うわぁ……」とでも言いたげな表情が浮かんでいく。
期待通りの反応に、脩子はしたり顔で頷いた。
その調子で、幻滅してくれればいいのである。少年のドン引いた表情を見下ろしながら、脩子はにっこりと笑みを深めた。
「あぁ、それからね──」
脩子は己の胸元ほどの背丈の少年に、ずいっと顔を寄せる。
「私、きみの亡くなったお母上には、似ても似つかないらしいよ。帰ったら、お父上に確かめて見ることだね」
脩子はそう言って、不敵に笑ってみせた。
きっと桐壺帝は、脩子のでたらめな
一方で、光る君が桐壺の更衣と死別したのは、彼が二、三歳の頃だったとされる。写真も存在しない時代において、光る君本人が母親の顔を覚えているはずもない。
つまり、眼前の少年もまた、脩子と父親の「似ていない」という言葉を
そうなれば『母に似ているらしいから』という方向性で興味を持たれることも、おそらくない。フラグは完璧に封殺である。
果たして、少年はというと。
脩子の言葉に大きな目をぱちぱちと瞬かせた後、形の良い口元を
「えっと、その……それは、よかったです」
「良かった?」
「はい。だって、どうせ覚えていないのなら、適当に美化しておいた方が心証もいいですし。母があなたみたいに風変わりな人だったと言われると、ちょっと困るなと思って。だから、似ていなくてよかったな、と」
そう言って、少年は再びくすくすと笑うのだ。
脩子はといえば『わん』と鳴く猫でも見たような気分になって、つい少年の顔を
この少年、物腰こそ柔らかいが、なかなかにイイ性格をしているのかもしれない。
「……なんだか、思ってた以上に
「それは、どうも?」
光る君はきょとりと目を瞬かせると、またすぐ愉快そうに笑い出す。
とはいえ、『おかしな人』も『風変わりな人』も、恋愛対象として論外なのは間違いない。入内だって回避したのだから、これ以上関わる必要もないのである。
脩子は明後日の方角を向いて「目的は達成したのだから、まぁ良いか」と、そっとため息をついた。
まさかこの少年との縁が、思わぬ形で続く事になろうとは。
この時の脩子には、まだ知る
***
【序 3/3】fin.
>>>『第一章
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