其の弍



 さて、時は流れ、脩子ながこは十五歳になった。

 ちなみに数え年だとややこしいので、実年齢である。

 日がな一日、物語ものを読みふけっては、時たま漢籍や漢詩文なども読んでみたりして、老齢のお付きの女房(名をおう命婦みょうぶという)にガミガミと叱られる。そんな日々だ。

 その日も脩子は脇息きょうそくひじをついて、漢字の羅列を目で追いつつ、王の命婦のお小言を右から左に聞き流していた。


「宮さま、また漢籍などを読んで! 女君おんなぎみがそんなものを読んではなりませんと、何度も何度も申し上げておりますのに!」

「命婦、うるさい」


 にべもなくそう返して、脩子ながこはぺらりと和綴わとじの冊子の頁をめくる。

 すると、王の命婦は目を三角に吊り上げて、さらにくどくどと説教を垂れ始めた。

 いわく「漢籍など、殿方の読み物ですよ」とのことである。

 そりゃあそうだろう、知っている。

 この時代、漢字は基本的に、男が読むものだ。


 けれど、ぐにゃぐにゃとした崩し仮名によってつづられた物語ものよりも、崩されていない漢文の方が読みやすいのだから、仕方がない。

 レ点や一・二点のない白文であったとしても、崩し字でないだけよっぽどマシなのだ。目が疲れている時などは、ついつい漢文の方に手を伸ばしてしまうのである。


 ちなみに、脩子が仮名文字や漢文を読むことが出来るのは、前世、大学で古典文学を専攻していたがゆえのことだった。

 脩子の通う学科では『古文書学こもんじょがく』なる科目が、卒業のための必修単位だったのだ。


 脩子はぼんやりと、自分がまだ学部生だった頃を思い出す。

 かつては、毎授業ごとに崩し仮名の長文を与えられ、それを判読はんどくして現代語に訳すまでが課題だったのだ。

 そして翌週の授業では、高校英語のリーディング授業よろしく、ランダムに生徒が指名されては、判読文と現代語訳を発表させられるのである。

 どこを当てられるかも分からないので、当然ながら、課題をサボることも難しい。なかなかに面倒な授業だった。


 ちなみに『古文書学Ⅱ』の、漢文版もしかりだ。何故なら古代の公式文書は、すべて漢文の白文だからである。おまけに、男性貴族の日記だって漢文なのだ。当時の社会情勢を知る上で、漢文を避けては通れない。


 まだ学部生だった頃は、崩し字の用例辞典や漢和辞典などを片手に、必死で課題をこなしていたものだ。

 懐かしいなぁと遠い目をしていれば、ついに王の命婦がごうを煮やしたらしい。

 手元の漢詩籍は、あっという間に奪われてしまう。


「あっ、こら。まだ読み終わっていないのに」

「こんなものを読んでいないで、姫君としての教養を、わずかなりともお磨きくださいませ! 塵芥ちりあくたのような、なけなしの素養も、磨かぬよりはましでございます」

「……塵芥ごみくずは余計だ」


 読み物を奪われてしまえば、このバリエーションに欠ける小言を聞き流すのも、いよいよ面倒になる。脩子ながこは唇を尖らせて、ようやく王の命婦みょうぶの方を見遣みやった。

 歳の頃は、五十を過ぎて、いくばくか。白いものの混じる髪である割に、まだまだ現役。初老ながらに矍鑠かくしゃくとした、脩子のばぁやである。

 松のかさね十二単じゅうにひとえを品よく身にまとった王の命婦は、脩子が生まれて以来の長い付き合いだ。

 彼女は多彩な五衣いつつぎぬがのぞくそでを目元に押し当てて、よよよと泣き真似をしながらに、白々しく言う。


「あぁ、なげかわしいこと。宮さまがこのような有様ありさまでは、わたくしは一体、いつになったら隠居いんきょをすることが出来るのか……この命婦、死んでも死にきれませぬ」

「では命婦は、この私のおかげで生き長らえていることになるな? ほら、もっと私に感謝してくれてもいいくらいだ」

「全く、ああ言えばこう言う……。この分では、命婦はウン百歳を超える物の怪にでも、なってしまいそうですよ」


 雑な返答を返せば、命婦も一瞬で嘘泣きを引っ込めて、けろりと皮肉を言ってのける。互いに気心の知れた仲であるし、このお小言も、それに対するぞんざいな返答も、ある種の様式美、日常的な茶番だった。


 命婦とて、今さら脩子の性格が根底からくつがえるとも思っていないのだろう。

 それに脩子だって、現代の価値基準をそう易々とは捨てられない。

 王の命婦が言うところの、姫君としての教養──つまりは楽器や和歌の素養を伸ばすことに、脩子は欠片かけらだって興味や意義を見出せないのだから、仕方がない。


 ちなみに脩子の、何だか尊大なような、横柄おうへいなような、何とも奇妙なこの口調。

 これは、王の命婦による『高貴な身分に相応ふさわしい言葉遣い』教育と、脩子の現代感覚が拮抗きっこうした結果の、メタモルフォーゼの成れの果てだった。

 脩子自身「どうしてこうなった」と思っているし、命婦だって「どうしてこうなった」と思っていることだろうが、今やすっかり定着してしまって、変えようがない。


「はぁ……外側ばかり美しく育っても、肝心かんじんの中身がこれでは、困りものですよ」

「……美しい、ねぇ」

「えぇ、非っ常に残念なことに。宮さまの見目だけは、たいそううるわしゅうございますよ。えぇ、見目だけは」


 そう言ってあからさまに嘆息たんそくする命婦をよそに、脩子は文机ふづくえの上に置きっぱなしになっていた鏡に視線を落とした。

 ぱっちりとした二重の瞳に、それをふち取る長い睫毛まつげ、すっと通った鼻筋。形のよい唇は淡く色付いて、肌の自然な白さを引き立てている。

 そこに映っているのは、確かにかなりの美少女ではあった。脩子も我ながら、文句なしに美人だと思える容姿である。

 だが、それはあくまでも『現代基準での』という注釈ちゅうしゃくが付くものだ。


「……妙なことも、あるものね」


 平安時代の美人の基準は、しもぶくれ、細い目、太い眉毛、おちょぼ口、尖った小さな鼻。いわゆる〝ふっくらとしたオカメ顔〟ではなかったろうか。

 それなのに、何故か脩子の容姿は、一般にめそやされる部類のものであるらしいのである。何とも奇妙な話だった。


 だが、よくよく考えてみれば、鏡を覗き込む度にげんなりするのも嫌な話だ。

 ならば、深く考えることは止めて、鑑賞に努める方が建設的だろう。

 そう、脩子はあっさりと思考を放棄した。面倒くさくなったともいう。

 鏡を見るたびに自己肯定感がぶち上がる、エコな身体に感謝である。

 鏡を覗き込んで、一人にまにまと笑っていれば、王の命婦がぴしゃりと言う。


「これ、気色の悪い顔で笑わない」

「こんな、花も恥じらう美少女を相手に気色が悪いとは、失礼な言い草だ」


 憮然ぶぜんとして言い返せば、王の命婦は実にあわれなものを見るような目で、深々とため息をついた。


貴女あなたさまは、蟷螂カマキリ擬態ぎたいして虫とかを捕まえる方の花でしょうに。あぁ、いえ、間違えました。宮さまには、花に擬態する能もないのでございましたねぇ」


 ああ言えばこう言うのは一体どちらだと、脩子はむっすりと黙り込む。

 そんな脩子を気に留めることもなく、王の命婦はとっ散らかった書物をてきぱきと片付け始めた。

 命婦はこちらに目線をくれることもなく、ぼそりとつぶやく。


「この宮さまには、とうてい帝のおきさきさまなどつとまりますまいに……。命婦は心配でございますよ」

「ふん、そんなもの。ならないのだから、何も問題はない」

「……お言葉ではございますが。本日もお文が届いておりますよ。もちろん今上帝きんじょうていからでございます」


 これには、脩子の顔がくしゃっとゆがむ。


「また!? 本当にしつこいな!? 昨日も『NO』を叩き返したばかりだぞ!?」

「のお?」

いな、却下、断る、だ!」


 実際には、それを非常にやんわりと、婉曲えんきょくな表現に変換されているのであろうが。

 何しろ、脩子が直接筆を取ろうとすると、部屋付きの女房たちが総出で止めるのだ。昨日返した文だって、羽交はがめで止められてしまったくらいである。

後生ごしょうですから、どうかお止めくださいませ……!」と、泣き崩れる女房だっていたほどだ。そういうこともあって、脩子からの返信は、いつも女房たちの代筆によるものだった。


 だが、それにしても、である。

 女房たちが代筆した文も、決して色よい返事ではなかったにも関わらず、昨日の今日でまた返歌とは。帝も大概たいがいに粘着質だと言えた。

 普通、数日空けてクールダウンを図るものではなかろうか。


「いっそ、鳥黐トリモチ帝と呼んでやろうかな。ねぇ命婦、ぴったりだとは思わない?」

「……宮さま、お言葉が過ぎますよ」


 そうは言うが、この時代。

 〇〇帝、〇〇天皇といった正式な諡号しごうや追号は、亡くなった後に贈られるもの。

 生きている間の呼び名など、ひどく曖昧あいまいなものだ。

 たとえば『源氏物語』に出てくる桐壺帝きりつぼていなどは、桐壺の更衣こうい偏愛へんあいしたからこそ、仮にそう呼ばれる。

 だが、これはあくまでも、後世の読者が登場人物を識別しやすくするために付けた仮称であり、作中において、彼には帝位を示す表現以外に呼び名の記載きさいはない。

 基本的に、当代の帝は『帝』と称することで、事足りてしまうからだ。

 どうせ死後に正式な諡号しごうが贈られるのなら、存命中、私的にどう呼称こしょうしたところで問題はなかろうに。

 そう思って口を尖らせれば、命婦はすかさずたしなめてくる。


「不敬でございますよ、宮さま」

「何が不敬なものか。一度ひっついたトリモチのように、末長ぁーく延びる治世を願っての呼び名だぞ。ほら、縁起だっていい」

「……これ、宮さま」

「鳥黐帝、鳥黐帝。うん、語呂もいい。そう思わない?」

「まだおっしゃいますか! もしも母屋もやまで聞こえてしまったら、どうするのです。たった今、くだんの帝が、院の元を訪れておいででございますのに……!」


 王の命婦は焦ったように、声を潜めてきょろきょろと辺りを見回す。

 だが、脩子はといえば「そういえば、そうだった」と欠伸あくびこぼすばかりだった。


「どうしてだか、来てるらしいよねー、その鳥黐トリモチ帝が」


 聞けば、院(つまりはさきの帝、脩子の父だ)と今上帝きんじょうてい従兄弟いとこにあたり、それなりに交流があるらしい。

 そこで、今上帝はどこぞへの御幸みゆきの帰りに、ふらりと知己ちきの屋敷へ立ち寄ってみたというのである。

 ここでいうところの帝の知己とは、すなわち脩子の父である先帝のこと。

 つまりは今、同じ敷地内に、鳥黐帝その人がいるというわけだった。

 だが、やはり脩子は脇息きょうそくに頬杖をつき、ひょいと肩を竦めて片眉を上げた。


「まさか、聞こえるわけがない。だってここは、屋敷の最奥だもの」


 何しろ、脩子が生活するのは、広大な邸宅の奥の奥にして、端も端。

 邸宅の主人の居住空間である母屋もやと、渡殿わたどのという渡り廊下で繋がれた、複数の対屋たいのや(要するに離れである)などで構成される、寝殿造の広大な邸宅。

 帝が訪れているのは、当然ながらに正殿である母屋の方だ。

 一方、脩子に与えられた居住空間は、東の対屋たいのやよりも北の対屋よりもさらに奥まったところに、ひっそりとあった。

 およそ、一般的な姫君の感性をしていない脩子に対する、ある種の隔離措置といえる。


 とはいえ脩子としても、現状の待遇たいぐうに不満はなかった。

 他の兄弟姉妹たちに悪影響を与えさせまいとする親心は、脩子にも理解できるものだからだ。

 姉妹たちの婚活に差しさわるということで、そろそろ屋敷から追い出されそうな予感もしているところだが、脩子はそれはそれで構わないと考えていた。


 何しろこの時代の結婚は、男が女の家に通う『通い婚』が基本である。

(平安時代の基準における)奇行の絶えない姉妹が同じ敷地内に住んでいるというのは、どう考えても外聞が悪い。

 むしろ脩子は、早々に追い出してくれていいのにな、とまで思っているくらいだった。──はてさて、閑話休題。


 とにかく、脩子が屋敷のすみっこで、いくら「鳥黐トリモチ帝、鳥黐帝」と連呼しようとも、幾つもの対屋を越えた、母屋の方まで聞こえるはずもないのである。

 これには命婦も押し黙るしかないようで、脩子はふん、と鼻を鳴らした。


「……だいたい、私に入内じゅだいを望む理由というものが、そもそも気に食わないんだ」


 入内──それはすなわち、後宮入りのこと。

 脩子はお世辞にも、この時代における真っ当な姫君とはいえない。

 当然、宮仕えなど不可能だと思っているし、するつもりも毛頭ない。

 だが、それはそれとして。

 そもそもの大前提である、脩子に入内を望む動機というものが、何とも気に食わないものなのだ。


 何故なら鳥黐帝は、『源氏物語』に出てくる桐壺帝よろしく、「今は亡き最愛の女性と、脩子の容姿が瓜二つらしいと噂で聞いたから」などという理由によって、脩子の入内を熱烈に望んでいるというのである。

 本人は「確実に寵愛ちょうあいしてあげるよ、だから安心して入内しておいで」とでも言っているつもりなのかもしれないが。現代感覚からすると「いや、少しは包み隠そう?」と思わずにはいられない。

 思いっきり「あなたを故人の身代わりにするつもり満々です」と宣言しているようなものではないか。


「その点に引っかかっておられるのは、おそらく宮さまだけでございましょうに」

「……そう、なんだろうな。頭じゃ、分かっているんだけれど」


 脩子だって、古典文学を専攻していたのだ。理性では分かっている。

 身代わりを愛することは、この時代、さほど珍しいことではないのだろう。


 平安中期、紫式部の手によって成立した、古典文学の最高峰──『源氏物語』。

 たぐいまれなる美貌と才覚を持った貴公子、光源氏を取り巻く恋と栄華えいがの物語は、別名を『紫のゆかりの物語』という。

 ゆかりとは、すなわち縁故、、

 源氏物語の本質は、形代かたしろの愛。身代わりの愛の物語だと言われている。


 たとえば桐壺帝は、亡き桐壺の更衣の代わりに藤壺の宮を愛するし、光源氏は初恋の相手である藤壺の宮と結ばれることが叶わないからこそ、彼女のめいである紫の上を愛する。

 源氏の没後を描いた『宇治十帖うじじゅうじょう』においても、それは変わらない。

 宇治の大君おおいぎみと死別したかおるの君は、よく似た面差しの浮舟うきふねを愛するのである。

 どいつもこいつも、本当に好きな人とは結ばれなかったからこそ、その身代わりになる人を愛してしまう。それが『源氏物語』なのだ。


 現代でこんな脚本を書こうものなら、「身代わりにされる子が可哀想だろう!」「彼女たちの人権は!?」と、非難囂々ひなんごうごう。大炎上するに違いない。

 けれど実際には、『源氏物語』は当時の宮廷社会で絶賛され、大流行した。

 つまりそれは、この形代の愛が、当時の人々の理解と共感を得られたからに他ならなかった。

 おそらくこの時代において、身代わりに誰かを愛することは、倫理的に何ら問題のないことなのだろう。


「ま、そんなの関係なく。私に宮仕えなんて確実に無理だから、断るのだけれど」


 脩子は脇息きょうそくを押しのけて、ごろりとしとねの上に寝転がった。だらしがないと言われても、知ったことかである。

 結局のところ、姫君としての教養をまるで身につけていない脩子には、入内じゅだいなど土台無理な話だ。

 ジェネリック何がしの女御にょうごだか更衣こういだかになるつもりもないけれど、そもそもそれ以前の問題なのだ。王の命婦も、しみじみと頷いて言った。


「えぇ、えぇ、それが良うございましょう。この宮さまに宮仕えなど、天地あめつちがひっくり返っても無理でございますよ。えぇ、誰の為にもなりませぬ」

「うんうん。そうだろう、そうだろう」


 まるで他人事のように相槌あいづちを返せば、途端にばぁやのまなじりが吊り上がる。


「そう思うのであれば、少しはまともな姫君としての振る舞いをですねぇ──」


 あぁ、しまった。これではまた、堂々巡りの説教が始まってしまう。

 命婦が聞き飽きた説教を再開しようとした、その時だった。

 どたばたと慌ただしげな足音が、どこからともなく聞こえてくる。それは次第に大きくなり、こちらへ近づいてくるようだった。

 やがて、渡殿わたどのに繋がるしとみ戸が引き上げられて、一人の女房が慌てたように顔を覗かせて言う。


「も、申し上げます……! きんじょうが、桐壺帝、、、がっ! こちらへお渡りになるそうでございます……!」

「うげっ」


 この時、脩子が最初に思ったことは、まずひとつ。

「鳥黐帝、本っ当に粘着質だなぁ」ということだった。

 そして次に「へぇ。現帝は『桐壺帝』という呼称が、一般に浸透しているのか」と、そこまで考えて、脩子はがばりと身を起こす。

 それから、王の命婦の袖をがっしりと掴んでがくがくと揺さぶった。


「……ちょっと待って命婦。鳥黐帝って、一般には桐壺帝と呼ばれているということで、合っている?」


 主人からの唐突な問いに、命婦はいぶかしげながらも、当然のように頷いた。


「えぇ、左様でございますよ。宮さまが鳥黐帝、鳥黐帝と連呼する今上帝は、ちまたでは桐壺帝と呼ばれておられますが」

「……それは、どうして? なぜ帝は巷で、桐壺帝と呼ばれているの」


 重ねて問えば「どうしてとは、何を今さら……」と、呆れた視線が返ってくる。


「そりゃあ、後宮の桐壺にお仕えした更衣さまを、帝がたいそうご寵愛なさったからでございますよ。生前の頃にも、お亡くなりになった後にも、それはたいそう熱烈に」


 何だかいやに、聞き覚えのありすぎるエピソードである。

 今までは、自分に似ているという故人にまるで興味がかず、深く考えたこともなかったが。もしかせずとも、それは必ずと言っていい程に、高校古文の教科書に載っている話ではなかろうか。

 脩子は引きりそうになる頬をどうにかこらえて、再び問うた。


「……ねぇ命婦。桐壺の更衣って、どこの誰……?」


 すると命婦は思い出すように首を傾げ、ややあってから言った。

「確か、故・按察あぜち大納言だいなごんさまのご息女でしたでしょうか……」と。

 あぁ、己の古典文学知識が、今ばかりはうらめしい。

 脩子は思わず天井を仰いだ。


「嘘でしょう、あまりにも桐壺、、更衣、、

「えぇ、ですから桐壺の更衣でございます」


 噛み合っているようで、地味に噛み合っていない返答に「違う、そうだけどそうじゃない」とうめいて眉間みけんむ。


「あー、その……。もしかしなくても、桐壺の更衣が産んだ子どもって、『この世のものとは思えないほどに、光り輝くように美しい若宮』だったり、する……?」


 脩子が恐る恐る、ダメ押しとばかりにそう問えば。

 命婦はこれまた呆れたように、大きなため息をついて口を開いた。


「それもまた、随分と今さらの話でございますよ、宮さま。ここ数年ずっと、世間はの話題で持ちきりですのに。世情にうといにも程があります」

「……わーぉ」


 後宮の桐壺につぼねを与えられた更衣は、故・按察あぜち大納言の娘で、若くして亡くなってしまった。その彼女が産んだのは、光り輝くほど美しい若宮で──おまけにその通称は〝光る君〟であるという。

 何ということだろう。これではまるで、そっくりそのまま『源氏物語』の世界へ入り込んでしまったようではないか。

 あまりにも荒唐無稽こうとうむけいな現実に、脩子はくらりと目眩めまいを覚えてしまう。


 そうと知ってしまえば、今更ながらに恐ろしいのは、我が身だった。

〝桐壺の更衣に生き写しだという理由で、入内じゅだいを求められる、先帝のおんなみや


 正直なところ、認めたくない。

 というか、にわかには信じがたいのだが、その立場はもしかしなくとも、非常にまずいのではなかろうか。だってそれは、すなわち──。


「私が〝藤壺の宮〟だということに、なってしまうじゃないか……」




(続く)

【序 2/3】

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