其の弍
さて、時は流れ、
ちなみに数え年だとややこしいので、実年齢である。
日がな一日、物語ものを読み
その日も脩子は
「宮さま、また漢籍などを読んで!
「命婦、
にべもなくそう返して、
すると、王の命婦は目を三角に吊り上げて、さらにくどくどと説教を垂れ始めた。
そりゃあそうだろう、知っている。
この時代、漢字は基本的に、男が読むものだ。
けれど、ぐにゃぐにゃとした崩し仮名によって
レ点や一・二点のない白文であったとしても、崩し字でないだけよっぽどマシなのだ。目が疲れている時などは、ついつい漢文の方に手を伸ばしてしまうのである。
ちなみに、脩子が仮名文字や漢文を読むことが出来るのは、前世、大学で古典文学を専攻していたがゆえのことだった。
脩子の通う学科では『
脩子はぼんやりと、自分がまだ学部生だった頃を思い出す。
かつては、毎授業ごとに崩し仮名の長文を与えられ、それを
そして翌週の授業では、高校英語のリーディング授業よろしく、ランダムに生徒が指名されては、判読文と現代語訳を発表させられるのである。
どこを当てられるかも分からないので、当然ながら、課題をサボることも難しい。なかなかに面倒な授業だった。
ちなみに『古文書学Ⅱ』の、漢文版も
まだ学部生だった頃は、崩し字の用例辞典や漢和辞典などを片手に、必死で課題をこなしていたものだ。
懐かしいなぁと遠い目をしていれば、ついに王の命婦が
手元の漢詩籍は、あっという間に奪われてしまう。
「あっ、こら。まだ読み終わっていないのに」
「こんなものを読んでいないで、姫君としての教養を、わずかなりともお磨きくださいませ!
「……
読み物を奪われてしまえば、このバリエーションに欠ける小言を聞き流すのも、いよいよ面倒になる。
歳の頃は、五十を過ぎて、
松の
彼女は多彩な
「あぁ、
「では命婦は、この私のおかげで生き長らえていることになるな? ほら、もっと私に感謝してくれてもいいくらいだ」
「全く、ああ言えばこう言う……。この分では、命婦はウン百歳を超える物の怪にでも、なってしまいそうですよ」
雑な返答を返せば、命婦も一瞬で嘘泣きを引っ込めて、けろりと皮肉を言ってのける。互いに気心の知れた仲であるし、このお小言も、それに対するぞんざいな返答も、ある種の様式美、日常的な茶番だった。
命婦とて、今さら脩子の性格が根底から
それに脩子だって、現代の価値基準をそう易々とは捨てられない。
王の命婦が言うところの、姫君としての教養──つまりは楽器や和歌の素養を伸ばすことに、脩子は
ちなみに脩子の、何だか尊大なような、
これは、王の命婦による『高貴な身分に
脩子自身「どうしてこうなった」と思っているし、命婦だって「どうしてこうなった」と思っていることだろうが、今やすっかり定着してしまって、変えようがない。
「はぁ……外側ばかり美しく育っても、
「……美しい、ねぇ」
「えぇ、非っ常に残念なことに。宮さまの見目だけは、たいそう
そう言ってあからさまに
ぱっちりとした二重の瞳に、それを
そこに映っているのは、確かにかなりの美少女ではあった。脩子も我ながら、文句なしに美人だと思える容姿である。
だが、それはあくまでも『現代基準での』という
「……妙なことも、あるものね」
平安時代の美人の基準は、しもぶくれ、細い目、太い眉毛、おちょぼ口、尖った小さな鼻。いわゆる〝ふっくらとしたオカメ顔〟ではなかったろうか。
それなのに、何故か脩子の容姿は、一般に
だが、よくよく考えてみれば、鏡を覗き込む度にげんなりするのも嫌な話だ。
ならば、深く考えることは止めて、鑑賞に努める方が建設的だろう。
そう、脩子はあっさりと思考を放棄した。面倒くさくなったともいう。
鏡を見るたびに自己肯定感がぶち上がる、エコな身体に感謝である。
鏡を覗き込んで、一人にまにまと笑っていれば、王の命婦がぴしゃりと言う。
「これ、気色の悪い顔で笑わない」
「こんな、花も恥じらう美少女を相手に気色が悪いとは、失礼な言い草だ」
「
ああ言えばこう言うのは一体どちらだと、脩子はむっすりと黙り込む。
そんな脩子を気に留めることもなく、王の命婦はとっ散らかった書物をてきぱきと片付け始めた。
命婦はこちらに目線をくれることもなく、ぼそりと
「この宮さまには、とうてい帝のお
「ふん、そんなもの。ならないのだから、何も問題はない」
「……お言葉ではございますが。本日もお文が届いておりますよ。もちろん
これには、脩子の顔がくしゃっと
「また!? 本当にしつこいな!? 昨日も『NO』を叩き返したばかりだぞ!?」
「のお?」
「
実際には、それを非常にやんわりと、
何しろ、脩子が直接筆を取ろうとすると、部屋付きの女房たちが総出で止めるのだ。昨日返した文だって、
「
だが、それにしても、である。
女房たちが代筆した文も、決して色よい返事ではなかったにも関わらず、昨日の今日でまた返歌とは。帝も
普通、数日空けてクールダウンを図るものではなかろうか。
「いっそ、
「……宮さま、お言葉が過ぎますよ」
そうは言うが、この時代。
〇〇帝、〇〇天皇といった正式な
生きている間の呼び名など、ひどく
たとえば『源氏物語』に出てくる
だが、これはあくまでも、後世の読者が登場人物を識別しやすくするために付けた仮称であり、作中において、彼には帝位を示す表現以外に呼び名の
基本的に、当代の帝は『帝』と称することで、事足りてしまうからだ。
どうせ死後に正式な
そう思って口を尖らせれば、命婦はすかさず
「不敬でございますよ、宮さま」
「何が不敬なものか。一度ひっついたトリモチのように、末長ぁーく延びる治世を願っての呼び名だぞ。ほら、縁起だっていい」
「……これ、宮さま」
「鳥黐帝、鳥黐帝。うん、語呂もいい。そう思わない?」
「まだおっしゃいますか! もしも
王の命婦は焦ったように、声を潜めてきょろきょろと辺りを見回す。
だが、脩子はといえば「そういえば、そうだった」と
「どうしてだか、来てるらしいよねー、その
聞けば、院(つまりは
そこで、今上帝はどこぞへの
ここでいうところの帝の知己とは、すなわち脩子の父である先帝のこと。
つまりは今、同じ敷地内に、鳥黐帝その人がいるというわけだった。
だが、やはり脩子は
「まさか、聞こえるわけがない。だってここは、屋敷の最奥だもの」
何しろ、脩子が生活するのは、広大な邸宅の奥の奥にして、端も端。
邸宅の主人の居住空間である
帝が訪れているのは、当然ながらに正殿である母屋の方だ。
一方、脩子に与えられた居住空間は、東の
およそ、一般的な姫君の感性をしていない脩子に対する、ある種の隔離措置といえる。
とはいえ脩子としても、現状の
他の兄弟姉妹たちに悪影響を与えさせまいとする親心は、脩子にも理解できるものだからだ。
姉妹たちの婚活に差し
何しろこの時代の結婚は、男が女の家に通う『通い婚』が基本である。
(平安時代の基準における)奇行の絶えない姉妹が同じ敷地内に住んでいるというのは、どう考えても外聞が悪い。
むしろ脩子は、早々に追い出してくれていいのにな、とまで思っているくらいだった。──はてさて、閑話休題。
とにかく、脩子が屋敷の
これには命婦も押し黙るしかないようで、脩子はふん、と鼻を鳴らした。
「……だいたい、私に
入内──それは
脩子はお世辞にも、この時代における真っ当な姫君とはいえない。
当然、宮仕えなど不可能だと思っているし、するつもりも毛頭ない。
だが、それはそれとして。
そもそもの大前提である、脩子に入内を望む動機というものが、何とも気に食わないものなのだ。
何故なら鳥黐帝は、『源氏物語』に出てくる桐壺帝よろしく、「今は亡き最愛の女性と、脩子の容姿が瓜二つらしいと噂で聞いたから」などという理由によって、脩子の入内を熱烈に望んでいるというのである。
本人は「確実に
思いっきり「あなたを故人の身代わりにするつもり満々です」と宣言しているようなものではないか。
「その点に引っかかっておられるのは、おそらく宮さまだけでございましょうに」
「……そう、なんだろうな。頭じゃ、分かっているんだけれど」
脩子だって、古典文学を専攻していたのだ。理性では分かっている。
身代わりを愛することは、この時代、さほど珍しいことではないのだろう。
平安中期、紫式部の手によって成立した、古典文学の最高峰──『源氏物語』。
ゆかりとは、すなわち
源氏物語の本質は、
たとえば桐壺帝は、亡き桐壺の更衣の代わりに藤壺の宮を愛するし、光源氏は初恋の相手である藤壺の宮と結ばれることが叶わないからこそ、彼女の
源氏の没後を描いた『
宇治の
どいつもこいつも、本当に好きな人とは結ばれなかったからこそ、その身代わりになる人を愛してしまう。それが『源氏物語』なのだ。
現代でこんな脚本を書こうものなら、「身代わりにされる子が可哀想だろう!」「彼女たちの人権は!?」と、
けれど実際には、『源氏物語』は当時の宮廷社会で絶賛され、大流行した。
つまりそれは、この形代の愛が、当時の人々の理解と共感を得られたからに他ならなかった。
おそらくこの時代において、身代わりに誰かを愛することは、倫理的に何ら問題のないことなのだろう。
「ま、そんなの関係なく。私に宮仕えなんて確実に無理だから、断るのだけれど」
脩子は
結局のところ、姫君としての教養をまるで身につけていない脩子には、
ジェネリック何がしの
「えぇ、えぇ、それが良うございましょう。この宮さまに宮仕えなど、
「うんうん。そうだろう、そうだろう」
まるで他人事のように
「そう思うのであれば、少しはまともな姫君としての振る舞いをですねぇ──」
あぁ、しまった。これではまた、堂々巡りの説教が始まってしまう。
命婦が聞き飽きた説教を再開しようとした、その時だった。
どたばたと慌ただしげな足音が、どこからともなく聞こえてくる。それは次第に大きくなり、こちらへ近づいてくるようだった。
やがて、
「も、申し上げます……!
「うげっ」
この時、脩子が最初に思ったことは、まずひとつ。
「鳥黐帝、本っ当に粘着質だなぁ」ということだった。
そして次に「へぇ。現帝は『桐壺帝』という呼称が、一般に浸透しているのか」と、そこまで考えて、脩子はがばりと身を起こす。
それから、王の命婦の袖をがっしりと掴んでがくがくと揺さぶった。
「……ちょっと待って命婦。鳥黐帝って、一般には桐壺帝と呼ばれているということで、合っている?」
主人からの唐突な問いに、命婦は
「えぇ、左様でございますよ。宮さまが鳥黐帝、鳥黐帝と連呼する今上帝は、
「……それは、どうして? なぜ帝は巷で、桐壺帝と呼ばれているの」
重ねて問えば「どうしてとは、何を今さら……」と、呆れた視線が返ってくる。
「そりゃあ、後宮の桐壺にお仕えした更衣さまを、帝がたいそうご寵愛なさったからでございますよ。生前の頃にも、お亡くなりになった後にも、それはたいそう熱烈に」
何だかいやに、聞き覚えのありすぎるエピソードである。
今までは、自分に似ているという故人にまるで興味が
脩子は引き
「……ねぇ命婦。桐壺の更衣って、どこの誰……?」
すると命婦は思い出すように首を傾げ、ややあってから言った。
「確か、故・
あぁ、己の古典文学知識が、今ばかりは
脩子は思わず天井を仰いだ。
「嘘でしょう、あまりにも
「えぇ、ですから桐壺の更衣でございます」
噛み合っているようで、地味に噛み合っていない返答に「違う、そうだけどそうじゃない」と
「あー、その……。もしかしなくても、桐壺の更衣が産んだ子どもって、『この世のものとは思えないほどに、光り輝くように美しい若宮』だったり、する……?」
脩子が恐る恐る、ダメ押しとばかりにそう問えば。
命婦はこれまた呆れたように、大きなため息をついて口を開いた。
「それもまた、随分と今さらの話でございますよ、宮さま。ここ数年ずっと、世間は
「……わーぉ」
後宮の桐壺に
何ということだろう。これではまるで、そっくりそのまま『源氏物語』の世界へ入り込んでしまったようではないか。
あまりにも
そうと知ってしまえば、今更ながらに恐ろしいのは、我が身だった。
〝桐壺の更衣に生き写しだという理由で、
正直なところ、認めたくない。
というか、
「私が〝藤壺の宮〟だということに、なってしまうじゃないか……」
(続く)
【序 2/3】
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