八、やかん男

在宅勤務の運動不足を解消するため、数か月前からウォーキングを始めた。朝、始業前に30分ほど家の周辺を散歩、晩飯後に1時間ほど早歩きで散歩している。

最初の頃はいつの間にか著しく衰退した肉体に、加齢と運動不足の恐怖を感じた。階段を上り下りするだけでも息が上がる。肺がきゅうっと痛くなった。

夜間の散歩ではいつも神社をゴール地点としている。灯篭が明るく、夜に行っても安心であり、今日一日無事でいられたことの感謝を手を合わせて伝えることにしている。


先週の水曜日もいつものルーティーンとして夜のウォーキングに出かけた。ゴールとなる神社に向かうところで、不思議な人物に出会った。

その人物は60歳を超えたくらいの男性で、髪色はロマンスグレー、ストライプが入ったグレーのダブルスーツに白いワイシャツ、赤色のネクタイをしていた。そして、左手に大きな金色のやかんを持っていた。ラグビー部で、脳震盪を起こした選手に水をぶっかける際に登場するアレとすっかり同じようなものだった。あのやかんはラグビー部では「魔法のやかん」なんて呼ばれていた。

そんな「やかんを裸のまま持ち歩いている男性」が神社の鳥居の前にある花壇の周りをうろうろしていた。あまりの異様な光景に目を引いたが、ぐっとこらえて、まずは拝殿に手を合わせることにした。

参拝を終え鳥居を抜けると、そのやかん男はまだ花壇の花を眺めて微笑んでいた。すると、やかん男はその中から白い花を選んで、やかんの中から水をかけたのだ。花に水やりをする、という行為が良いことなのは分かるが、おそらく神社の所有している花壇であろうところに、水をあげても良いのかと不安になった。私はそっとその場を立ち去った。


木曜日の晩、再びウォーキングに出かけた。またあのやかん男がいるのではないかという少しの期待感を持ちながら歩く。いつもよりも足取りは軽快なような気がした。

しかしながらその日、やかん男には出会えなかった。参拝を終えたあと、花壇の辺りで数分待ってみたりもしたが、結局彼に会うことはなかった。諦めて帰ろうとしたとき、ふと花壇の花が目に入った。

昨日あのやかん男が水をあげたあの白い花。白い花だけが他の色違いの花と比べても背が高くなり、花びらも大きくなっているのである。これは偶然なのだろうか。私が意識をしていなかっただけで、もともと他と比較して大きな花だったのか。


というのが先週の奇妙な出会いだった。彼の姿を見たのはいまのところその一度だけ。あれ以来、私も花壇の花を観察しているが、見るからにそれぞれの花が大きくなっている。わずか一日でうんと成長している。今日も確認しにいくつもりだ。おそらく次は、あの紫色の花が大きくなっていると思う。

彼のもつ魔法のやかん、一体なにが入っているんだ。そして彼は何者なのだ。

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