空虚な潮騒

 薫はため息をつき、靴を手に取りその重みを感じる。頑丈で無地の黒。必要なら学校用の靴としても十分に使えそうだ。

「うん...まあ、普通かな。悪くないよ。」


 義郎は首をかしげながら鼻歌交じりに言う。

「気に入らないのか、坊主?もっと派手なのがいいか?君は実用的なやつだと思ってたんだがね。」


「いや、別に問題ないよ。いくら払えばいい?」 靴をカウンターに戻しながら、ポケットを探って財布を探し始めた。


 年配の男はすぐに手を振り、靴を拾い上げて再び薫に押し付ける。大きな笑顔を浮かべながら言った。

「いやいや、わかってるだろう、家族なんだからタダでいいんだよ。」


 薫は疑わしげに彼を見上げる。義郎はいつも何かしらをタダでくれるけど、それで商売が成り立つはずがない。

「本当にいいの?おじさんだってお金稼がないといけないだろ。」


「フン、私はもう年寄りだ。」義郎は笑いながら首を振り、靴を袋に入れながら話を続けた。

「この歳じゃ金なんていらんよ。父親が聞いたら叱られるだろうが...まあ事実さ。子供もいないし、面倒見る相手もいない。君も知ってるだろう、坊主。」


 彼の友好的で軽い調子にもかかわらず、薫はその声に少し寂しさを感じた。


 義郎は市場の周りを指さし、年老いた他の店主たちを示す。

「見てみろ、薫君。俺たちなんてみんな、ただ話す口実を探してるだけさ。でもこれは俺と君だけの秘密だぞ。」義郎は薫の胸を軽く叩き、冗談めかして笑った。


「まあ、そうかもね。」薫は髪をいじりながら言った。こんな会話をすることはあまりなく、少し居心地が悪い。


 ただ話す口実を探しているだけか...自分も似たようなことをしている気がする。生活の中で時間を埋めるために。けれど、それが同じことなのかは分からない。ただ...時間が過ぎるのを待っているだけだ。自分も義郎の年になったとき、こうなるのだろうか。


 この同じ市場で小さな店を構えて、町を離れないまま? あり得るかもしれない。未来なんて曇っている、というより、未来の計画自体がないのだ。ただ学校に行くだけで、それが終わったら...さっぱり分からない。


「...薫君、熱にやられたのか?」義郎の声が考え事から引き戻す。

「大丈夫、もうすぐ空気も澄むさ。今の季節は変わりやすいからな、あのスーパーノヴァのせいでって科学者は言うけどな。」


 薫は顔を拭き、義郎に向き直る。作り笑いを浮かべながら答える。

「うん、暑さのせいだ。」彼は空を見上げる。「今日は見えないな。」


 義郎も店先から一歩出て、隣に並んでビルの隙間から空を見上げる。

「まあ、私の目もあまり良くないがな。聞いた話では、数週間後の夜にはきれいに見えるらしいぞ。」


 薫にとっては人生の中でずっと知っている存在なので、特別なものではない。ただ夜空を飾る明るく眩しい何か、という程度だ。地球に影響はないらしいが、その理由は彼にはよく分からない。


「おじさんがそれを初めて見たのは何歳の時?」


 義郎は笑い、腰に手を当てて考えるように首をかしげる。

「おお、思い出してみると...たぶん君くらいの歳だったかな?いや、もう少し年上だったかも。あの頃は誰もがそれを『奇跡』だの『一生に一度』だのと言ってたが、今ではただの生活の一部として見ているだけだ。」


 彼は薫を横目で見て、苦笑いを浮かべる。

「面白いだろう?あんなに大きなものが、あんな遠くからでも見える。ずっと燃え続けて、ずっとそこにあるのに、気にするのは自分が選んだときだけだ。」


 薫はただ頷きながら、空っぽの青空を見上げる。市場の揚げ魚や他の商品が香る匂いが街中に漂っている。義郎の言葉は確かに本当だ。不思議なことだ。

「何か一定のものがあるのはいいのかも...」自分でも何を言うべきかわからないままつぶやいた。


 薫にとってそれは特に不思議ではない。祖母と一緒に神社近くの山で燃え盛るスーパーノヴァを見たこともある。でも、それでもなんだか...大きな世界の中ではちっぽけなものだ。


 義郎は彼の肩をポンと叩いて話しかける。


「まあ、特にやることはないけどね...」そう言いながら、薫は海岸へ行くつもりだったことを思い出す。ここからはそこに向かうつもりだ。


 義郎との会話はいつも楽しい。もしかすると、それは義郎が薫にとって家族のような存在だからかもしれない。


 薫は軽く会釈しながら頷く。

「靴ありがとう、おじさん。ちゃんと使わせてもらうよ...」


「また顔を見せに来るんだぞ!」


「うん、来るよ。」


 視線を下げながら、薫は市場の石畳の道を歩いていく。袋を手にぶら下げながら、肩越しに手を振る。そして、自転車のハンドルに袋を掛け、市場を抜けるまで自転車を押していった。


 今日は自転車に乗るには心地よい日だ。空は晴れているが、いつものような暑さはそれほど感じられない。この日差しは、まるで彼の人生の中で時の移ろいを思い出させるようだった。


 夏の暑さから逃れることばかり考えていたが、いずれその思いは冬の寒さに耐えることへと変わる。夏と秋の間のこの短い時期をできるだけ楽しもうと、彼はペダルを踏み続けた。


 馴染み深い道を下りながら、市場の喧騒は遠ざかり、自転車のリズミカルな音と風のささやきが取って代わる。曲がるたびに、潮の香りが強くなり、日差しで温まった草の匂いがかすかに混ざってくる。


 ハンドルに揺れるビニール袋をちらりと見る。中の靴が、義郎の言葉を静かに思い出させる。

「一定のもの、か...」そうつぶやきながらも、それが自分にとって何を意味するのかは分からなかった。


 目的地まではさほど時間がかからなかった。水平線は広がり、昼の陽光の下で輝いている。自転車をいつもの鉄柵の近くに停め、一瞬だけその場で波を眺める。


 潮が寄せては返す音が、どこか落ち着く感覚を与える。


 今日もまた、海岸には誰もいない。それはいつものことだが、誰か一人でもいればいいと思っていた。なぜだかわからないが、胸が少し締め付けられるような感覚を覚えた。


 あの日以来、薫はここに引き寄せられるような感覚を抱いていた。もしかしたら、彼女がまたここにいるかもしれないと願って。カメラを手に、彼女だけが見つけられる何かを追い求めている姿を。


 だが、数分が過ぎても、この場に満ちるのは塩風と遠くから聞こえる海鳥の鳴き声だけだった。


 どういうわけか、ここがこれまで以上に寂しく感じられる。


 錆びた鉄柵にもたれかかりながら、薫は小さくため息をついた。

「ただの期待外れだったのかもな...」その言葉は海風に溶け込み、自分以外には聞こえない。


 気にしないようにと自分に言い聞かせるものの、彼の視線は再び水平線へと漂う。名前も知らない誰かを待つように。

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