姫小松

 家。

 そう呼ぶのは難しいけれど、どうしようもない。少なくともエアコンはあるけれど、小さな部屋が少しも広く感じられない。それとも、今になって狭く感じるだけなのかもしれない。


 学校に戻りたくない。それでも、彼女の名前は来年度の名簿にしっかりと載っていた。


小笠原おがさわらかすみ――三年生、A組』

 退学するわけにはいかない……それでも、今年で終わりだと思えば耐えられる。


 将来何をするか、考えたことはほとんどない。ただ、これが終わってほしい。

 この人生、この感覚……何が「これ」なのかすらもうわからない。ただ一つ、彼女が確信しているのは、自分が完全に孤立しているということだけだ。


 彼女は部屋の窓際の机に座り、窓越しに街の様子を見つめる。ガラスを通して外の世界を眺めると、少しだけ空間が広がるような気がする。


 外の空気は淀んでいる。風も、雲も、山の方からの微かなそよぎすらない。


 今は一人だが、そのうち兄が仕事から帰ってくる。今日は家にこもる理由もないので、外をぶらつくことにする。今回は誰かを避けるためではなく、ただの気まぐれだ。


 これが彼女の日常だ。特に夏休み中は、外に出て町を歩き回る。ただそのためだけに、天気に関係なく出かける。「気分転換のため」と自分に言い聞かせているが、それを繰り返すたびに新鮮さは失われていく。


 この町のほとんど全てを知っているのに、誰も彼女に気づかない。それは奇妙な感覚だ。まるで影の中で生きているような気がする。


 同年代の人が経験するようなことを、彼女は何一つ経験していない。もうすぐ大人になるというのに、子供であった記憶すらない。

 中学に入った頃から、なぜか彼女は他人からの標的となった。「どうして?」と何度も問いかけたが、明確な答えは出なかった。


 自分が弱かったのか?何か悪いことをしたのか?そうは思えない。自分は普通の人間だと思っていた。どちらかといえば、平均より少し賢いくらい。それでも「友達」と呼べる人は一人もいなかった。


 今ではもう慣れてしまった。誰かを責めることも、不公平だと感じることも、友達を求めることもやめた。ただ、彼女と同じ世界を見ている人を見つけたことがなかったのだ。


 だからこそ、学校が毎年部活への参加を必須にしていることが嫌だった。最初はどの部に入るか決められなかったが、最終的に写真部に決めた。他の部員とあまり話すことはなかったが、家を出る口実として兄に説明するのには十分だった。


 兄と一緒に暮らすことも、彼を避けなければならないという感覚も、彼女が望んだわけではない。それでも運命は、彼女が望んだ以上に波乱に満ちた人生を用意していた。


 彼女がこの町を「家」として過ごしてきたのは、物心ついた頃からだ。8歳までは両親と一緒に暮らしていた。それ以降は兄と暮らすことになった。つまり、両親が事故で亡くなってからもう9年が経つ。

 彼女はいつも兄から何かを「責められる」存在だった。彼の中は、母と父の空っぽの部屋のように、空虚だった。それでも彼女は彼と共に生きるしかなかった。彼は働き、家計を支えた。


 あの線路の上で、車の歪んだ金属の中で……そして……

 その光景を思い出さないようにしている。思い出すだけで気分が沈むからだ。それでも過去の記憶から逃れることはできない。


 いつか、自分の記憶と向き合わなければならないとわかっている。だが、その日がいつ来るのか、彼女にはわからない。


 両親のように、兄も優しく寛大であることを期待していた。いや、望んでいたのかもしれない。けれど、それを彼から感じたことは一度もなかった。他の多くのことと同じように、彼女にはその理由がわからない。


「霞、俺だって両親の死を抱えてるんだ。いつまでもクヨクヨしてるな。俺だって24時間お前の面倒を見る暇なんてないんだ。もう十分だろ。バイトでも探せよ。」

 これが彼女が聞かされる常套句だった。時にはリストのような罵倒を浴びることもあった。


 バイトをすることも考えたことはあった。特に兄の執拗な催促のせいで。しかし、彼女は学校に集中して成績を維持したいと思っていた。なぜそうしたいのか、自分でもわからなかった。ただ、何をしても最終的には無意味になる気がしたからだ。


 彼女はこの町が好きだと思っている。秋に舞うオレンジ色の葉や、よく整備されたビーチ。それらは好きだ。だから、ここで数年、あるいはもっと長く働くことも悪くないかもしれない。

 それでも、彼女の人生にはこの町に残るにはあまりに多くの「汚れ」が染み付いている。


「新しい始まり……そう、新しい始まりが欲しい……」


 ただ、それすら今の彼女には高望みに感じられた。

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