残った音

 彼の自転車は、鉄道の踏切をガタガタと渡り、町のアスファルトの道を進んでいく。屋根と電線の間からちらちらと見える空を眺めながら、暑さの中、気だるげにペダルを漕ぐ。

 彼を嘲笑うかのように、鳥たちはあっという間に飛び去っていく。


 シャツの襟を扇ぐようにして、なるべく勢いに身を任せる。「やっぱり、スウェットパンツは間違いだったか……」

 湿った布が脚に張り付いて、その感覚が次回への教訓になる。けれども、今は短いながらも肌を撫でる風が気持ちいい。


 建物が高く密集してくるにつれ、車や人の気配も増えていく。アイドリング中のトラックがすぐ近くで振動しているのを感じながら、よく訪れるコンビニに荷物を降ろしている様子を眺める。

 彼は裏通りや小道を熟知しているので、車が少ないとはいえ交通量を気にせずに済むのだ。


 やがて、塩の香りが徐々に濃くなり、波の音が風に溶け込んで聞こえてくる。町をぶらつくのも悪くないかもしれない――新しい靴でも探そうか、それとも港にでも寄ってみようか。だが、そんな考えはすぐに捨てる。どこへ向かうべきかは、すでに心が決めていたからだ。


 ペダルを漕ぐ足を緩めると、心地よい追い風が彼を前へと運ぶ。賑やかな町の喧騒は後回しだ――今はただ、本当の静けさを求めている。家の重苦しい沈黙ではなく、海のリズムに満ちた穏やかな場所が。


 ただ、存在するための場所。


 細い道を曲がると、建物の間から広がる大海原と白い砂浜が目に飛び込んでくる。一瞬、反射する光に目を細めるが、ここに流れる空気は心地よく、自然と目を開ける。海風が鈍い暑さを遠ざけてくれるのだ。


 進むにつれ、潮の香りが鋭くなり、生活の音が消えていく。家々は減り、道端にあるのはぽつんと置かれたバス停だけ。やがて、かすかに機械の金属的な音と風車の音が聞こえるだけになる。


 この時間帯になると、町の海岸にはそこそこの人が集まる。だからこそ、彼は町外れの発電所の近くまで来るのが好きなのだ。


 その発電所は白く光沢のある建物がいくつも並び、規模の大きさからしておそらく原子力発電所だろうと思っているが、詳しくは調べたことがない。

 ここに漂う静寂は、彼にとって馴染みのあるものだった。


 自転車が軋む音を立てながら、いつもの場所で止まる。ようやく休息だ。ペダルから足を下ろし、キックスタンドを立てる。

 ここには本当に何もない。手入れされた砂浜と、それを護るためのテトラポッドや岩だけだ。


 その虚無が、彼を引きつけるのだ。矛盾しているようだが、すべてを埋めようとしても、結局彼は一番孤独な場所に戻ってきてしまう。錆びた手すりにもたれ、髪をかき上げながら静かにため息をついた。


 心はまだ自分の中に閉じ込められたままだが、せめて輝く波に目を奪われていられる。

 それは静寂と呼ぶ人もいるだろうが、波と風の音だけのほうが、木造の家の真の虚しさよりはずっとマシだ。


 手すりにさらに体を預け、何気なく鼻歌を口ずさむ。すると、波以外の何かが目に入る。それは大して気に留めるものではなかった。時々誰かがここに来ることは珍しくないし、発電所の作業員が休憩しているのかもしれない。


 しかし――彼女のメガネの縁が陽の光を反射するその瞬間、彼の視線はもう一度引き戻された。


 それで気づいた。彼女はとても見慣れない存在だと。だからこそ、その動きに視線を追わせてしまう。

「この暑さでカーディガン? しかもスラックスだって?」彼は静かに鼻を鳴らしながら首を振った。自分もスウェットパンツを履いているのだから、人のことは言えないのに……。だが、なぜこんな場所に、こんな格好で来るのだろう?


 彼女に見覚えはあるのだろうか? そう思いたいが、どこで見たのか、あるいは本当に見たことがあるのかはわからない。それでも、彼女を見ていると不思議な感覚が湧いてくる。

 決して覗き見するつもりではないが、彼女が湿った砂浜を慎重に、そして何かを計るかのように歩く姿に、視線を逸らすことができない。


 まるで、壊れた時計が時間の流れを取り戻したような感覚だ。気づけば彼は、手すりから体を起こしていた。

「なんでここに……? なぜ一人で? 俺は……」


「話しかけたほうがいい……よな?」


 誰に問いかけるでもなく、彼はそうつぶやいた。耳の奥で微かな音が鳴り、まるでそれが彼を引き寄せるようだった。


 混乱していた。ただそれだけだ。眉をひそめ、心の中でどうするべきか考え込む。「何を話せばいいんだ?」

 彼は見知らぬ人に自ら話しかけるようなタイプではない。ましてや、理由もなしに。しかし今、この瞬間が重要なものに思えてならなかった。この場にいるのは、自分よりも彼女のほうがずっと自然で、必然的なように感じたのだ。


 夏の太陽も、今はもう気にならなかった。ただ、あの砂浜にいる少女のことが気になる。それがなぜかもわからずに。


 だが、彼がその瞬間を掴もうとするよりも早く、彼女は何かを思い出したように立ち止まり、小さなカメラをポケットから取り出して、ほんの一瞬、海の写真を撮った。


 そして、まるでそこに最初からいなかったかのように、彼女は歩き去っていく。きらめく水平線にそのシルエットが小さくなっていく。


「……え、それだけ? 本当に?」


 彼の呟きは、見つめていた波にすべて飲み込まれていった。


 何かがおかしいと感じる。「確かに、何かすべきだったはずだ……」

 一体何を見逃したのか? 躊躇が問題だったのか? 彼は手を振ることすらできなかった。


 ただ見つめることしかできなかったのだ。

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