第36話 果たすことのできた約束と綾女の安心
通学路を少し外れ、卓也の案内で卓也の家まで連れて行ってもらった。卓也の家は綾女の家よりも更に築浅で、ザ・新築といった感じの家だった。
それから、卓也の家にお邪魔する。卓也が「ただいまー」と玄関で声を上げると、卓也の母親が玄関まで迎えにきた。
「あら? どちら様ですか? 卓也が何かしましたか?」
卓也の母親は不安そうに尋ねる。子猫の入った段ボール箱を橋から川に投げ捨てるだけあって、卓也は日頃からやんちゃなようだ。
綾女が半歩前に出る。
「相原綾女と申します。南斗高校の一年で、この近くに住んでいます。実は――」
綾女が卓也の母親と言葉を交わす。卓也から子猫を預かったこと。里親を探していること。卓也の家で飼ってくれるという話になったらしいこと。それらを、丁寧に確認しながら、綾女は卓也の母親の反応を注意深く見る。こういった、人の真価を見定めるのに、綾女は長けている。少しでも不穏な気配があれば、綾女は察する。だから、俺は安心してそのやり取りを見届けることができた。
ほんの少しの時間だったが、卓也の母親は子猫を託すに値する人柄であることがうかがえた。人種としてはお嬢に近い感じだ。金持ち喧嘩せず、とはよく言ったもので、金銭的な余裕が心の余裕として表面に漏れているような人だった。
日曜日に卓也に子猫を渡す約束をして、卓也の家の玄関を出た。
太陽はすっかり西に沈み、夜の帳が下りている。
「すっかり遅くなったな」
「だねー」
こんなに遅い時間に帰宅するのは久しぶりだ。俺の家も綾女の家も、すっかり夕食準備が整っている頃だろう。
歩き出そうとしたところ、卓也の家の玄関がガチャリと開いた。卓也だった。まだ、何か用事があるのだろうか。
「卓也君?」
綾女が尋ねる。
卓也は大きめのサンダルに足を引っかけて、玄関口で大きく手を振った。どうやら見送ってくれるらしい。
「またねー。お姉ちゃん。お姉ちゃんは、俺のヒーローだよー」
子供らしい純粋な称賛だった。綾女は女の子だから、ヒーローじゃなくて、ヒロインだよ、などとは無粋過ぎて口にできなかった。
卓也に見送られながら、俺と綾女は歩き出す。
◇ ◇ ◇
卓也の家に寄ることになったが、帰り道は二人とも分かっている。ちょっと歩くけど、ご近所と言っても差し障りのない距離だ。住宅街の道を、綾女と肩を並べて歩く。数メートルおきに立っている街頭が、道を明るく照らしていた。
「でも、とりあえずは一安心だな」
「うん。三匹とも里親が見つかってよかったよー」
綾女の声は明るい。その声に、俺も安心する、
「……ぐすっ」
しかし、突如として綾女が鼻を啜った。
綾女の顔を覗き込む。綾女は両目一杯に涙を浮かべていた。
「ど、どうした? 綾女? 平気か?」
俺は動揺していた。綾女の足が止まる。俺も止まる。
綾女は手で涙を拭った。
「えへへ。ごめんね。何でだろ? 大丈夫。少し、気持ちが緩んじゃっただけ、だと思う。うん。平気」
綾女は気丈に笑顔を見せる。ただ、それが張りぼてのように見えて、逆に俺の心を駆り立てる。
気づけば、俺は綾女を抱きしめていた。陶器を持つように、ソフトに、でも、しっかりと抱きしめていた。綾女の体温と俺の体温の違いで、綾女の輪郭がハッキリと分かる。綾女と俺の境界線だ。綾女の身体を感じたのは、いつぶりだろうか。こんなに明確に態度に指名したのは、小学校から先、記憶にない。
「ちょ、太一?」
俺の突然の抱擁に、綾女も慌てる。パタパタと手足を振る。だが、嫌がっている様子はない。なら、俺はこのまま抱きしめ続けるだけだ。
「よかったな。綾女。安心していい。綾女は、よくやったよ。約束を守った。だから、大丈夫だ」
綾女の髪を優しく撫でる。すると、綾女は堰を切ったように泣き始めた。
「ふ、ふええー。た、太一のバカ。わ、私、我慢してたのに……。ううう、よかったよー」
我慢なんてしなくていい。俺の前くらい、綾女は綾女の素を見せてくれればいい。俺は、何があっても、綾女の味方だ。
そうして、綾女が泣き止むまで、俺は胸を貸してやった。
道端で泣く綾女を不審そうに見る通行人の視線が少し痛かったが、そんなものは綾女の涙の前には、意味をなさない。俺にとって、見ず知らずの他人よりも、綾女の方が何倍も何百倍も大事だった。
それから、五分くらい、綾女は泣き続けた。涙が止まっても、綾女は俺に抱きかかえられたままだった。
十分が経過した。そろそろ、気持ちが落ち着いてきて、恥ずかしくなってきた。どうやら綾女も同じらしく、耳まで赤い。
「お、落ち着いたか?」
何とか声を絞り出す。綾女がビクッと肩を震わせる。
「う、うん。もう平気。大丈夫だよ」
綾女は名残惜しそうに俺の腕から離れる。綾女の体温が遠ざかる。
「えへへ。太一、ありがとね」
いつも通りの綾女に戻っていた。
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