第20話 綾女の約束と三匹の猫


 俺が頭を悩ませていると、綾女がスッと卓也の顔に手を伸ばす。ぶったのではない。優しく、頬を撫でた。左右の手で、卓也の顔を包む。


「分かったよー。大丈夫。卓也君の言いたいことも、卓也君の思いも。ちゃんと伝わったから。でも、方法は間違っていたかもしれないけどねー。あははー」


 頬を数回擦って、そのまま手を頭に乗せる。乱暴にぐりぐりと頭を撫でつける。


「私もよく間違えるんだ。学校の勉強とかさー。その度に太一に、このずぶ濡れで横になってるお兄ちゃんだけど、太一に注意されるんだ。あははー」


 綾女は朗らかに笑て、後頭部を掻いた。照れた時の仕草だ。その明るさが、卓也には光明だろう。俺だって、いつまでも見ていたいと思う笑顔だからな。この笑顔に、俺は支えられてきたんだ。そして、今は卓也の気持ちをフォローしている。


「だから、この子猫のことはお姉ちゃんたちに任せなさい」


 綾女は胸を張って、心臓の辺りをポンと手で叩いた。


 ああ、そうやって安請け合いをする。俺は思わずため息が出そうになるが、それも綾女のいいところだった。ここで無視するのは、俺の幼馴染の綾女じゃない。俺が物心つく前から一緒にいる綾女じゃない。ここで手を差しのべてこそ、相原綾女だ。


「それで、この子猫に名前はあるかな? 三匹いるみたいだけど?」


 綾女が優しく問う。その表情に安堵したようで、卓也も顔をほころばせる。


「うん。さっき決めたんだ。この黒いのがクロで、白いのがシロ。それと、この模様のあるのがサクラ」


 卓也は綾女と一緒に段ボール箱を覗き込み、指さしながら嬉しそうに話す。


 黒猫と白猫の名前はクロとシロは分かりやすい。でも、サクラ? さっき覗いて時にいたのは、茶トラの猫だったと思うが。


 綾女も俺と同じように疑問に感じたらしい。


「えっと、サクラちゃんは何でサクラちゃん? 茶色だよ?」


 どちらかと言うと、ブラウンって感じの風体だ。


「えっとね。桜の木の下にいたから、サクラ!」


 ああ、そう言えば、俺と綾女が通っていた小学校の校門の脇には、大きな桜の木が植えられていたな。あそこに捨てられていたのか。でも、その名づけ方なら三匹ともサクラになるんじゃないのか。まあ、子供の感性は豊かだから、俺には理解できないこともあるだろう。七年前なら、俺も納得したのだろうか。


 綾女も疑問は拭えないらしく、首を傾げながらも卓也とのやり取りを続ける。


「じゃあ、クロちゃんとシロちゃんとサクラちゃんは私が責任をもって預かりました。必ず、幸せにしてくれる飼い主を探すからね。約束だよー」


 綾女は卓也に向けて右手の小指を突き出す。


「ほら。指切りげんまん」


 卓也もそれに倣って、右手の小指を差し出し、綾女の小指に絡める。


「ゆーびきーりげーんまんうそついたらはりせんぼんのーます!」


「ゆびきった!」


 卓也と綾女の間に、見えないけれど、固い契約が結ばれた。



 ◇  ◇  ◇ 



 それから小学生たちと別れて、再び帰り道を綾女と二人で歩く。川に飛び込んだので、二人とも濡れ鼠だった。ビショビショと歩いた足跡が道路に残る。その足跡は、ゆっくりと蒸発して、空気に溶け、消えていくだろう。


「それで、この子猫どうするんだ?」


 段ボール箱は俺が両手で抱えている。その代わり、俺の学生カバンは綾女が持っている。


「もちろん、飼ってくれる人を探すよ。……分かっているとは思うけど、保健所には絶対に連れていかないからね」


 ジロッと綾女が睨む。


 もちろん、俺だってそのつもりだ。だが、最悪のケースは常に考えるべきだとも思う。この場合、飼ってくれる人が見つからないといった場合だ。


「はあ。分かってる。綾女とあの子の約束だもんな」


「うん。私、針千本飲みたくないからねー。あははー」


 綾女が笑う。それだけで、二人の空気は軽くなる。何だってできそうな気持ちになる。


「えっと、綾女の家はおじさんがアレルギーだっけ?」


「うん。お父さんが猫アレルギー。だから悪いけど私の家じゃ、飼えないよ。太一は? 昔、犬を飼ってたよね?」


 物心がつくかつかないかの年齢の頃の話だ。根本家では犬を飼っていた。血統書なんて立派なものはなく、雑種のオスだった。名前はヨサクだ。俺が小さい頃に、既に老犬だった。そして、ある日、ヨサクは静かに眠るように死んでいた。それから、俺の両親は喪失感に悩まされたらしい。ペットロス症候群ってやつだ。それから、犬はおろか、ハムスターも金魚もメダカも飼ったことがない。


「ああ。飼ってた。でも、ペットはダメ。飼うのはいいが、死ぬのがキツイ。父さんも母さんも」


 それに、きっと俺もその性質は受け継いでいる。きっと、可愛がった猫が死んだら、俺も喪失感で心身共に参りそうだ。記憶があやふやなヨサクの死でさえ、後ろ髪を引かれる思いが少しある。


「そっかー」


 綾女は深く追及はしない。こういった、幼馴染の間だけで通じる機微に聡くて、助かる。


「じゃあ、何はともあれ里親探しだねー」


「そうだな。まあ、とりあえず、里親が見つかるまでの期間限定なら、俺の家で預かるのは問題ないと思う」


 死にさえしなければいい、とは何とも人間本位で身勝手な姿勢だと思う。子供の、自分の無力さが嫌になる。大人になればなんだってできるようになると、子供心に思っていた。でも、現実は違う。年齢を重ねるほど、できることとできないことがハッキリする。現実を、知る。でも、それを認められない、未熟な自分がいる。十五歳なんてそんなものだ。五年後には、違う世界が見えるのだろうか。


「うん。それだけでも大助かりだよー。……太一、ありがとうね」


 綾女が微笑む。その笑みに、俺は応えたいと思った。願った。


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