第18話 先に体が動いてしまうのは綾女


 癖まで把握されていることに俺はバツが悪くなって、帰る足を速めようと一歩目を踏み出した。


 その時、さっきの小学生の集団からひときわ大きな声が上がった。


「ああ、そうだ! 俺、いいこと思いついた!」


 何ごとかと不思議に思い、足を止め、振り返る。綾女も一緒だ。二人、橋の上で足を止めて、振り返る。


 段ボール箱を持って集団の中心にいた男子小学生が、その段ボール箱を振りかぶって、橋の下に、川に向けてそれを放り投げた。身体に見合わない大きめの段ボール箱を投げ捨てて、男子小学生はヨタヨタと揺れた。


 それから一瞬の沈黙があって、ばしゃっと着水する音が響く。その音を皮切りに小学生が騒ぎ始める。


「たっくん、捨てちゃダメだよ!」


 小学生の一人が段ボール箱を捨てた男子小学生に糾弾する。たっくんと呼ばれたその男子小学生は、気にした様子がない。


「ホケンジョで殺されるから、一緒だよ! だから、これでいいんだよ!」


 どこか自信に溢れているように、腰に手を当て小さな胸を張る。


 しかし、周りのたっくん以外の小学生の非難は続く。


「にゃんこ可愛かったのにー」


「どーぶつぎゃくたいだー」


「かわいそー」


 どうやら不穏な会話をしているように思える。


 捨てる? 「ホケンジョ」……保健所、それに「にゃんこ」。ってことは、あの段ボール箱の中身は!


 俺よりも状況を一瞬早く理解した綾女が駆けだす。俺も慌てて綾女の後を追う。


「っ!」


 綾女が切迫した表情で川を見下ろす。幸いにも、段ボール箱はまだその形を保っていて、川面に浮いている。しかし、川の流れは刻一刻と段ボール箱を押し流す。下流へ、海へ。


 綾女は学生カバンを橋の上に投げ捨て、そのまま橋の白い欄干に乗って川に――飛び込んだ。大きな水しぶきが上がった。


「あ、あのバカ!」


 綾女に遅れること三秒、俺も小学生の集団の脇から川の方を見渡す。


 橋のほぼ真下では、綾女が――ごぼごぼともがきながら暴れていた。


「けほっ……かはっ……へふっ……」


 そうだ。俺は知っている。綾女は泳げない。小学校の頃から、足のつくプール以外では泳いだことがない。小学校の二十五メートルのプールを、ビート板なしで泳ぎ切ったことがない。息継ぎが壊滅的にヘタクソだった。


 俺も綾女に倣って学生カバンを橋の上に捨て、そのまま川に、綾女に接触しないように、少し離れたところに足先から飛び込む。橋の欄干から水面までは三メートル強。下は水面だ。足から落ちれば痛くない。


 五月の水温はやや温めで、冷たさに凍えることがなくて結構だ。俺はそのまま、歩いて、綾女の脇に立つ。小さな川だ。水深は一メートル三十センチメートルほど。慎重に足場を選べば、溺れることはない。俺より背の低い綾女でも、十分立てる深さだ。


「綾女! 落ち着け! 俺の言葉を聞け! 綾女!」


「ごふっ……た、太一……ね、猫を……早くぅ……」


 綾女はこの極限の状態においても、段ボール箱の、猫の安否を気にかける。そんな綾女だから、俺はずっと幼馴染を続けてこれたんだと思う。そしてそんな俺だからこそ、猫も大事だが、それよりも綾女が大事だ。


 綾女の両脇から腕を通し、羽交い絞めするように綾女を抱えて持ち上げる。身体の半分以上が水に浸かっているので、綾女の身体は簡単に浮く。だが、綾女はまだ動揺しているようで、手足をバタつかせる。


 そうやって暴れていた綾女だったが、身体が浮いて呼吸が楽になったことで、少し抵抗が弱まる。すかさず、俺は綾女に声をかける。


「綾女! 浅い! 足がつく! 落ち着け! 大丈夫だ!」


 俺の言葉をようやく飲み込んだ綾女はスッと大人しくなった。そのまま、俺に抱きかかえられた姿勢のまま、首だけ俺の方に向ける。その目は、泣きそうで、弱そうで、手を差しのべたくなるくらい揺れていた。


「わ、私は平気。もう大丈夫。た、太一。猫を。猫を」


 綾女が平静を取り戻したのを確認して、綾女の拘束を解く。綾女はゆったりと川の中で直立した。その綾女の肩を掴み、しっかりと目を見て言葉をかける。安心させるために。


「分かってる! 上がって待ってろ! 俺が行く! 任せろ! 俺を信じろ!」


 俺は綾女から視線を外し、顎で川岸を指さす。綾女は強く頷いた。


 綾女は水の中をゆったりとジャンプしながら川岸へと向かった。そこそこ流れがある川だが、綾女を流してしまうほど強い水流があるわけじゃない。川底の石に足を取られさえしなければ、綾女は無事だろう。これで綾女はひとまず大丈夫そうだ。


 俺は川の下流の方に目を向ける。目を細めて川の流れを読む。その水流をたどっていくと、川の流れに運ばれ、十メートルほど離れたところに、段ボール箱が浮いていた。まだ健在だ。だが、段ボール箱は所詮段ボール紙だ。水に晒され続ければ、弱るし、場合によっては破れることもある。少しでも早く事態を改善しなければ。


 川底から足を浮かし、そのまま川の流れに乗ってクロールで下流へ向かう。


 着衣水泳の経験なんてほとんどない。制服や靴が水を吸って身体の自由を奪う。腕も足も重い。水を掻くどころか、息継ぎだけでも大変だ。だが、俺は負けない。綾女に啖呵を切ったのだ。一方的だが綾女と約束したのだ。俺は、綾女との約束は反古にはしたくない。綾女と同じくらい、綾女との約束を大事にしたい。


 それから五メートル、三メートルと近づき、橋から三十メートルほど離れたところで、ようやく段ボール箱を捕まえた。


 段ボール箱を支えながら、蓋を開き、中を確認する。生後数か月くらいの子猫が三匹、丸くなって身を寄せ合っていた。幸いにも、段ボール箱の底が抜けていたという最悪の事態は避けられたようだ。


 猫も驚天動地の騒ぎらしく、「にゃあにゃあ」必死に鳴いていた。その鳴き声が、逆に俺を安心させてくれる。大丈夫だ。こいつらはちゃんと生きている。


 そのまま段ボール箱の底を支えるようにして、川岸に向かう。先に川から出ていた綾女がパタパタと俺を追いかけてきた。段ボール箱を川岸に上げ、俺も身体を打ち上げる。そのまま、トドのように川岸で横になる。


「ぜぃ……はぁ……。無事、だぞ……。綾女……。子猫……。三匹……」


 綾女が駆け寄る。そして、段ボール箱の中身を確認し、安堵の表情を浮かべる。


「よかったよー」


 嬉しくて、そのくせ泣きそうな、複雑な表情だった。水に濡れて綾女の制服がぴっちりと肌に張りついていた。制服がほんのり透けていて、綾女の輪郭がクッキリと見える。そんな綾女に上着の一つも貸したかったが、生憎俺もびしょ濡れだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る