第10話 自分の家の次くらいによく見知った家


 綾女の家は俺の家の斜め向かいだった。綾女の家は淡いクリーム色をしていて、俺と綾女が生まれる少し前に建ったらしく、まだまだ築二十年も経っていない築浅の家だ。物心がついた頃には既によく遊びにきていた。だから、自分の家の次くらいによく見知った家だった。


 ここら一帯は住宅街で、公園のような遊べる施設が少ないので、小さい頃は綾女の裏の庭でよく土遊びをしたものだ。泥んこになっては綾女と一緒に綾女の家の風呂に入ったものだ。そう言えば、綾女と一緒に風呂に入らなくなったのはいつからだろうか。小学校低学年くらいまでは一緒に入っていた気がするから、第一次性徴の辺りだろうか。俺が股間の大きさに悩まされる頃には、もう一緒に入っていなかったな。それは、必然だったのかもしれないが、僥倖だったかもしれない。


 悪戯もたくさんした。綾女の母親と父親には何度も迷惑をかけた。その度に、自分の子供と同じように、綾女の母親と父親から怒られたものだ。


 綾女が玄関のカギを開ける。綾女の家の玄関は開き戸だ。ハンドルを手前に引いて玄関扉を開ける。


「ただいまー」


「お邪魔します」


 綾女が誰もいないであろう家に挨拶をする。俺も綾女に続いて、綾女の家に入る。綾女の家には子供の頃からお邪魔しているので、大体の間取りは把握している。


 綾女は玄関でローファーを脱いで、靴箱に丁寧にしまった。俺は邪魔にならないように玄関の端の方でサンダルを揃えて脱いだ。家族同然でも、ここは自分の家じゃない。これくらいの礼儀作法は心得ている。


「ああ、太一。何か飲む?」


 綾女は客人である俺に気を使ってくれたようだ。


「いや、さっき麦茶飲んだからいいや」


「そう? じゃあ、私の部屋に行こうー」


 綾女の部屋は階段を上って右手側の一番奥の部屋だ。子供の頃から変わっていない。


 直近だと、つい一週間ほど前に、教科書を借りに綾女の部屋にお邪魔した。宿題が出ていたのに、失念して置き勉してしまったからだ。綾女もまだ宿題に手をつけていなかったので、二人で一緒に問題を解いた。二十問程度の問題だったが、俺の方が先に解き終わって、結局綾女の勉強を見てあげることになった。まあ、持ちつ持たれつの関係だ。言葉にはしないけれど、綾女には感謝している。


 綾女が先導して階段を上る。不用心な綾女のスカートの裾が揺れる。こういう時は学生カバンや手をお尻に当てて、ガードするのが普通だろうに、綾女は全く気にした様子がない。俺は綾女のスカートの中を覗かないように注意しながら、階段を上った。綾女の家の階段は十段だ。階段の上には小さな踊り場があって、左右に廊下が伸びている。


 綾女の部屋の前で、綾女が振り返る。ふわりとスカートが膨らんだ。


「部屋の前で待ってて。合図をしたら入ってきてね。……覗いちゃダメだよ」


 そう言い残し、綾女は先に部屋に入ってパタンと扉を閉めた。何をするつもりか不明だが、カギをかけた気配はない。覗こうとすればいつでも覗ける。信頼されているのだろう。そして、その信頼には答えたいと思う。


 ただ突っ立っているのも何なので、俺はその場に腰を下ろして胡坐をかいた。


 そのまま綾女の部屋の扉を背もたれ代わりにして、楽な姿勢を取る。コツンと後頭部を綾女の部屋の扉に当て、中空に目をさまよわせる。綾女の家の廊下にも、階段の踊り場にも、特に華美な装飾品は置いていない。その代わり、廊下には綾女が貰った賞状なんかが飾られていた。三位とか四位ばかりで、一番になったことはない。その賞状の一番端には、綾女が南斗高校のクラス委員長になった任命書が飾られていて、それが何だか微笑ましい。


 そのまま綾女の部屋の扉を見上げる。扉には小さなルームプレートが垂れ下がっている。ルームプレートの真下なので書かれている文字は読めない。だが、何て書かれているかは知っている。「AYAME」だ。綾女の母親が書いたらしい。筆記体でサインのように崩して書いてあるため、小さい頃はこの文字が何なのか読めなかった。俺にとって綾女は「あやめ」だった。それがいつの頃か「綾女」になって、「AYAME」にもなった。大人になるとは未知が既知になることだと思う。ちなみに、綾女は高校生になった今でも、「これ、あやみー、じゃないの?」といって不思議がっている。綾女は古典を含む日本語の成績も、英語の成績も芳しくなかった。唯一得意なのは数学で、綾女は暗算だけはやたら得意げだった。だが、地味に正答率は低い。概算は上手いのだが、精度が緩いのだ。まあ、それも綾女の人柄の、個性の一つだろう。


 そんな風に昔のことを懐かしんでいると、シュルシュルと衣擦れの音が聞こえてきた。どうやら綾女は部屋の中で着替えているらしい。扉は閉まっているとはいえ、本当に不用心なやつだ。カギくらいかけるべきだろう。


「男扱いされてないのかねえ、俺は」


 一人ごちる。五月の生温い空気に、俺の言葉が溶けて消えた。いや、まあ、それは俺も同じか。俺は綾女のことは好意的に思っているが、異性として意識することは稀だ。女の子扱いはするようにしているが、だからって気を使い過ぎないようにもしている。家族同然だからな。俺は綾女の幸せを願っている。でも、幸せにするのが俺でありたいと思うほど独善的ではない。綾女は、綾女自身手で、幸せを掴めばいいと思っている。その方が、その幸せは貴重で、大切なものになるだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る