第6話 もちろん親もよく知っている


 両手に麦茶の入ったピッチャーとコップ。ついでに脇に学生カバン。頑張れば指先で扉を開けることはできなくもない。しかし、些細な頼み事が口に出せない仲ではない。


 俺の部屋の前で、中の綾女に声をかける。


「綾女。ドア開けてくれ。両手塞がってて」


「はーい」


 綾女はそそくさと俺の部屋の扉を開けてくれた。俺の部屋の扉も玄関と同じく引き戸だ。


「あんがと」


「うん。どういたしまして」


 俺の部屋は八畳ほどだ。小学生の頃から使っているベッドと学習机が大きく占領しているが、狭くて困ったことはない。部屋の中央のローテーブルにピッチャーとコップを置いて、学生カバンを学習机の上に放り投げる。


「お茶、注ぐね」


 すかさず綾女はピッチャーを手に取り、コップに麦茶を注ぐ。五月下旬の少し蒸し暑い空気に触れて、冷えたピッチャーの側面には水滴がたくさん付着していた。


 不意に「飽和水蒸気量」という単語が脳内に浮かび上がる。一立方メートルの空間に存在できる水蒸気の質量のことで、中学生の理科の勉強の範囲だ。数か月前の高校受験でもそれに関する問題が出題されていた。冷えたピッチャーに接している空気は、常温に比べて飽和水蒸気量が小さいので、水蒸気が水滴になって付着するのだ。まあ、今後の人生で活躍することはなさそうな知識だ。


「はい、太一」


 綾女は最初に注いだコップを俺に差し出す。


「おう」


 俺はコップを受け取ると、そのまま一口麦茶を啜った。安物で水出しの麦茶なので、やや薄味だったが、そろそろ初夏の暑さが見え隠れした季節には、冷たいだけでありがたかった。


 俺が一服したのを見届けてから、綾女は自分の分の麦茶を注いだ。


「ふう。えへへ。美味しいね」


「そうか? 安物の麦茶だし、味も薄いだろ?」


 綾女はぷくっと頬を膨らませた。


「もう。社交辞令だよ。とりあえず褒めたの」


「そ、そうか」


 綾女は意外と世間体と言うか、周囲からどう見られているか、周囲をどう見ているかを気にする性格だった。その点は俺とは正反対だと思う。俺は周りに見られたくないし、目立ちたくない。勉強も運動も人並み以上にできるから手加減せずにやっているだけで、本当は人並みでありたいと思う。俺なら、もっと学力の高い高校も、インターハイ常連の部活強豪校も、上手くやっていけたと思う。でも、それはきっと孤独の道だった。俺は、今ここにいる綾女と一緒に過ごす時間が、とても貴重に思えていた。照れくさくて、こんなこと本人には言わないけれど。


「ああ、そうだ。太一、ズボン。洗わないと」


 突然、綾女が思い出したように手を叩いた。


「ズボン? ああ、ジュースか。もう乾いたからいいよ」


 俺が気にしないようにもう一口麦茶を啜ると、綾女が不意に俺の股間に触れた。


「ぶふーっ」


 思わず麦茶を吹き出してしまった。


 唾と一緒に吐き出されたお茶は、ギリギリのところで綾女に吹きかけることだけは避けられた。しかし、その分カーペットが濡れてしまった。


「ごふっ、な、何を……」


「ほら、まだべたついてる」


 綾女はまだ俺の股間を触る手を止めない。その手つきが、妙にくすぐったい。自分で触るのとは大違いだった。


「い、いいから。あ、綾女。離れろって」


 変な気になりそうだ。


「ダメ。洗わないとズボンが痛んじゃうから。脱いで」


 綾女は頑固な面もある。こうなったら、俺は綾女の言うことに大人しく従うしかない。


「わ、分かった。脱ぐ、脱ぐから」


 今更、綾女にパンツ姿を見られたところで恥ずかしくない。


 俺はそのまま俺の部屋でズボンのベルトを緩め、ズボンを下ろし――。


「太一帰って……あら、ごめんなさい」


 ノックもなしに俺の部屋の扉を開けた母さんが、ズボンを脱ぐ俺とそれを見つめる綾女の姿を目にするや、すぐさま扉を閉めて出ていった。


「わ、私、説明してくる」


 そのシチュエーションの意味するところを察した綾女が、顔を赤く染めながら慌てて母さんを追いかける。


「頼む」


 我が母ながら、早とちりだなあ。でも、状況証拠は完璧だから、綾女が言い訳するのも大変かもしれない。それに、俺と綾女の両親からしたら、俺たち二人がそういう関係になることを望んでいる節もあるし。「綾女もいつか根本綾女になるんだなあ」とは子供の頃に聞いた綾女の父親の発言である。その意味は分からなかったが、綾女が恥ずかしそうな、嬉しそうな顔をしていたのはハッキリと覚えている。あの子供の頃から、背も大きくなったし、頭も賢くなった。でも、変わらない思いもある。綾女には、俺の一番の幼馴染には、幸せになって欲しい。それだけは不変の願いだった。



 ◇  ◇  ◇ 



 それから、たっぷり五分ほどして、綾女が俺の部屋に帰ってきた。俺は上下とも制服を脱いで、上はティーシャツ、下はハーフパンツというラフな部屋着に着替え終えていた。


「おう、お帰り。遅かったな」


 綾女はまだ顔が赤く、それと、何だか疲れたような表情をしていた。


「もう。誤解を解くの大変だったよ。おばさんたら、私のお母さんに電話しようとしてたんだもん」


「そ、そうか。ご苦労だったな」


 綾女は俺が脱いだ制服を丁寧に抱きかかえると、「おばさんに洗濯してもらってくる」と言って再び部屋を出ていった。


 ああ、脱いだ服を洗濯してもらうのって、何だか夫婦みたいだな。


 その考えが何だか気恥ずかしくなったので、俺はベッドに腰を下ろし、麦茶をもう一口啜った。

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