11 アレッサ

 今日は一度もユーグを見ていない。休みの日は必ず一緒にご飯を食べているのに、昼ご飯の時間になってもどこにもいない。部屋に行ってもいなかったし、いつも一緒にいるギルさえもいなかった。同じ部屋のシャルも見当たらないし、ミラとバルドリックに聞いても知らなかった。


 いったいどこに行ったのかしら。


 私、何か怒らせるようなことしちゃったのかな。そんなはずないわよね。ユーグが怒ったことなんか一度もないし、私もいつも通りのことしかしていないはずだもの。私に会いたくないのかな。そんなわけないわよね。あのユーグだもの。そんなわけないわよ、きっと……。


 私は若草色の太い麺にフォークを刺して食べていた、と思う。ユーグのことをあれこれ考えていたら、皿にはもう何もなかった。だから食べきってしまったのだと思う。どんな味だったかは口に残った香りで想像できても、触感は何も思い出せない。モチモチ? ブニブニ? そんな感じだったと思う。


「やあみんな」

 その声で私は即座に顔を上げる。

 声の主はやっぱりシャルだった。私はすぐにでもユーグのことを聞かずにはいられなかった。


「シャル。ユーグを見てない? どこを探してもいないんだけど」

「ユーグ? ごめん見てない。今朝起きたときも、もうベッドにはいなかったから」

「そう……」

 私は冷たい手で押さえつけるように髪をかき上げると、その手で頬杖をついた。そして、何も残っていない皿の上に視線を戻し、またグルグルと同じことを考える。口に出せないその言葉が頭の中で繰り返される。


 二の腕に柔らかい手の感触がした。その方に首を向けると、ミラがこっちを見ている。


「大丈夫?」

 私はその言葉でハッとして、正面に座るバルドリックとシャルが心配そうにしていることに気が付いた。


「──なんでもない、なんでもないよ。だいじょうぶ」

 私は安心させるつもりでミラの手に触れた。でも私の異常に冷たい手で、余計不安にさせてしまったような気がする。

 ミラは黙って私の手を握ってくれた。柔らかくて温かい。


「アレッサ、心配しすぎだ。ユーグにだって一人になりたい時が一日くらいはある」

「でも、これまでそんなことは一度だって──」

「これまではな」

 私は身を乗り出して反論したけど、すぐにまた腰を戻す。

 そう、分かっている。そんなことくらい初めから分かっていた。


「もう俺たちはガキじゃないんだ。意味もなくわいわいと一緒にいるだけで解決できるほど、抱え込める問題は小さくなくなった」

 私は少しの間だけ強くバルドリックを睨みつけた。

 バルドリックは私が睨んでいるのを分かって、わざと私の方を全く見ようとしない。

 それは私への当てつけかよ。私だって逃げずにちゃんとやってる。何も頑張ってるのはあんたらだけじゃないのよ。


 私が言い返してやろうと口を開いたと同時に、シャルが私に向けて話し始めた。


「大丈夫だよ、アレッサ。ユーグが君を不安にさせるようなことはしない。それは君が一番分かってることだろ。でも一応、部屋で会ったらそれとなく話しておくよ」

「あ、うん……。ありがとう」

 私は出鼻を挫かれたような感じになって、途端に怒りが消え去った。

 そして、怒りと一緒にやる気とか元気とか、そういった生命力の塊みたいなものも抜け出て行ってしまった感じがした。なんだか、枯れる前に萎れてしまった植物みたいだと思った。


 虚しい。一言で表すとそんな感じだった。そしてその空いた感情の隙間に入ってくるのは、不安や恐怖だった。


「シャル。あの、さ」

「うん?」

 シャルは、私も食べたはずの麺を頬張りながら返事をした。

 その膨れたほっぺを見ると、全く貴族っぽくないなとふと思った。


「──ユーグはさ。私のこと、なにか言ってなかった?」

「何かって、例えば?」

 私は分かるでしょという視線をシャルに飛ばした。私の口からその言葉を出したくはなかった。

 シャルは、「ああ」と言い、私の意図を察したようだった。そして、水を口に含み、飲み込んだ。


「アレッサ、あのユーグだよ」

 シャルは手元の紙で口元を拭きながら言った。

 私はシャルの目を見続けた。何か少しでも安心できる答えをシャルの口から引き出せるまでは、退かないつもりだった。というよりも、退けなかった。シャルならそれを言わずとも理解してくれると思った。


「分かったよ」

 シャルは拭った紙をさっと二つに折ってテーブルに置いた。


「僕が寝る前に同部屋のユーグから聞く君の話と言えばね、この数年でたった一つのことしかなかったよ。

 それは、君にこんなこと言われたって喜ぶとか、君にはこんな優しいところがあるとか、こんな一面もあるとか、君のこんな所作がかわいかっただとか、こんな反応が愛おしかったとか、こんなところが好きでたまらないとか、あとは──」

「もういい、もういから。もう、その辺で、十分よ」

 私は必死で止めようと、シャルの口に向けて両手を伸ばした。きっと今の私の顔は真っ赤だと思う。冷たかった手も熱いくらい。

 バルドリックのやつも意地悪そうにニッとしてるし、ミラも嬉しそうにニヤニヤしてる。シャルはというと、これでもかとすました顔をしている。


 わざとやったな。もう……! 


 私は腕を組んで背もたれに勢いよく寄り掛かった。


「いいなあ」

 ミラが小さなまん丸の瞳を輝かせながらじっと私を見つめてくる。


「なにがよ」

「私にもそんな風に想ってくれる人がいたらなあって」

 私は恥ずかしすぎて、今すぐこの場からいなくなりたかった。このまま体が熱くなって、燃えて、灰になって消えてしまいたかった。


 私はシャルを見た。シャルはしたり顔をし、その目は分かったでしょと私に言っていた。こいつめと思ったけど、私はシャルに微笑み返した。

 ありがとう。そうよね、ユーグを疑うなんてどうかしていた。さっきまで真剣に悩んでいたことが馬鹿みたいだった。それくらい不安と恐怖が、爽やかな風に吹き飛ばされていくようだった。


「いーなー」

 ミラがまだ私の腕を揺すって見上げている。


「まだ言ってるの、ミラ。あんたもそういう人つくりなさいよ」

 私はそう言って、ミラの首の後ろに腕をまわして、丸くて柔らかいほっぺを両側から軽くつねった。


 ミラも私も子供の頃に戻ったみたいに笑い合って、ここ数日で一番楽しかった。そして、ああ、またこんな日々に戻れたらいいのにと、心の隅でぼんやりと思った。


「ユーグは多分、恐れてる」

 私はミラと戯れる手を止めて、シャルに目を向けた。

 ミラもピタリと動きを止めた。

 シャルの言い方はまるで、誰もいない部屋の壁に向けて独り言を言っているかのようだった。少なくとも私たち三人の誰かから返答を求めていないように見えた。


「何をだ」

 バルドリックが仕方なさそうに聞いた。

 こういう時、シャルに聞く役はギルかユーグだと決まっているからね。


「──失うことかな。ユーグは南部の村出身だから、二人もそうだっけか? 何て村だったかな?」

「ユーグはミュルズだろ、俺はもっと東のヴァールで……」

 バルドリックは話をパスしようと私に視線を向けた。


「私はペルジュよ」

「え、そうなの? 私のおばあちゃんもヴァールに住んでたの。何で言ってくれなかったの? 私と同じミラって名前だったんだけど、知ってたりする?」

 ミラが私から離れて、テーブルの縁を掴んで身を乗り出した。

 バルドリックはあからさまに狼狽えている。私はそれを少しいい気味だと思った。


「あれ、言ったことなかったかな?」

「言ってないよ」

 ミラが首を振る。


「そうか、でも、君のお祖母ばあちゃんのことは覚えてないな」

「そうなの? でも小さな村だったと思うけど」

「いや、そうなんだが、その、何というか──」

「思い出したくないのよ。でしょ? 私もそう」

 バルドリックは口をポカンと開けて私を見た。

 私は腕組みをし、心の中でふっと笑った。バルドリックのそんな顔を見れただけで私は満足だった。


「──そう、あまりね」

 バルドリックはその壺のように開いた口を閉じて、うつむいた。


「──そうよね。ごめん。すぐ気づかなくて」

 ミラは気落ちして猫背がさらに丸くなり、私はその背を擦った。

 気にする必要なんか全くないのに。


「いや、いいんだ。それで、何の話だったかな、ユーグが失うのを恐れてっるて話だったか。まあ、戦があったんだ神経質になっても無理はない」

「そうね……」

 私はうなずきながら、ユーグの顔が浮かんできた。

 ユーグは、皆の前では──もちろん私の前でも──強がって見せてるけど、心配性で神経質だから、きっとそれで……。


 失うのを恐れている……。私もそれをひどく恐れている。他のみんなには悪いけど、ユーグさえ側にいてくれれば、私は他に何もいらない。

 今ある立場も、役職も、関係も、その全てをかなぐり捨てて、二人だけで逃げ出してしまいたい。どこか遠く、英雄とか悪魔とか、そんなくだらない争いとは無縁の土地に行きたい。人も植物も、太陽さえも私たちのことを知らないし、知ろうとしない、そんな場所がいい。


 ユーグに話せば賛成してくれるって分かってる。ユーグが同じ考えを持ってることにも気づいてる。

 でも、ごめんね。私は臆病で、自分の人生一つ自分で決められないような中途半端な女だから、都合のいい理想だけ夢見て何一つできやしないの。


 ごめんね……、本当にごめんね。

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