9 ギルバート

 退屈だ。これ以上ないくらいに退屈だ。シャルの父ちゃんも休みをくれるのはいいけど、一週間は長すぎるよなあ。


 俺は今、城壁の上で、デコボコしている壁のへこんでいる方の部分に、仰向きで寝転がっている。頭を外側、足を城の方へ向けて、腰から下はプラプラと宙に浮いている。目の前には一面灰色の曇り空。おかげで暑さは少しましだが、ジメジメとする。顎を限界まで上げると、逆さまになった街が見える。天気のせいか、炎の街と呼ばれるほどの街に活気がない。

 いや、天気のせいじゃなくて、戦争のせいか。あの悪魔どもめ。


「くそが……」

 俺は天に向かって悪態をついた。

 今は太陽神も雲に隠されてる。文句を言っても多分聞こえない。


「誰に文句を言ったんだ。まさか俺じゃないよな」

 男の声が足の方から聞こえてきた。

 俺はすぐに誰だか分かった。ユーグだ。


「だと良いな」

 俺は寝転がったまま何も考えずに言った。

 ユーグが近づいてくる足音がして、隣に座った感じがする。俺はしばらくぼーっと空を眺めた後、起き上がって左の飛び出している方の壁にすり寄った。壁の外側の方に背をつけると、片膝は立て、もう片方の足は腰掛けているユーグの後ろにのばした。


 しばらく俺たちは何も話さなかった。俺はただじっと街を見下ろし、ユーグは床を見つめてた。あいつらに鈍感だ、鈍感だと言われてる俺でも、ユーグがいつもと違うことくらいは分かった。

 ユーグとは長い。こいつなら、異変があればすぐに分かる。俺の予想ならアレッサのことだ。こいつが俺に落ち込んだところを見せるのは、それくらいだからな。

 前にこういう状態を見たのは、アレッサに告白する前か。あの時は何を話しても聞いてくれなかったなあ。それにずっとむっつりして、俺に何かを言おうとして止めて、言おうとして止めての繰り返しだった。結局、俺には何も言わなかったが、急にばかみたいに元気になったと思ったらアレッサと付き合ってたっけ。


 今回もそれなら、言うまでが長い。でもなんだろうな、まさか別れるとかか。確かに三日前は機嫌悪かったけど、昨日とか一昨日はいつも通りベタベタくっついてたよな。

 うーん。あー、めんどくさいな。こっちから聞こう。


「言いたいことがあって来たんだろ。早いとこ話してくれよ。待ってたら日が暮れる」

 ユーグは少しだけ頭を上げて、俺の方をチラッと見た。


「お前はさ、不安とかないのか?」

 俺は思いもよらない質問と、意外と早く言葉にしたことの両方に驚いた。だから、何と言われたのか理解できなかった。


「なんて?」

「──いやさ、この前の、あの、戦争。お前は不安じゃないのかって」

 ユーグの声はいつもと明らかに違ったし、何かに怯えているようにも聞こえた。

 どうしてそんなことを聞くのだろうか。俺がビビってるってからかったことを気にしてんのか。いや、まさかな。


「何でそんなこと聞くんだ?」

「──お前が今どう感じているか、聞いときたいんだ」

 俺はユーグの横顔を見た。暗いな。ユーグもこの街の空気に飲まれちまったか。でも、それも仕方のないことか。


 俺が今どう感じているか、か。俺だってみんなと同じで不安さ。正直、戦場にはもう二度と行きたくない。あたりに満ちた血や毒の臭い、悲鳴に化け物の唸り声、死体の山と巨大な影、血の感触。その全てが癇にさわった。


 あんなものだとは思わなかった。俺は戦場に、もっと神聖さみたいなものを思い描いていた。神話の英雄たちみたいに、華麗な技で敵をなぎ払い、思いもよらない策略で敵を欺き、最後の最後で大勝利をつかみ取る。そういうものだと思ってた。俺はその裏にある何百何千の死体の山に目を向けていなかった、というよりも見ようとしていなかった。俺ならなんとかなると根拠のない自信に満ち溢れていた。


 だけど、そんなものはすぐに壊された。

 あの砲撃の雨に怪物の影。

 怖かった。震えが止まらなかった。俺が恐怖にすくんで動けなくなるだなんて考えもしなかった。あんなに自分に絶望した日はなかった。俺があんなにも役立たずだとは思わなかった、信じられなかった。

 だから、がむしゃらに動くしかなかった。どうにかしないと、と思った。塔を目指したのも、仲間のためとか、生き残るためにとかそんなものじゃなかった。ただ、このままだと自分を許せなかったから。復讐を誓っておきながら、初めから揺らいでしまったこの心が、何よりも憎かったから。俺は俺の名誉のために、必死に動くしかなかった。

 あの日の光景まで思い出して、怨みを引き出すしかなかった。それ以外を見ないことで不安を消した。


 その時はそれでよかった。だけど今、もう一度あの場に立てと言われたら、そうできるか分からない。もう俺の目には仲間が映ってしまっている。怨みで消すにはあまりにもくっきりと映りすぎている。


 それでも、あの日の誓いをなかったことにはできない。

 死んだ家族を前に誓っただろ。悪魔どもをこの手で殲滅すると。


 あの日の光景がありありと浮かぶ。家の前には太い幹。そこから伸びた無数の蔓と、その先に繋がれた、父ちゃん、母ちゃん、兄貴に姉ちゃん……。


 俺の中で熱い炎が再び燃え滾ってきたのを感じた。


「ギル……? どうかしたのか?」

 気づくと、ユーグが俺を見ていた。

 俺ははっと我に返った。手を広げると、真っ赤な爪の痕が四つ並んでいた。


「ギル……」

 呼びかけるユーグをよそに、俺はその手の平を見つめた。そしてもう一度強く握りしめると、ユーグの目を強く見返した。


「不安はない。お前も見ただろ、俺たちの村の最後を」

 ユーグは、はっと息を呑んだ。


「俺はあの日、家族に誓ったんだ。悪魔どもを殲滅するって。だから、怖いだなんて言ってられない」

「──死ぬかも、しれないんだぞ」

「分かってる」

 俺たちはいつの間にか壁から降りて、立ち上がっていた。互いに向き合って、にらみ合っている。

 ユーグが先に視線を落とした。そして、力が抜けたようにまた壁に座った。


「俺にはそんな覚悟はない。俺も母さんが殺されたけど、そこまでできない。俺はお前が言ってたようにビビりだからよ、自分が死ぬことも、お前やシャル、ミラ、リック。それに、アレッサが死ぬことも恐れてる。怖くて、怖くてたまらない」

 俺は立ったまま動けなくなった。

 こんなにも情けないユーグは見たことがない。こんなにもはっきりと、気持ちを吐き出すユーグを見たことがない。こんなにも痛いほど、他人から気持ちが伝わってきたことはない。


「俺は兵士には向いてないんだ。お前みたいにずっと前を見てはいられない。横で仲間が倒れたら、俺はそこで立ち止まっちまう」

「俺だって、前ばかりみてるわけじゃ──」

「いいや、お前はどこまでも真っすぐなやつだ。立ち止まることも、曲がることもしない。表彰式の直前、俺にも塔に登ればお前みたいにできたって言ったけど、そんなことはない。俺には無理だった。お前だからできたんだ」

 ユーグの声は震えていた。

 俺はなんと言っていいか分からなかった。こんなにも、かけるべき言葉が浮かばないのは初めてのことだった。


 ユーグは立ち上がって、俺の前に立った。


「俺は兵役が終わったら、この城から去ろうと思う」

「っえ……。お前、どういうことだよ」

 俺は咄嗟にユーグの両肩を掴んでいた。


「どういうことかは言っただろ、俺は兵士には向いてない。そもそも俺らがここにいるのも、南部を失って行く当てのなかった大量の難民の中から、子どもだけでもまともな生活ができるようにと、徴兵という名で城に住まわせ、生きていく場所を与えてくれたからだ。全部ファーラル公のはからいでな。だけど、俺たちはもう大人だ。自分で選べる。あと半年もすれば兵役から解かれることになる。そうなれば俺はもう兵士じゃない」

 ユーグは俺の手を払いのけた。


「お前、一緒に兵士になろうって言っただろ。兵役が解かれた後も、ここで兵士になろうって。いつかシャルのもとで戦いに行こうって」

「──気が変わったんだ」

 ユーグは後ろを向くと、城の中へ通ずる階段の方へ向かっていった。

 言い返したかった。引き留めたかった。それでも、ユーグを振り返らせることができる言葉は何一つ思い浮かばない。

 いや、一つある。でもそれは卑怯だ。でも、それでも……。


「アレッサには言ったのかよ。あいつもここに残るって言ってたぞ。お前はそれでいいのかよ」

 ユーグの足が止まった。


「──そうなったら、残念だけど別れるだけだ」

 ユーグはそうつぶやくとまた歩き始めた。


「嘘つけよ。お前にそんな選択肢あるわけないだろ。俺にだって分かってるぞ、お前がどれだけアレッサのことが好きか。アレッサだってそうさ。

 おい、ユーグ! ユーグ……」

 ユーグは俺の前から消えた。


 俺はまた、拳を握りしめていた。爪が深く手の平に食い込む。俺は自分が情けなかった。親友をここに留まらせるのにあいつの弱みを突いた。自分の言葉じゃ振り返ってくれないことが分かってたから。


 俺はその場に座り込んだ。


 俺はお前とずっと一緒だと思ったから、兵士を続けていけると思った。お前たちがいるから、前だけを見ていられた。お前たちがいなくなったら俺は、俺は……。


「クソッ!」


 俺はなんて卑怯なんだ……。

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