荷台の上で揺られること一時間、フレインズ橋に到着した。


 橋は関所や防御拠点としての役割もあり、橋の上には石造りの堅牢な要塞が聳えていた。橋は二本あり、そのどちらも細長く伸びて、双子のように並んでいる。その橋の両岸に、合わせて四本の四角い塔が立ち、それぞれの塔を繋ぐように回廊が伸びている。上空から見るとちょうど川の上に巨大な額縁を乗せたような形になっている。


 橋以外の川の両岸には多種多様な植物が群生して鬱蒼とした森を作り、それがざわざわと動いて不快な音を立てている。この音が兵士の誰もが橋に行きたがらない理由だった。

 橋を通り抜ける僅かな間ならば大して気にすることもないのだが、これが一晩中見張りのために留まるとなると、途端に耐えがたい苦痛をもたらすことになる。葉が擦れ合う独特の音階はさながら悪魔が爪や牙を研ぎ、時に嘲笑っているかのように聞こえた。

 その見えざる恐怖は、兵士たちの気を触れさせるには十分すぎるものだった。そのため、この橋への一週間以上の滞在が、隊内の規定として厳しく禁じられているほどだった。


 シャルはその森を見て、以前ここに滞在した時のことを思い出し、身震いがした。そして、できればここに留まるようなことにはならないことを切に願った。


「いつでも気味が悪いなーここは」

 ギルが兵士たちの気持ちを代弁したかのように言った。しかし、その言葉にはあまり切実な恐怖は感じられず、森が奏でる騒音を疎ましく思っているだけのようだった。


 兵士たちは橋の手前で急かされて荷台から降り、すぐに走って橋を渡らされた。一つ目の塔を潜り抜け、回廊の下を押しつぶされそうな錯覚に襲われながら過ぎ、二つ目の塔へと入る。塔を抜けた先はいよいよ放棄された土地である南部だった。おのずと兵士たちの緊張感も高まる。

 兵士たちは上官の指示に従いアーチ状の門を潜り南部に足を踏み入れる。すると目の前には、真っ黒な何かが丘の外形に沿って並んでいた。それはまるで丘の頭部に毛が生えているかのようだった。


「なあ、あれって」

 ギルは走りながらシャルに尋ねた。


「うん。奴らだよ。オズノルド軍だ」

「──だよな」

 ギルの手に力がこもり、その見開かれた目から再びあの炎が燃え上がっていくのをシャルは感じた。そんなギルを恐ろしく思うと同時に心配でもあった。


「素早く動け! とっとと陣形を組むんだ!」

 上官が命令を飛ばし、兵士たちを誘導する。


 日頃の訓練の成果もあり、すぐさま陣形が組まれた。兵士たちは橋を守るようにして横陣を敷き、最前列には二メートルはある大盾を構えた重装兵が、後列には弓矢を手にした遠距離部隊が並ぶ。橋の上の要塞には、屋上や建物内部の窓から黒色の砲口を覗かせ、敵に向けて既に狙いを定めている。


 シャルたちはというと横陣の中列やや後方で、橋から見て右端に居た。

 というのも、アレッサが皆を引っ張ってどんどん橋の中心から離れる方向に進んでいったからだった。ユーグがどこまで行くのかと問うても、アレッサは何かに取り憑かれたように端へ端へと移動し続けた。シャルはその横顔に鬼気迫るものを見て取った。ようやくアレッサが歩みを止めたときには、川岸の森が頭上まで迫り出し、ざわめきがすぐ耳元から聞こえるほどの場所にいた。


「──おい、ここってめちゃくちゃ端っこじゃねーか」

 ギルは周囲をきょろきょろと見回した後、緊張感の欠片もなく言い放った。


「いまさら気づいたのかよ」

 ユーグは呆れたように言った。


「いやあの悪魔どものことしか見てなかったからよ。もっと真ん中の方に行こうぜ。ここだと戦果があげられねえ」

「もう遅いよ。どこももう整列し終わったころだ」

 シャルが移動しようとしているギルの腕を掴みながら言った。


「なんだあ……。まあ、いいか。でもなんだってこんな方まで来たんだよ。訓練の時はいつももっと中央寄りだし、前だろ?」

「それはアレッサが……」

 シャルはつぶやき、いつも以上に真っ白な顔をしたアレッサを見上げた。

 ユーグも不安げにアレッサを見つめている。


「私はただ、みんなに……」

 アレッサは口元を強張らせ、うつむいた。


「らしくないな。はっきり言えよ」

 ギルはぶっきらぼうに言った。

 アレッサはしばらく揺らめく瞳でギルを睨むと、髪を乱雑にかき上げた。


「──べ、べつに、なんとなくよ。なんとなく。直感ってやつ。私の直感は意外と当たるのよ。後で感謝することになるわ」

 アレッサはふんっと言ってようやく兜を被った。


「直感って。お前そんな占い師みたいなことできたのかよ」

「そういうんじゃないってギル」

 シャルはため息交じりに言った。


「ほんとバカだなお前」

「なんだユーグ。お前も俺と大して変わらないだろ」

「座学はな。だが頭の良さの基準ってのは座学だけじゃ測れねえ」

 ギルとユーグは顔を突き合わせる。


「やめなよ、こんな時に──」

「おいそこ! 何をしている。しっかり並ばんか!」

 ギルとユーグは上官から注意され、渋々並び直した。


「ほら注意されたろう」

「ちぇっ」

 ギルはそう言って、再び視線を敵軍の方に向けた。

 シャルはやれやれと兜を被っていたことを忘れて、頭の後ろに手を当てた。そのせいで兜がずれてしまったので、かぶり直していると、右隣に並んでいたミラから話しかけられた。


「わたしは、こっちに来られて、良かった。真正面からなんて、ぜったい、怖いよ」

 ミラの小さな体が呼吸で激しく膨らんだり縮んだりを繰り返している。


「そうだね。僕も、こっちの方がよかったかな」

 シャルはそう言ってミラの背に手を当てた。そして、できる限り声の震えがミラに伝わらないように続けた。


「それにここは比較的安全だよ。だから大丈夫ってわけじゃないんだけど……。不安になったら植物のことを考えなよ。ちょうどすぐそこに森もある」

 ミラは緊張で上気した顔をシャルに向け、「うん」と消え入りそうな声をしてうなずいた。


 ミラは無類の植物好きで、城の図書館にある関連本を読み漁り、知識量で言えばそこらの科学者に引けを取らなかった。


「ファーラルの兵たちよ‼」

 突然、前方から大声が響く。


 正面を見ると、最前列で大公が剣を掲げていた。しかし、この位置では大公の剣くらいしか見ることはできなかった。


「恐れることなかれ‼ お主らには南部で悪魔狩りと恐れられし、この大公がついている。安心して目の前の敵を屠ることだけを考えよ‼ 希望を守り抜くのだ‼」


 ──オォッ‼


 大公が檄を飛ばすと、兵士たちが今日一番の吠え声を上げた。その声は一瞬だけだ

が、森のざわめきに勝るほどだった。


 シャルは手汗でじとじとと湿る手のひらを服の裾で拭い、震える手で腰の剣に手をかけた。緊張のあまり視界がぼやけ、目を強く擦りつける。大公は列の前からいなくなっていた。恐らくは指揮のために後方へ戻ったのだろう。


 シャルは何となく気になって後ろを振り返った。塔の上ではいくつもの大砲が口を出し、兵士たちがそのそばで待機している。二つの塔に挟まれた回廊の屋上では父であるファーラル公が立っているのが見えた。その顔までは見えなかったが、険しい表情をしているのが想像できた。

 ふと、父は、リックは大丈夫だろうかと不安に襲われた。当然要塞の上にいるのだから一番安全ではあるのだが、なぜだか嫌な感じがした。それこそアレッサが言っていた直感のようなものが、シャルに激しく警鐘を鳴らしている。


 考えてみれば、ここに来る前からずっと違和感があった。何かがおかしい。だけどその正体は霧のようで実体がない。

 これが緊張から来る、ただの杞憂ならいいのだけれど。


「シャル。やつら動いたぞ」


 シャルはギルに小突かれ、正面に広がる丘を見た。丘の上に並んでいたオズノルド兵たちは、ファーラル軍同様に横陣を敷いて進軍してきた。黒い一団が一糸乱れぬ動きで丘を下ってくる。


「悪魔どものお出ましだ」

 シャルにはギルの興奮が伝わってきた。

 ほんの少しの恐れと、悪魔を殲滅させたいという正義。見張っておかなければとシャルは強く思った。ギルは良くも悪くも真っすぐ過ぎる。このまま突っ走って敵の大群に飲み込まれないようにしなくては……。


 オズノルド軍は丘を降り切ってもまだ足を止めなかった。


 やはりなにかおかしい。あんな攻め方は無防備にもほどがある。丘上という戦略的にも有利な地を確保しておきながら、わざわざ平地に降りてきた。そうなれば、今度は要塞という高所を取っているこちらに分がある。それは敵も分かっているはず。ならどうして? 敵は何を狙っている? この状況から有利に持ち込める方法は……。


 シャルは胸騒ぎがして塔を見上げた。そこでは、ファーラル公が手を天に向けて伸ばしていた。


「撃てっ‼」

 ファーラル公は腕を振り下ろすとともに声を張り上げた。


「伏せて‼」

 同時にアレッサが叫ぶ。


 次の瞬間、大砲から放たれた無数の弾は、真っすぐにシャルたち、ファーラル兵の頭上に降り注いだ。

 弾は空中で破裂すると緑色の煙を上げながら、さらに小さな無数の弾を弾き出し、兵士たちの上に降り注ぐ。

 さらに、弾の内のいくつかは着弾と共に兵士たちを押し殺すと、中に入っていた何かが勢いよく殻を破って飛び出した。

 それは三メートルほどの背丈を持ち、チューブのように細長い黄緑色の体が幾重にも絡み合い、十本以上はある腕には先が尖り根元が大きく膨らんだ指のようなものが最低でも十本。一メートルはある頭部は平べったく喉まで裂けた巨大な口には灰色の牙、そして紫色の唾液が垂れ下がり、地に伏した兵士の死体を骨まで溶かしている。


 それはまさに悪魔だった。オズノルド兵が知恵を持つ人の悪魔とするならば、それらはただ自らの本能にのみ従って生きる、植物の悪魔だった。

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